第六十五話
肌色注意(文字だけど)
そこに居間に向かったはずの成子が戻ってきた。金属音と初音の声で異常を悟ったようだ。
状況を見て察したのか、成子は何も言わない。
「ご………ごめんなさい…取っ手、折っちゃった…」
震えながら謝罪する初音。その肩に、成子は優しく手を置いた。
「…今日はお母さんと一緒に入ろっか」
「………」
初音に悪気はなく、あくまでも肉体の変化の結果だと、成子には判っていた。
成子に宥められ、初音はゆっくりうなずく。
幼い頃以来、久しぶりの母との入浴であった。
湯船に浸かりながら、初音は成子の肩に寄りかかっていた。
体も髪も全て成子が洗った。今の初音の膂力では、浴室の機械類を破壊し、タオルを引きちぎってしまうからだ。
母と一緒に入浴するのは何年振りか…普段なら恥ずかしいと断っていたであろう。
今の初音は恐怖の極致を体験し、心がひたすらに弱っていた。
邪悪極まる魔妖夷の恐怖に打ちのめされ、さらにさくらは命の危機に晒されている。
挙句、初音自身は以前以上に鬼に近付いている。
心の整理がつかず、誰かがそばにいなければ、錯乱していたかも知れない。
タオルで黒髪をまとめた頭を撫でる母の手の優しさに、初音はやっと心安らいでいた――
それでも、さくらのことを忘れたわけではなかった。
「……ごめんね、初音」
唐突な成子の謝罪に、初音は驚いて顔を上げる。
「力になってあげられなくて、ごめんなさい。
初音はこんなに怖い想いをしてるのに」
「そんなの! …そんなの、お父さんもお母さんも…
私、お母さんたちがいてくれるだけで、それだけで…」
言葉が続かなかった。自分を護り続け、今なお支えてくれる両親への感謝が溢れる。
言葉を選ぼうとする初音の頭を、成子は優しく撫でた。
「…良い子ね、初音。でもね、私はあなたのお母さんだから。
力になれないのは辛いの。それに、あなたがずっと怖がってるのも解るわ」
「お母さん……」
「今だけでもいいから、お母さんは初音の力になれないかな?」
少しだけ辛そうな顔で微笑む成子に、初音は気づく。
自分は…自分もさくらも、まだ子供だ。日本を、人類を潰滅せんとする怪物相手には、あまりに弱すぎる。
そして悍ましい怪物に、どうにもならない現実に、今はそろって打ちのめされている。
さくらは体に、そして自分は心に重い傷を負った。
初音はやっと自覚した――今、誰かにすがりたい。
「…………怖かった」
初音は成子に抱き着く。自然と体の力が抜け、両腕は力なく母の背にしがみつく。
愛娘の細く小さな体を、成子は温かく抱きしめた。
「学校が悪い夢の中みたいになって、怖い魔妖夷に追いかけられて…
その間に…自分の手で、茶太郎のことを、絞め殺しそうになっちゃって…」
「茶太郎を…」
自身の肉体の変化がもたらしたことに、初音は未だに恐怖している。
自分を見守ってくれているはずの茶太郎の命を、自らの手で奪いそうになったのだ。当然である。
先刻の辰丸の背で抱きしめた時、よく殺さずに済んだと今になった思う。
「鬼に近付いて力が強くなったの…
ただ抱っこしてるだけでも、首とかお腹を締め付けてるから。
茶太郎は大丈夫って言ってくれたけど、もし止めてくれなかったら…」
さくらの鬼力でも、恐らく失せた命は取り戻せない。
もし茶太郎が知らせなければ、初音は親友を自ら手に掛けた上に、恐怖の底で嬲り殺しにされていたことであろう。
「そうだったのね…茶太郎はいい子ね」
「うん…でも…でも、その茶太郎も殺されかけて」
「うん」
「私も脚を切られて、さくらちゃんやコロちゃんは別の魔妖夷に噛まれて、死にかけてて」
「うん…」
優しく抱きしめる母に身を任せ、訥々と吐露しながら、初音の両目からはまた涙が流れていた。
こぼれた涙は成子の肩を伝い、浴槽にこぼれおちる。
「どうしようって、帰れなくなったら、さくらちゃんがいなくなっちゃったら――
しかもさくらちゃん、スクナに斬られて、治してもらったけど、でも、でもっ…!」
「うん。たくさん怖い目にあったのね、初音…
ちゃんと帰って来てくれて、本当によかった…」
「……お母さぁん…!」
優しく母に抱かれるまま、初音は泣いた。
――恐怖はまだ続いている。
治療は済んだとはいえ、スクナの一撃で、さくらの命の灯が消えかかっている。
大切なさくらが居なくなってしまうかもしれない、絶望。
適切な治療さえすれば完治すると説かれたところで、すぐに消えるわけでは無い。
それでも、自分が今無事でいることを、母が喜んでいる。それだけで恐怖が和らいでいく。
母が抱きしめ、父が支えてくれている。
自分は2人の許に帰ってきたのだと安堵する。
そして生き延びた今、さくらのために何かができるはずだと、少しずつ希望が湧いてくる。
両親に愛されている。その事実が初音の恐怖を打ち消し、心に希望をもたらした。
初音を真正面から見つめながら、成子は再び頭をなでてやった。
まだすすり泣いているものの、それでも初音の両目には光が戻っていた。
大丈夫かと確認する意味も込め、成子は今一度初音を抱き寄せる。
初音は頷いた。何とかなると、何とかできると。
「ちゃんとお薬を飲ませれば、さくらちゃんの傷は治る。
さくらちゃんのお父様がそう言っていたでしょう?
それにさくらちゃんが完治した時のためにも、初音が元気でいないと」
「うん――そうだよね。さくらちゃん、治るんだよね――
泣いてちゃダメだよね、そんな時なんだから」
「ええ。もう大丈夫?」
「うん…!」
どうにか気力を取り戻した初音を見て、成子も微笑んだ。
そして初音の胸、鬼桜の紋に触れる。
花びら4枚分の形。あと1枚で桜の花の形が完成する。
鬼仁鋼を召喚して初音が人間のままでいられるのは、あと1度まで。
さくらから初めてその説明を聞いた時、成子は絶望しかけた。さくらを責めようとした。
愛娘たる初音が、わずか12年で自分達の許を去るのみならず、人ではなくなってしまうという。
彼女は今でも、まだ納得できたわけではない。だが以前より、少しだけ受け入れられるようにはなった。
慣れと言えば慣れではある。だが、それだけではない。
さくらに闘ってほしいと願う初音の姿に、さくらを大切に想う心が見えていたからだ。
「…これができてから、もう2週間くらい経ったのね」
初音は自分の運命を受け入れ、立ち向かおうとしている。
先ほど自分に襲い掛かった出来事を話す間も、さくらや魔妖夷に対し、恨み言は1つも言わなかった。
スクナ復活が訪れようとしている中でも、決して運命そのものを恨んではいない。
今のように恐れに呑まれそうな時でも、それは変わらないのか。
最早鬼と化すことから逃れられないであろう今も、替わらないのか…
懊悩する成子は、初音に敢えて尋ねた。
「初音。初音はさくらちゃんを恨んではいない?」
「…え?」
「今言ったみたいに、鬼になることとか、怖い怪物に襲われるとか…
さくらちゃんに会わなければどっちも無かったでしょう。
普通に暮らせていた筈よ。恨んだことは無い?」
さくらを僅かに責めるような言葉であったが、成子の口調はいたって穏やかだ。
彼女にとってもさくらは娘のようなものだ。鬼とはいえ、まだ子供だ。
なにより初音を護ってくれている…そんなさくらを、当人が眠っているとはいえ、責めることはできない。
あくまでも初音とさくらの仲がこじれていないか、その心配ゆえの質問である。
初音は、首を横に振って否定した。
「無いよ。一回も無い」
「本当に? 一度も無いのね?」
「うん。…私ね、さくらちゃんと会えて、良かったって思ってるの」
僅かに驚く成子の前で、初音の指が自身の胸の紋章に触れる。
淡く輝く鬼桜の紋が、僅かに輝きを増したように、成子には見えた。
答える初音自身の表情には、むしろ幸福感さえあった。
「さくらちゃんは綺麗で、真面目で、強くて、とても優しいひと。
とても素敵なひとだよ。一緒にいると私、幸せなの。
だからね、恨んだことなんて一回もない。恨むわけなんて無いよ」
「………」
愛娘の初めて見る表情だった。
これまでも家族で一緒にいる時、クラスの事を話す時など、楽しそうに話す時は多々あった。
だが、この幸福感に満ちた表情になるのは、さくらのことを語っている今、成子が初めて見るものだった。
それほどまでに、初音はさくらに心惹かれている。
「…この鬼桜の紋は、さくらちゃんがくれた物なの」
「さくらちゃんが…?」
「去年、幽世に引きずり込まれた時。さくらちゃんが目を覚ます前…
私を助けるために、鬼仁鋼を私に取り込ませたって。
前の傷がまだ治ってなかったのに、そのためだけに、一回だけ目を覚ましたって。
だからこれは、さくらちゃんが助けてくれたっていう証」
成子には初めて聞く話だった。
さくらはこの時すでに初音を助けていたのだ。
異界を短い時間で往復した結果、魂が壊れてしまったが、それでも今生きている。
彼女の助けが無ければ、初音は今頃は魔妖夷の餌食になっていただろう。
「そうするしか無かったのね。眠っている間だから、さくらちゃん自身も憶えてなくて」
「うん。…そのおかげで今は生きて、さくらちゃんとお話ができる。
怖い事はたくさんあるけど、でも――でも、恨んでなんかいない。
さくらちゃんのためにできることはしたいし……それに、一緒にいたい…」
恐怖に満ちた現実への恐れと、さくらを想う幸福感の両方に、初音は複雑な表情を浮かべていた。
さくらと一緒にいることの意味を、成子も当然理解している。
しかし今、初音はさくらと一緒にいることを願っている。
鬼になる事への恐れを抱きながらも、矛盾する願いを抱いている。
たださくらと仲が良いから、友達だからで済むような理由ではない。
その感情の正体は判らない――だが初音が思うことは、成子には判った。
「……初音にとって、さくらちゃんは何より大事なひとなのね」
そう言うと、初音が目を見開いた。
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