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【完結】見参!おにざくら  作者: eXciter
第四幕:想い、やまぬ雨と
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第五十六話


 階段は長く、照明や採光用の窓が無いために薄暗い。

夢中で降りた末に最下段に到着。さらに下の階に向かおうとも考えたが、周辺に階段は無かった。

初音は上階を一度だけ振り仰ぎ、廊下に踏み出す。ばしゃり、と足が何かを撥ねた。


 「……水…?」


 壁にでたらめに並んだ窓から、薄曇りの陽光が廊下を照らした。

廊下は水浸しだった。深さは初音の足首より少し上まである。

外で降る豪雨が、壁のひびから流れ込んでいる。

しかも水は濁っており、足元はよく見えない…迂闊に走れば大きな音を立て、足元に危険物があれば負傷する。

幸い、深くはないため走るのに支障は無さそうだ。初音はすり足で歩を進めた。


 (冷たい…ずっと歩いてたら、凍っちゃう…!)


 だが、あまりに冷たい。真冬の水道水より遥かに冷たい水の中では、長く歩けそうにない。

幽世の豪雨は冷たい。それが一か所にとどまったことで、現実の水では考えづらいが、冷たさを増したようだ。

とはいえ踏みとどまってはいられず、やむなく手近な教室に隠れた。

すぐに引き戸を閉めて壁際に机を寄せ、その上に座った。足を上げて手で触れる――冷たい。


 獣人間が追って来る気配はない。

とはいえ、相手は気配を消せる魔妖夷である。

隠れたままとどまっていることはできない。

冷たい水に足を浸したまま歩いていくしかない。

しかもズック靴が無い分、水面下にガラスや鋭い石などの危険物があっても防ぐことはできない。


 状況をできるだけ冷静に頭の中でまとめたところで、初音は自らの手を見つめた。

先刻消火器を投げた時、それほど力を入れた自覚は無かった。

いわゆる火事場の馬鹿力であろうとも思ったが、それでも腕に痛みや疲労が残っていない。


 (……鬼に近付いてるんだ。私、あんな腕力なんてなかったはずだもの)


 怪我の治癒が早くなる、感覚が鋭くなるなど、鬼に近付くにつれて少しずつ肉体が変化する。

獣人間が侵入してきた時の聴覚の鋭さも、普段の自分自身なら到底考えられない。

さくらの言った通りだ。


 人としての全てを捨てねばならないというさくらの言葉が、少しずつ実感として身に染みていく。

もし父や母と手をつなぎ、力を御しきれず手をつぶしてしまったら。

あるいは、茶太郎を抱きかかえて全身の骨を砕いてしまったら。

今でこそ身を護るために腕力を発揮できたが、いずれは人間の範疇を越えた腕力で、愛する者達を傷つける。

そんな悍ましい光景を想像し、初音は身震いする。


 しかしそんな不安に浸る暇もなく、引き戸の外で水しぶきの音が聞こえた。

獣人間が階段を下り、廊下を歩いてきたのだと気づく。

何とかやり過ごして教室を出て、再び逃げなくてはいけない。

神社でもらった針の小箱はポケットにある。それも獣人間相手にどれだけ通じるか。

直接刺すには、子供の自分の膂力ではあまりに心許ない。


 『ひるるるるる』


 引き戸のすぐ外で声が聞こえた。

初音は机から静かに下り、氷のごとき冷水に再び足を浸す。あまりの冷たさにしびれや痛みが走る。

それでも足が床についている感覚を頼りに、静かに歩を進め、教卓側にあるもう1つの引き戸に近付く。

壁の向こうでは獣人間が廊下をうろつき、初音の気配を探っているらしく、僅かに水が波打つ音が聞こえた。


 獣人間も初音の足取りに勘付いている可能性はある。

教室を出た瞬間、鋭利な指で全身を切り裂かれるかもしれない。

あるいは壁に近付けば、壁ごと切り裂かれるかもしれない。

要するに、発見された時点で確実に殺される。


 (やるしかないっ…自分で、この針を…!)


 初音は自らが肉片と化す光景を想像しつつ、その恐怖を押さえ、小箱から出した針を1本手に取った。

すれ違いざまに針を刺し、その後別の階へ逃げる…

自らの命を投げ出すに等しい行為だ。

普通の人間より僅かに腕力が強い程度の己が為すには、あまりに無謀であると初音は理解していた。

それでも人外の邪悪に対し、今の自分が出来る対抗策は他にない。

恐怖と氷のごとき水に震える脚を掴み、叫び声を上げそうになる口元を引き締める。

初音は少しずつ引き戸に近付き――


 『ひるるる』


 途端、獣人間の声が遠のいた(・・・・)

廊下の幅の分だけ後退ったのだろう、遠のいたと言っても僅かに声が離れただけだった。

だが初音は殺気とも違う何かが向けられた気がして、咄嗟に自らも引き戸から離れた。

その判断が誤りだったと知ったのは、この直後。


 硬く重い音が壁、そして天井から聞こえた。

鋭利な指先で壁、さらに天井まで切り裂かれたのだ。

声が遠のいたのは獣人間自身が跳び退き、壁越しに天井を切り裂くべく、腕を大きく速く振るためであった。

当然天井が崩れ落ちて来る。飛び退った初音は慌てて机の下に避難した。


 「あっ、ああああっ!!!」


 衣服が水に浸かり肌を直接冷やすのも構わず、初音は机の下でうずくまった。

机の脚は破片の重みでひしゃげ、初音の小さな体を押しつぶそうとする。

教室が揺れ、轟音が響く中、初音は悲鳴を上げ続けた。


 「うわあああああああ!!」


 押しつぶされるか、それとも閉じ込められるかという恐怖。

先刻手に取った針はそれでも離さなかったが、恐怖に硬直した上、物理的にも動くことが不可能となった。

頭を両腕で庇い、瞼も固く閉じ、自然と耳も塞いでしまったことで、周囲の状況を初音は掴めなくなった。

突然の天井の転落に怯えるのも無理からぬ話である。


 しばし経ち、あらゆる音が消え、振動も止んだ頃。

初音は周囲の状況を確かめるために目を開け、そして固まった。




 『ひるるるるるる』




 目が合った。蛆虫のごとき眼球全て、初音の顔に視線を向けていた。

ひ、と初音の喉から息を吸う音が聞こえた。

瓦礫とひしゃげた机に閉じ込められ、空いた真正面にいるのは魔妖夷。


 ――ころされる――


 恐怖に硬直した初音へと、魔妖夷の手が伸びた。



 その少し前、花咲家。

成子のスマートフォンに突然の着信があった。

相手は初音の担任の千歳だが、電話口の向こうからは子供達の声も聞こえた。

電話に出た成子のみならず、横で聞いていたさくらにも、彼らの切羽詰まった声で状況が分かった。

曰く、学校の中で突然初音が消えたという。

さくらは戦慄した。


 「学び舎に幽世(かくりよ)が――莫迦な…!」

 『やっぱりそうなのね!? さくらさん、早く初音さんを助けに来て!』

 「心得た!」

 「フニ~」

 「わふ!」


 さくらはちゃぶ台の下から木箱を引き出し、すぐさま赤い着物を纏う。

そして玄関で鉄下駄に履き替える間、成子がさくらに問う。


 「さくらちゃん、私たちはどうしたらいい!?」


 答えたさくらの表情は切羽詰まっていた。

恐ろしいことが起こっていることが、成子ときのめにも判った。


 「おかあ殿達はここで待て。学び舎に出るとなれば、よほど恐ろしい魔妖夷じゃ。

  学び舎の桜の樹の守りを食い破ってきた。行けばお主たちも巻き込まれるやもしれぬ」

 「わかった。実さんにも一回うちに戻るように伝えるわ、あれが消えたら行く」


 玄関から顔を出し、学校と思われる地点のの上空にある雲を見上げながら、成子が言う。

幽世(かくりよ)に変転する予兆、もしくは変転した地点上空の黒雲は、鬼や相方の妖怪、そして花咲家の人間だけが見ることができる。

かつて初音が幽世に引きずり込まれた時、実と成子が駆けつけられたのもそのためだ。

さくらは背中にコロ左衛門を背負い、脇に茶太郎を抱え、玄関を出る。


 「頼む。では行ってくるぞ!」

 「わふっ!」

 「フニ~」


 鉄下駄の足音が瞬く間に遠ざかる。不安そうな顔で見送る成子の肩に、きのめが手を置いた。


 「きっと大丈夫。さくらちゃんが助けてくれるわ」

 「お義母さま…… ――はい。きっと、大丈夫です…」


 さくらが初音を救うために魔妖夷に立ち向かう。

今まで3度遭遇し、3度ともさくらは初音を救った。

だが今度だけは、不可思議かつ不穏な予感を、成子もきのめも拭いきれなかった。



 さくらは住宅街を走る。

桜ヶ守小学校への最短の道として、民家を跳び越え、電柱を跳び越える。

住民たちは鉄下駄の音に驚き、顔を出した。

その間、さくらは花咲家で待機していたことを悔いていた。


 髪切りと網切の魔妖夷を討った時、自身の胸の内に、熱い花が咲いたのを感じた。

間違いなく初音への想いだ。

だが鬼である自分が人を想い情を抱けば、別れがあまりにつらくなる。

始終そばにいれば尚更だ。募る初音への想いを押さえるには、離れるしかない。

それを押し殺そうと、魔妖夷が出た時に備えて花咲家に詰めている…そんな言い訳をしてしまった。

傍にいれば、このような事態への対処もできたはずなのに。

後悔と己への怒りに歯を食いしばるさくら。


 「初音っ…わらわのせいで…!」

 「フニ~」


 それを宥めるように、背中でコロ左衛門が一声鳴いた。

伝えんとする意図を理解し、さくらは表情を引き締める。


 「…うむ、悔いても始まらぬ。今は初音を救う方が先決じゃな。

  頼むぞ茶太郎、初音の許へと連れて行っておくれ」

 「わふ!」


 気持ちを切り替え、茶太郎と短い会話を交わし、そして何軒目かの民家を跳び越えて着地した時。

鉄下駄の甲高い音が響くのとまったく同時に、突然雨が降り出した。



読んでいただきありがとうございます。

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