第七十三話
初音がそう思った理由は無い。あくまでも直感である。
しかし初音の直感に気付くことも無く、すぐにさくらは顔を上げる。
「父上、母上…その時は皆をお願いいたします」
「うむ、そなたはスクナを討つのみで良い。他のことは我らに任せるのだ。
――初音殿。初音殿も、ご安心召されよ。我らが必ずそなたを護る」
巌十郎の言葉に、直感の正体を考えていた初音は我に返った。
さくらの表情は先刻と同じく和らいでおり、今しがたの違和感が嘘のようであった。
気のせいか、自分だけが気づいていたのか。初音は判らぬまま、巌十郎の言葉に返答する。
「は、はい…お願いします」
「うむ。――初音殿、さくら、それまでしばし憩うが良い。
いずれスクナが現れるであろう…その時に今一度参る」
巌十郎はさくらを再び撫でてやると、イトを抱えて立ち上がった。
夫妻は町を護るため、桜ヶ守神社での準備に再び取り掛かるようだ。
寂しそうに見上げるさくら。両親との再会で心が安らいだのは、間違いなくさくらの本心である…
初音にはそれが判るからこそ、先刻のわずかな表情の変化に、強烈な違和感を感じていた。
実たちが夫妻を見送る間、初音はさくらに寄り添い、今しがたの表情について尋ねようとした。
「さくらちゃん……今の」
「すまぬ。…今は言えぬ。勘弁しておくれ」
だが、さくらに拒否された。
食い下がろうとする初音を無視し、さくらはきのめを呼んだ。
「体を洗わねばな。すまぬがおばあ殿、風呂に入るのを手伝ってくれぬか」
「はいはい、ちょっとごめんなさいね初音ちゃん。
さくらちゃん、立てそう?」
「うむ…」
「フニ~」
さくらに肩を貸し、きのめはヨッコラセと立ち上がる。
1週間近く寝たきりだっただけに、さくらの脚力はやや弱っていた。
コロ左衛門もふよふよ浮きつつさくらを支え、共に浴室へと向かった。
外からは辰丸のものと思しき蹄の音が聞こえた。鬼煌院夫妻は神社に向かったようだ。
夫妻はさくらの表情の変化に気付いた様子を見せなかった。
気づかなかったのか、知った上で知らぬふりをしたのか…前者であろうと、初音は推測する。
――さくらは両親に、そして皆に隠し事をしている。
素直に言えず、それでいて隠すことに後ろめたさを感じている。
いかな隠し事か、詳細は初音にはわからないが。
「……さくらちゃん」
「わふ…」
さくらは胸の内に隠す思いを捨てきれず、誰にも言えぬまま、全てが終わるまで隠そうとしている。
一抹の不安に駆られ、初音はさくらの名を呼んだ。
茶太郎の鳴き声とともに、その声は虚空へと消える。
さくらは入浴を終え、洗面台の前の椅子に座り、ドライヤーできのめに髪を乾かしてもらっていた。
さくらが着ていた寝間着を洗っている洗濯機の上で、コロ左衛門が震動に身を任せて心地よさそうに寝転がっている。
入浴中ずっとさくらは項垂れ、何もしゃべらず、きのめの介助に身を任せていた。
そして程よく髪が乾いた頃。
さくらは鏡に映るきのめに視線を向け、重い口を開いた。
「…おばあ殿。誰かと別れ、二度と会えなくなったことは?
たとえ生きておっても、愛した者と二度と会えなくなったことはあるか?」
きのめの手が止まる。夫…つまり初音から見ると父方の祖父は、初音が物心つく前に亡くなった。
それ以外にも、彼女は長い人生経験の中、何度も今生の別れを体験してきた。
生き別れたまま二度と会えなくなった者。自分を捨てて遠くへ旅立った者。
沢山の出会いと別れを、彼女は経験していた。
そのいくつかを思い出し、きのめは答える。
「いっぱいあるわ」
「左様か…」
「さくらちゃんも、あるんじゃない? 私なんかよりいっぱい」
「うむ…だが……」
聞き返され、さくらは目を伏せる。
さくらもまた子供ながら、千年以上を生きている。別れは幾度も経験していた。
だが鬼としてごく当然のことでありながら、今代だけは違う。
初音とは、どうあっても別れねばならない…だが、後腐れなく別れるには、2人は交わりすぎていた。
――きのめもまた、さくらの内心に勘付いていた。
ドライヤーのスイッチを切り、言い出せぬさくらの頭をきのめは優しく撫でた。
さくらは意を決し、顔を上げてもう一度きのめに問う。
「…大事な者との別れの時、どう受け止めて、おばあ殿は何を想ったか。教えてくれぬか」
切実な視線に、きのめは若干戸惑った。
だがさくらの今の心境をすぐに理解した彼女は、優しく微笑む。
「うん…そうねえ…哀しくはあったけれど……」
「けれど…?」
「神様が決めた…運命って言うのかしら。
自分の手ではどうにもならないものだと、思うようにしてきたわ」
さくらが少しだけ目を見開く。
自身の手ではどうにもならない運命…人間の小さな力ゆえの諦観。
だが――鬼という人知を超えた能力を持つ存在であっても、届かないものはある。
幾つもの死を、幾つもの絶望を、千年近く魔妖夷と闘いながら、結局さくら自身どうすることもできなかった。
それでもさくらはまだ改方にいて、魔妖夷と闘い続けている。
どうにもならないものはどうにもならない。
改めて、自分もそう受け止めてきたことに、さくらは思い至る。
いかに鬼であっても、どうにもならない事実、手を出してはならないことは、それ以上に考えることはないと。
「そうか…うむ、それが良いな…」
「…でもね。できるだけのことはしておいた方がいいわ」
あきらめる前に、ときのめは続ける。
「最初からあきらめては駄目よ。
できることを少しでもすれば、変えられるかも知れないのだから」
「うむ…」
さくらもそれは理解していた。それで鬼や人を救ってきたこともあった。
それでも、届かないものは届かない。
手が届いてはいけないものもまた、存在する。
初音を鬼へと変えてしまうこと…それは初音の、人としての未来全てを奪うことになってしまう。
スクナを討つこと、初音を護ることが、今のさくらの使命だ。
スクナの魔手も。そして、初音の変身も。どちらも阻まねばならない。
――己の想いはそこに要らない。そのためにできることを、できるかぎり。
それが自らの使命だと、さくらは自身を納得させた。
「……うむ。かたじけない、おばあ殿。嫌な気持ちは収まった」
「それなら良かったわ。…本当に大丈夫?」
さくらの表情を見ながら、もう一度だけきのめが問う。
甘えるのが下手と巌十郎が言っていた通り、さくらは誰かに頼ろうとしない。
誰にも頼ろうとせず、一人ですべてを引き受け、そして心身の過労で倒れた末に亡くなった者を、きのめは何人も見てきた。
さくらもまた、誰にも頼らず倒れてしまうののではないかと、きのめは心配になる。
きのめの不安をある程度察したのではあろう、さくらは鏡越しに目を合わせて小さく笑った。
「うむ」
「そう…」
きのめの気遣いをそれ以上受け取らず、さくらは頷いた。
結局それから会話は続かず、この話はここで終わった。
さくらはスクナに挑むべく決意を固めた。
スクナを倒し、初音に別れを告げ、かくれ里へと帰る。
人は鬼と共に暮らせない。まして鬼へと変じてしまえば、全てを奪われるのと同じだ。
たとえ初音を泣かせても、別れなくてはいけない。
心に決めたさくらに、迷いは無かった。無いと、さくら自身は思っていた。
そう思いながら、さくらは自身の胸に手を当てた。
初音を想うと胸が高鳴る。
目覚め、初音と再び抱き合ったその瞬間。
さくらは己の想いの正体に気付いていたのである。
しばし平穏な日が続いた。
初音とさくら、茶太郎とコロ左衛門は、何かあればすぐ動けるようにと、居間で寝起きした。
初音は引き続きさくらに付き添うため学校を休み、授業の録画をクラスメイト達に見せてもらって勉強。
たまに千歳からも電話がかかってきた。そのたびに無事だと答える。
また、体育の授業ができないため、軒先でさくらと共に体も動かした。
実際1週間近くまともに歩いてもいない。いざ避難する時のためにも、体力は必要だ。
一方のさくらは、目を覚ましてから以前通りに食事をしつつ、食後には引き続き薬湯を飲んだ。
そのおかげで活力はすぐに戻り、目覚めて2日目には体を動かす訓練を始めた。
少し前までは土気色に近かった褐色の肌にも、艶が戻った。
きのめが鬼仁鋼の代わりにと物置から出した大きめのシャベルを、軒先で軽く振るう。
シャベルに当たる雫は飛び散る事さえ無く、蒸発するかのように消え去った。
見学している初音と茶太郎が、驚きに声を上げる。
よく寝て、よく食べて、よく体を動かし、休む時は休む。
初音とさくらはスクナの出現に備え、日々を過ごした。
その間もいつも通りに話し、2人で共に入浴した。
緊張はしつつも、表面的には平和だった――
そして、4日ほどが経った。
ある日の夜。
居間で眠りに就こうとしていた初音たちは、雷鳴の音にたちまち目を覚ました。
いざ避難する時のため、この何日かの間、花咲家の面々は、寝間着ではなく動きやすい服で就寝している。
この夜はいつもの私服で就寝しようとしていたのだが…
夜の9時30分過ぎ。空は黒雲で包まれ、星一つ見えぬほどに暗い。
少し遅れて足音が聞こえた。同じく就寝しようとしていた実たちも目覚め、集まってきた。
暗めのLED電球が点灯していた筈が、雷鳴と共に明かりが消えていた。
ただの雷ではないと、初音も、さくらも、そして誰もが予測していた。
「さくらちゃんっ…これ…」
「わふっ…」
「フニ~」
初音と茶太郎がさくらにしがみつく。その手は恐怖に震えていた。
どろどろと不気味な雷鳴が轟き、暗い居間に時折落雷の光が差す。
その色は赤――幽世の稲光の色だ。
さくらの目が驚愕に見開かれた。既に現世から幽世へと変転している。
コロ左衛門に至っては、ほとんど全身の毛を逆立たせていた。
異常なほどの邪気が、周囲一帯――恐らくは町一帯に満ちているのだ。
いつもなら初音だけが幽世に呼びこまれ、さくら達が駆けつける。
だが、ここには花咲家の全員がいた。敢えてさくらはそれを実に確かめる。
「おとう殿、皆おるな?」
「うん。…僕らも幽世に引きずり込まれたのか」
「そのようじゃ。恐らくすぐにスクナが現れる。
皆の者、桜ヶ守神社に行くぞ。すぐ支度をせよ」
「わかった!」
実の了承で、全員が上下一組セットのレインウェアを身にまとう。
いざ避難する時のため、防災リュックと共に居間に用意していたものだ。
茶太郎とコロ左衛門には初音が犬サイズの雨合羽を着せ、ハーネスで自分の体にくくりつけた。
防災リュックを初音と成子が背負い、きのめは年齢もあって素早く動くのが苦手なために実が背負い、成子が後ろから支える。
さくらの着物とたすきは避難用具と別の小さなバッグに入れ、かさばる木箱は置いていくことにした。
すぐに全員が準備を整え、さくらを先頭に家を出た。
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