第七十話
初音がノート取りを終え、寧々子と理一が花咲家を出ると、入れ違いに実が帰ってきた。
寧々子らを見送った初音と茶太郎がそのまま迎える。
先日からの雨の影響を考慮し、少し早めに業務を終了して、その後は住民からの電話への対応のために、何人かの職員が役場に泊まることになったという。
日中は住民からの対応に追われたらしく、実は疲れ切っていた。
「お帰りなさい!」
「わふ!」
「初音、茶太郎、ただいま。理一君達はノート見せに来てくれたんだ?」
「うん。今日の授業の分は終わり」
「そっか。初音もお疲れ様」
ねぎらいの言葉と共に、実の大きな手が初音の頭を撫でた。
台所では成子ときのめが夕食の準備をしていた。2人と帰宅の挨拶を交わす実。
実は一旦自室に戻って私服に着替え、初音と茶太郎はさくらの布団の隣に座る。
着替え終わって居間に顔を出した実が、さくらの無事を確認。
台所で夕食の支度の手伝いを始める。
休んでていいのにと成子は言うが、忙しいのはみんな同じと、実が受け流した。
災害一歩手前の豪雨で町役場は大変だが、実がいない間に初音やさくらを護らなくてはいけない成子も同じだ。
実の言う事は尤もであった。
初音は茶太郎とコロ左衛門とともに、さくらの青ざめたままの顔を覗き込んだ。
薬を飲ませたのは朝と昼の2度。そのくらいでは、まだ健康体とは言い難い。
「フニ~」
さくらの相棒であるコロ左衛門は、まだ不安そうだった。
そんなコロ左衛門の丸い背中を初音は撫でてやる。きっと大丈夫だと、励ます。
丁度そこに成子が顔を出した。気づけば夕食の匂いが漂っている。
「初音、そろそろご飯よ」
「はーい!」
成子の声に答え、初音は台所から料理を運んで、ちゃぶ台に並べた。
ほんのわずかに強くなった腕力のおかげで、多少重い皿でも難なく運べる。
鬼に近付きつつあるというのに、鬼そのものにはまだなれず、少し強い人間程度の腕力。何とも皮肉なことであった。
ちゃぶ台に料理が並んだところで、全員が席に着き、食事を始めた。
茶太郎はドッグフード、コロ左衛門は焼き魚。これもいつも通りだ。
「フニ~」
「わふっ」
コロ左衛門は初音の励ましを受けてか、旺盛な食欲で焼き魚にかぶりついていた。
初音と同じく、さくらの目覚めを待つのなら、自身が壮健でいなければと思っているのだろう。
僅かに無理をしているのは判るが、それでもコロ左衛門が落ち込んでいないことを知り、茶太郎も安堵した。
夕食を終え、さくらにも薬を飲ませると、入浴、歯磨きも済ませた花咲家の面々。そろそろ就寝の時間である。
実がちゃぶ台を居間の隅に置くと、初音の布団をさくらの布団の隣に敷き、枕元に茶太郎とコロ左衛門用のベッドを置く。
さくらと隣に並び、初音は布団に横になった。
戸締りを済ませた実たちが、初音たちに声をかける。
「じゃあお休み、初音。何かあったらすぐに呼ぶんだぞ」
「茶太郎もお休み。ちゃんと初音の事を見てるのよ」
「うん、お休みなさい」
「わふ!」
両親と就寝の挨拶を交わす初音、茶太郎。
実と成子が寝室に向かうと、きのめが最後に初音たちに声をかける。
「じゃ、電気消すわね。おやすみなさい」
「おやすみなさい、お祖母ちゃん」
「わふっ」
「フニ~」
初音が布団に潜り込んだところで、きのめが照明のスイッチを切った。
実らはそれぞれの寝室にいる。静かな居間では、屋外からの雨の音、そして初音たちの呼吸音だけが響く。
居間の所、初音たちが住む地域に注意報・警報は出ていない。
すぐに避難する必要は無く、自宅で安全を確保していれば良い程度。
初音、茶太郎にコロ左衛門、寝たきりのさくら…子供とペットだけで居間で眠っても、とりあえずは大丈夫そうだ。
薄暗いLED照明と屋外からカーテン越しに差す街灯の光が、さくらの寝顔を淡く照らす。
初音は布団から顔を出し、さくらの横顔をじっと見つめた。
(大丈夫、だよね…)
大丈夫だと信じてはいる。だが、相手は幾人もの鬼を一方的に叩きのめした化け物だ。
――眠る直前、急激に不安が湧き上がる。
傷の治療は済み、自身の鬼力を籠めた上で定期的に薬を飲ませているのだから、大丈夫だ。
初音は自らにそう言い聞かせた。
それでも不安は消えるわけではない。
初音はそっと布団から手を出し、隣に眠るさくらの手を握った。
冷たい。冷たいが、それでも命あるものの冷たさだった。
さくらはここにいる。生きている。自らの手で触れて、初音はやっと実感した。
ほんものだ。
安堵のため息とともに、幾分か不安が和らいでいく。同時に眠気が初音を襲う。
意識が薄れるなかでも、初音はさくらの手を離さなかった。
翌日、翌々日と、ほぼ同じように一日が過ぎていった。
予習復習、ノート写し、さくらに薬を飲ませ、夜は居間で並んで眠る。
看病の開始から2日後は土曜日で、宿題を済ませてからさくらの世話をした。
薬の効果で、さくらの顔色は日増しによくなっていった。
肌や唇は潤い、荒れていた髪も艶やかさを取り戻していった。
それでもまだ目覚めの時は訪れない…さくらを見つめる初音の不安げな表情に、実たち家族、寧々子ら級友たちも心を痛める。
気持ちが晴れぬまま、初音は日々を過ごした。
桜の樹が並ぶ森の中、初音は1人で走っていた。
森の向こうにさくらがいる。いるはずだ。会いたい、会いたい、会いたい…
時折つまずき、木の枝に額をぶつけ、舞い散る花びらが視界をふさぐ。
それでも初音は走った。さくらに会うために。
走り続け、やがて赤い着物に桜色の髪の後ろ姿が見えた。
さくらだ。
(さくらちゃん!)
呼んだつもりだが、声が出なかった。それでもさくらは振り向いた。
振り向いたが――その視線は哀し気に曇っていた。
どうしたの、何があったの、と尋ねようとする。さくらの手を握ろうとする。
だが初音の視界を無数の桜の花びらがふさぐ。
手で花吹雪をかき分け、さくらに触れようとする初音。
途端、さくらが両目を閉じ、仰向けに倒れる。支えようと初音は手を伸ばすが、間に合ったはずの手は空を切った。
さくらの全身が桜の花びらと化し、周囲に飛び散ったのである。
(さくらちゃん――)
再びその名を呼ぶ。だが、さくらはもうどこにもいなかった。
いないのだ、と理解した途端、初音の両目から涙がこぼれた。
さくらであった花びらをかき集めようとするが、手を伸ばす度に花びらは風に乗り、どこかに散っていく。
一枚の花びらさえ手に入れられず、それでもあきらめずに、初音は周囲から花びらをかき集めた。
それでさくらが再び姿を取り戻すわけもなく。
無為な行いを、涙を流しながら、いつまでも初音は続ける――
「さくらちゃん!!」
布団をはね飛ばし、初音は体を起こした。
荒い息の呼吸音が居間にひびき、全身が汗に濡れている。
焦燥感に駆られ、何度もさくらの名を呼びながら布団から出て、初音は周囲を見回した。
薄暗い照明に照らされて、さくらは布団に横たわっていた。
初音は這い寄ると、両手でさくらの手を握り、頬に触れた。
そこはいつもの花咲家の居間――時間は真夜中。
さくらがいて、茶太郎とコロ左衛門がいる。
夢だったのだ。
「さくらちゃん…ちゃんといる……いる…」
「わふ! わふっ!」
「フニ~」
初音の声で起きたのであろう茶太郎とコロ左衛門が、初音の手に縋った。
次いで足音3人分。実、成子、きのめが居間にやってきた。
「初音! どうした!」
「何かあったの初音!?」
「初音ちゃん!」
両親ときのめが来たことに、初音はやっと気づいた。
照明を点灯させたところで、全員の顔が見える。
成子がハンカチで初音の頬を拭った。
ここで、初音は自分の頬が濡れているのに気づいた。夢を見ながら泣いていたようだ。
夢――先刻の美しくも哀しい、そして恐ろしい夢を思い出す。
「――さくらちゃんが、いなくなっちゃう夢…を、見たの…」
初音の言葉を聞き、実たちは顔を見合わせ、次いでさくらの顔を見下ろす。
さくらが倒れてから3日が経過している。
薬を飲ませ休ませていることで、倒れた直後と比べ、確かに肌や髪の艶は取り戻している。
それでもまだ目覚める気配がない。そしてスクナが復活して以降、空にも一向に晴れ間が見えない。
目覚めぬさくらと降り続く雨で、初音自身も自覚せぬまま、不安がつのり続けたのだ。
実と成子が初音を抱き寄せ、頭を撫でてやった。
「初音、それは夢だよ。さくらちゃんはここにいる。判るだろう」
「そうよ、ちゃんと初音がお薬を飲ませてあげて、元気になってきてる。
嫌な夢だって、すぐに忘れるわ」
以前は魔妖夷の存在を忘れさせるための言葉であり、初音の恐怖をただの夢と切り捨てるだけだった言葉だ。
実と成子のその言葉が、今はさくらの死に恐怖する初音を励ます。
「大丈夫よ。きっとさくらちゃんは元気になって、スクナをやっつけてくれるからね」
「だから初音、さくらちゃんをちゃんと看ているんだ。いいな」
頭を優しく撫で、肩を抱き寄せる両親の手のぬくもりに、初音の心が安らぐ。
2人に寄り添い、しがみつき、言葉を胸の内で反芻する。
大丈夫だ。さくらは助かる。自分が助ける。そして、スクナと闘うであろうさくらを支える。
「うん…… ――うん…!
…私、さくらちゃんを、助ける…!」
「その意気だ、初音!」
「怖い夢なんて、すぐ忘れちゃえばいいのよ」
初音はこぼれる涙をぬぐい、うなずいた。
募る不安は和らいだが、消えるわけではない。
それでも両親の励ましが、不安に抗おうとする初音の意思を、優しく支える。
実の手が優しく背中を叩いた。成子の手が初音の頭を抱きしめる。
茶太郎とコロ左衛門もまた、初音の腕の中に潜り込み、大丈夫だと励ますようにしがみついた。
「わふ!」
「フニ~」
「…うん。怖い夢なんかに、負けないんだから」
もう大丈夫だと両親に伝えた所で、きのめが台所からマグカップを持ってきた。
温めた牛乳を満たしたカップから、ほわほわと湯気が立ち上っている。
「あったかいミルクでもどうぞ、初音ちゃん。よく眠れるわ」
「うん…ありがと、お祖母ちゃん」
マグカップを受け取り、ホットミルクを飲む初音。
力を籠めて割ってしまわぬ様、広げた両手でそっと手に持つ。
甘さと温かさに心が落ち着く。
きのめは茶太郎とコロ左衛門の分も用意し、食事用の皿に注いだ。
2匹とも揃ってミルクを飲む。
やがて空になったマグカップと皿をきのめが受け取り、台所で洗う。
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