第七十八話
何かが激突したかのごとき衝撃に、初音は胸を押さえて倒れ込む。
取り落とした湯呑から緑茶が飛び散り、床を汚した。
「うっ………!!」
小さな肩を実と成子が支えた。茶太郎が不安げに鳴く。
「わふ! わふ!」
「しっかりしろ初音!」
「初音、どうしたの!?」
両親と茶太郎の声が聞こえ、初音は我に返った。
この衝撃。鬼桜の紋の明滅。鬼仁鋼を宿した証である、この紋章の明滅。
何が起こったか――初音は直感で理解した。
「鬼仁鋼が、壊れた……」
その言葉にイトが振り向く。驚愕に開かれた目で初音を見つめ、問う。
茶太郎の声を聞きつけて6-1の子供達が集まってきた。
「…初音様。それは誠なのですかっ……!?」
「はい…今、私の中に戻ってくる…!」
初音が言った通り、応接間の中に桜色の光点がいくつも生まれた。
よく見ると、金属片らしきごつごつした形のものばかり。
それが初音の胸に集まり、鬼桜の紋に吸い込まれ、消えていった。
魔妖夷を討つという使命を果たせず、砕け散った鬼仁鋼が、初音の体内で修復を始める。
――即ち今、さくらはほぼ丸腰。せいぜいいつもの鉄下駄、そして残り少ない針くらいしか武具が無い。
そして鬼力発動の起点となる武具、鬼仁鋼が無いということは。
「さくらちゃん…さくらちゃん、今、鬼力が…!」
初音を始め、全員の顔が青ざめた。
鬼力を封じられてしまった今、さくらの膂力は常人より少し強い程度しか無い。
スクナ相手に鬼力を発動してなお打ち勝てなかったのに、その程度の膂力で勝てるはずが…
がくりとうなだれ、震える自らの肩を初音はかき抱いた。
「さくらちゃん……」
愛しい少女が殺されてしまう。別れすら伝えられぬままに。
届くはずもないその声は、ただ社務所の中で虚しく響くだけであった。
直後、先刻から何度も聞こえていたのと同じ、建築物が爆散する音が聞こえた。
幾度も聞こえたその音にこの瞬間だけ不安を覚え、初音は思わず立ち上がる。
「初音様!」
イトが呼ぶのを無視し、初音は窓を開け、住宅街を見下ろした。
そこに見えたのは、住宅街にそびえ立つ異形の巨躯。腕は4本あった。スクナであることは間違いない。
そしてスクナは、切っ先でさくらを串刺しにし、天に掲げていた。
いつかの魔妖夷と同じく、スクナは鬼を討ったと誇らしげに掲げている。
串刺しにされた小さな体の両手足が力なく垂れさがり、傷口から血が流れる――
初音の目にはくっきりとその光景が映った。
「…さくらちゃん……」
膝からくずおれた初音の頬を、絶望の涙が流れた。
住宅地はスクナの周囲一帯、半径200メートルほどが瓦礫の山になっていた。
降り続く豪雨が地面を濡らし続け、無数の破片の間を雨水が流れていく。
日本潰滅…そして最終的には全人類絶滅をも狙うため、力を温存し、この程度の被害に収まったのである。
そしてスクナは突き刺したさくらを天に掲げ、叫んだ。
『『見ておるか、鬼ども!!
うぬらの遣わした小娘は、この己が討った!!』』
どす黒い声で高らかに叫ぶ。その声は幽世と化した町全体に響いた。
『『のこる鬼ども、邪魔立てすればすべてこうなる!!
最早うぬらに己を阻む術など! 無いのだぁ!!
ぬぁあああ――はははははは!!』』
これは事実上、スクナによる降伏勧告であった。
残された子供の鬼の中でも、さくらの実力はずば抜けている筈だった。
そのさくらが鬼力を上乗せされ、なお敵わなかった。
もはや自分自身を阻める者は無いという宣言だ。
スクナは刀を振り下ろし、さくらを地面にたたきつけた。
豪雨で水浸しになった路上に小さな体が倒れ、着物と同じ赤色の血が広がっていく…
大量の血を喪い、褐色の肌はまたも土気色になりつつあった。
だがその手が動いた。さくらはまだ生きている。否、スクナが殺さなかったのである。
「うぅ…」
這いずり、どうにか起き上がろうと顔を上げるさくら。
いまだ両目は闘う意志を湛えているが、あまりにも傷が大きく、体を起こすことさえできない。
その眼前でスクナはかがみ込み、さくらの目を覗き込んだ。
二つの顔が並ぶ形のため、正面を向く視線ではさくらと目を合わせられない。
だがさくらは、明確に目が合ったことを感じた。
にたりとスクナの口角が上がる。
『『ほれ、早う目を覚まさぬか餓鬼が』』
「ぐっ…おのれ、スクナ……」
己が生かされていることにさくらは気づいた。
これほどの実力を持つのなら、子供の鬼を一人殺すなど造作もない筈である。
何かの意図があることをさくらは察したが、言い当てる前に、目的をスクナ自身が話した。
『『うぬには詫びてもらわねばならぬのだ。鬼どもの誠意としてな。
二度と手向かいしませぬと、この場で俺に詫びろ。ほれ、頭を下げい』』
「ほざけ…わらわは、負けておらぬぞ…!
誰が、貴様に頭など…下げるか…!」
腹の傷からは大量の血、そして黒い炎が噴き上がっている。
さくらは激痛に耐えて立ち上がろうとするも、傷口を焼き尽くさんばかりの炎の熱に、伏せたまま立ち上がれずにいた。
スクナは厭らしい笑みを浮かべたまま、さくらを見下ろしていた。
単純に実力差があるだけではない。
法力による結界で封じられつつありながら、スクナが何故力を取り戻せたのか。
その謎を解かねば討つことはできない。
そもそも目覚める前も邪気を溜め続けていたのだ。
本来なら封印によって意識も失っていた筈で、弱ることはあれど、強くなることは絶対にありえなかったのだ。
何故。何故、スクナは目覚めたのだ――
『『気になっておるのだろ。なぜ己が目を覚ませたのか』』
内心を言い当てられ、さくらは怯む。
『『気になるだろうのお。己は目を覚ませぬ筈で、邪気も溜められぬ筈だった。
手こずりこそすれ、討てるはずであったと。それがこのざまだからの』』
「ぐ、っ…」
『『簡単な話じゃ』』
倒れ伏すさくらを、スクナはただ嘲笑った。
そしてさくらの疑問の答えは、恐ろしく単純であった。
『『ずっと起きておったからに決まっておろうが』』
愕然として、さくらはスクナをふりあおぐ。
結界によって封ぜられ、意識を失っていた筈のスクナが。
つまり、最初から封じられてなどいなかったということなのか…
さくらの疑問に答えるように、スクナは話を続けた。
「莫迦な…父上たちの法力を防ぐなど…」
『『人はすぐ死による。ゆえに、恐怖も長続きせぬのだ。
己の手下の莫迦どもはそれも判らず、人の恐怖ばかり探りよる』』
「ならば、貴様は…!」
『『他にも己を恐れるものどもがおろう。人より長く生きる者どもが。
己はそ奴らの恐れを探り続けた。探るのは人の恐れでなくとも良いのだ。
のお、そうであろう娘。うぬもそのひとりなのだからのお』』
魔妖夷という怪物、そしてスクナを恐れ、恐怖する存在。
長くスクナと相対し、その恐ろしさを身をもって知る者達がいる。
人間以外に。
『『鬼ども、うぬらだ。己が叩き込んでやった、己への恐れよ。
手下の魔妖夷どもは思いもせなんだ。莫迦どもよな』』
魔妖夷は人の恐怖を探り、現世を幽世へと変転させつつ現れる。
だがその恐怖の源泉は、必ずしも人間である必要は無い…
まさにスクナが言う通り、スクナへの恐怖さえ感知すれば、出現できるのである。
鬼は長い長い年月の間、スクナと相対してきた。
特に魔妖夷討取改方の鬼たちは、直に闘い、恐るべき力をまざまざと見せつけられた。
或る者は手足を喪い、ある者は仲間や家族を目の前で殺された。
スクナの恐怖は鬼たちの心に刻みつけられた。今なお消せぬ恐怖である。
その鬼たちの恐怖を感知し続け、スクナは封じられながらも目覚めていたのである。
だがそれが全てではないと、スクナの説明は続く。
『『しかし、それだけで完璧に目覚めたわけではない。
うぬらの親どもは気力で恐れを押し込め、餓鬼どもは傷を癒やすべく眠り続けた。
ゆえに半端に目ざめたのみよ。頭の中こそ起きてはおったが、体は全く動かせなんだ…
だがのお、ある時。そ奴らの中にひとつ、すさまじい恐怖が生まれたのよ』』
目を見開き、口角をさらに吊り上げ、スクナがさくらの顔を覗き込む。
これまでの鬼を越え、さらなる恐怖を持った鬼がいるという。
さくらは己の理解の範疇を越えた話に、ただ聞き入るのみであった。
心当たりはない筈の話であったと、この時のさくらは思っていた。
それが覆されたのは、次の一言を聞いた瞬間だ。
『『己には見える…くく、恐れの源が見えるぞお…
その者はなぁ。目覚めた後、人の餓鬼を好いてしもうたのだ』』
「………!」
『『人と鬼、別れねばならぬのに。しかも人の餓鬼はこの己に狙われたと来た。
挙句に、そやつを護ろうと得物を呼び出せば呼び出すほど、鬼へと変わる…』』
さくらの体ががたがたと震え出した。
別れねばならぬ人間に対しての愛情。スクナに狙われている。
そして、鬼仁鋼をその身に持ち、召喚によって人から鬼へと変わってしまう人間。
――その人間を好いてしまった鬼。どれも心当たりがあった。ありすぎた。
さくらの顔がたちまちの内に青ざめていく。
人と鬼の交流やスクナの標的とされるだけなら、ほかの鬼にもあり得よう。
だが、鬼へと変えられようとしている人間など、他にはいない。
さくらが知るたった1人を除けば。
別れや鬼への変化に対し、さくらが恐怖を抱くたった1人の人間を除けば。
そしてその人間を好いたのもまた、ただ1人。
『『いつしかその鬼も、人の餓鬼を喪うのを恐れ始めた。
喪うことがわけもなく恐ろしいと。
そして鬼へと変えるのも、別れるのも、この己に魂を食われるのも。
凄まじい恐れでのお、たちまち目が覚めたわい。
………のお? どこのどいつのことか、知っておるかあ?』』
その人物を喪うのが訳もなく恐ろしいという、自分自身の思い…
認めたくない。認めてはならない。認めるということは、すなわち。
即ちスクナを目覚めさせ、初音に恐るべき運命を背負わせてしまったのは――
初音を恐怖の底に叩き落してしまったのは――
「ちがう……」
さくらはスクナに聞こえぬように口にした、つもりであった。
だがスクナの耳には届いていた。その事実すら思い至れぬほど、さくらは驚愕し、恐怖していた。
「ちがう、ちがう…そのようなこと…そんなこと…!」
『『かかか…くひひ、ひひひひ…
何が? 何が違うというのだ、ええ?
ほれ、認めぬか。己を呼び覚ましたのが誰なのか』』
否定の言葉をつぶやき、首を振って真実を拒絶しようとするさくらに顔を近寄せ、スクナが囁いた。
『『うぬだよ』』
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