第八十話
初音は防災リュックから、1冊の本を取り出した。
愛読書の童話集だ。心の支えとして持ってきたものである。
ただ、近頃はさくらの看病もあり、読む機会が少しずつ減っていった。
改めてページをめくり、目を通す。
悪の魔法使いと闘った少年少女が。
異なる種族と暮らすことを決めた子供たちが。
異なる世界へと旅立った者たちが。
本の中には何人もいた。
読むたびに勇気をもらい、行動力の源となった、物語の数々。
今こそ勇気が欲しい。
何も恐れぬ覚悟、胸を張れる運命の選択を。選ぶ勇気を。
誰にも何にも阻まれぬ、運命の選択を――
「……茶太郎。コロちゃん」
童話集をリュックにしまい込むと、初音の両目から、一筋の涙がこぼれた。
小さく微笑みながら涙をながす初音の表情に、茶太郎とコロ左衛門は全てを悟ったようだ。
茶太郎が必死になって初音の膝にしがみつく。思いとどまるようにと伝えようとしていた。
だが初音としばし目を合わせるうち、小さな体からは力が抜けていった。
諦めた…というより、初音と共に行く覚悟を決めたように、周囲からは見えた。
イトは怪訝な表情で様子を見ている。
「わふ…!」
「フニ~」
コロ左衛門は初音の顔面に飛び掛かる。
その姿を見て、初音を囲んでいた実たちが、異変に気付いた。
成子が初音にしがみついたコロ左衛門をはがし、実は初音の肩に手を置いて、初音を己の方に向かせる。
成子、きのめが続けて初音の顔を覗き込む。花咲家の面々は、一様に初音の表情の変化に気付いていた。
「初音! …何をする気なんだ、初音!」
「答えてちょうだい、初音…おねがい」
両親の懇願に、初音は涙を流しながら、小さく微笑んで答えた。
「お父さん、お母さん……………
私…
私、さくらちゃんの所に、行くね…」
娘の言葉を反芻し、実はしばしその意味を考える。
さくらの所に行く。今、さくらの所に行く。初音がしようとしているのは――
「駄目だ、初音!!」
立ち上がろうとした初音の手を、実が咄嗟に握り、阻む。
今さくらの所に行けば、スクナに殺されるか、それとも…
コロ左衛門はその意味を知り、初音の行動を阻もうとしていたのだ。
イトも気づき、コロ左衛門をけしかける。
「コロ左衛門、初音様を止めるのです!」
「フニ~」
「わふーっ!」
はがされたコロ左衛門は、ふたたび初音に飛び掛かろうとする。
その頭を茶太郎が押さえ込んだ。今までに見せなかった、真剣な表情で。
茶太郎は初音と共に行く覚悟を決めたのだ。
そしてまだ普通の犬である茶太郎に対し、妖怪であるコロ左衛門は迂闊に力を揮えない。
それ以上に、茶太郎の腕力が予想外に強かったらしい。
下敷きにされてじたばたともがいていた。
愕然とするイトを尻目に、初音は茶太郎の頭を軽くなでてやった。
「わふ!」
「ありがと、茶太郎。
――あのね、お父さん、お母さん、私決めたの。
私、さくらちゃんの所に行くの。…イトさんも、ごめんなさい」
「初音様……ですが、わが娘は、さくらは…
あなた様を護ろうと…後生でございます、おやめください!」
抗議するイトの言葉に、初音は首を振った。
「わかってます。さくらちゃんは、ずっと私のことを考えてくれてて…
でも…ここにいたままじゃ、もうさくらちゃんと、会えないかも知れないから…」
初音の意思の固さに、イトも、コロ左衛門も、抗議を止めてしまった。
初音を引き留めようとしていた実もまた、成子に視線を送り、妻の意思を知って初音の手を放してしまった。
成子は初音を止めようとしなかった。むしろ送り出そうと考えているのが、表情から実にもわかった。
そして異変に6-1の子供達も気づき、青ざめている。
その後ろ、見守る千歳だけは成子と同じ表情をしていた。
すなわち茶太郎と同じく、初音を促そうとしている。
「花咲!」
「駄目よ、理一君」
初音を止めようとした理一の肩に手を置き、止める千歳。
子供達の視線が集まる。
理一ら6-1の子供達は初音を止めようとしているが、千歳はそれに首を振る。
千歳の手もまた震えていた。本音では初音を止めたいのだろう。
だが教師…すなわち人生の師として、初音の決断を尊重している。
尊重しなくてはならぬと、己に言い聞かせている。
「駄目よ。初音さんが選んだの。みんな、止めては駄目。
友達を後悔させては、駄目なのよ…」
「先生…」
すがりつく子供達に答えず、千歳はうつむいた。それで彼女は黙ってしまった。
外では巌十郎と辰丸が結界を張り続けている。
この状況に気付いていないのは彼らだけだ。
全員が押し黙ってしまった。初音の決意を、この場の全員が理解してしまった。
しばしの沈黙――そして、成子がかがみ込み、初音の肩に手を置いた。
「この前約束したわね。
あなたが自分で選んだ決断なら、お母さんは応援する。どんなことになっても。
自分の一番大事な人を、自分の一番の気持ちを、ちゃんと大事にしてあげて」
「お母さん…うん、ありがとう…」
「…実さんもお願い。約束して、何があっても初音を応援するって」
うつむき黙り込んでいた実は、成子の言葉に顔を上げ、再び初音の手を握った。
今度は止めるためではなかった。
「そうだね、成子さん……初音、約束するんだ。
お前が一番、胸を張れることをして…そして、ちゃんと胸を張って生きるんだ。
僕もお前の決断を応援する。約束するよ、初音」
「……うん。約束!」
実が、成子が、そしてきのめが初音を抱きしめた。
家族の優しい抱擁に身を任せ、初音は温もりの中で涙を流す。
そして家族が離れると、初音は涙をぬぐい、茶太郎を抱き上げた。
茶太郎が初音の胸にしがみつく。床に伏せたコロ左衛門は、しばし逡巡しているが…
「わふっ」
「茶太郎、行こう。…コロちゃんもおいで。
一緒にさくらちゃんの所に行こう…」
「フニ~」
友の名を出されては敵わぬとばかり、ふよふよ浮いて初音の肩に乗る。
一度全員の顔を見渡す初音。自身を支えてくれた人たちに何を言えばいいか。
少し迷ったように黙っていると、その肩にきのめが軽く手を置いた。
柔らかな笑顔が、ランタンの光に照らされている。
「お行きなさい、初音ちゃん」
「…うん。いってきます!」
駆け出す初音。誰もが立ち止まり、初音の背を見送る。
イトが追いすがろうとするも、両脚を喪った彼女では立ち上がれない。
声を上げ、外にいる巌十郎達を呼んだ。
「巌十郎様、辰丸、初音様をお止めください!」
妻の声に気付き、玄関前に立った巌十郎が振り向いた。
初音が靴を履いて出てくるのを、その大きな体で阻もうとする。
だがいつの間にか実が初音を追い越し、玄関から出て巌十郎の手を掴んだ。
気を取られつつ、巌十郎と辰丸が初音に呼びかける。
「どこへ行くのだ、初音殿! さくらは今――実殿も放しなされ!」
「バルル!」
「止めないでください。僕の…僕たちの大事な娘が、決めたことなんです!!」
父が娘の危機を敢えて看過する事実に、巌十郎と辰丸は愕然とし、一瞬動きを止めてしまった。
豪雨の中に跳び出した初音の黒髪が、たちまちのうちに冷たい雨に濡れていく。
赤い稲光が一瞬だけ初音、茶太郎、コロ左衛門の影を浮かび上がらせる。
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