第五話
さくらが呼ぶ声を無視し、初音は自分の部屋に戻った。
茶太郎も気づき、初音の後についていくと、前に回って止めようとする。
もうすぐごはんだよ、と言っているようだった。
初音は茶太郎の頭をなでると、その制止を無視して自室に向かう。
「初音? そろそろ――」
昼食の準備を始めようと立ち上がった成子が呼び止める。
「ごめんなさい、あまりお腹すいていないので…」
「そう……? 一応とっておくから、お腹が空いたら食べるのよ」
はい、と答えて初音は階段を上がり、自室に入った。
階段の下、茶太郎のキュゥンと小さく鳴く声が響く。
さくらはしばし考え、階段の上を見上げたのち、実と成子の方に向き直る。
「娘御とは仲が良くないのか?」
真っ直ぐに目を見られて実は口をつぐみ、深く息を吐きだした。
「…ちょっとね。ちょっと前、色々あって」
「色々?」
きのめの発言から、初音と両親の間にすれ違いがあったのだとさくらは納得した。
さくらは立ち上がると、コロ左衛門を胸に抱え、階段下で項垂れる茶太郎の頭をなでた。
「少し話を聞いてみようぞ。もしもではあるが、わらわにも関わりあるやもしれぬ」
「え、でも…」
「聞けねば仕方あるまい、迂闊には話せぬということだ。
女子の秘密を暴くのは無体というものじゃからな」
「フニ~」
それだけ言ってさくらとコロ左衛門と茶太郎は階段を上がる。
ふと、何故こうも容易く家族間の悩みを言ってしまったのか、実は考えた。
さくらには自然と言葉を引き出す、大きく温かな何かがある。
長い長い時間を過ごしてきた者としての、温かみと大きさであろう。
さくらなら初音が望むことを聞き出せるのではないか…実は密かにそんな期待を抱いていた。
さくらは軽く初音の部屋のドアを叩き、返事がないのを知ると入るぞと断って、部屋のドアを開けた。
初音はベッドに座り込み、1冊の本を読んでいた。先刻段ボール箱から取り出した童話集であった。
茶太郎がてふてふと小走りでベッドに飛び乗り、初音のヒザの上に座る。
「入るぞ」
「……何ですか?」
初音に冷たい視線を向けられても、さくらは動じることは無かった。
「うむ、おぬしが親御殿と仲が良くないと聞いての。何か助けになれぬかとな」
「いらないです」
そっけない初音の返事。茶太郎は膝の上で初音を見上げつつ、寂しげに一声鳴く。
「わふ……」
「まあそう言うでない。世話になる身じゃ、家人の不仲を放っておくわけにもいかぬ。
余計な世話であろうとは存じておる、話せぬのであればそれでよい」
さくらは初音に構うことなく、勉強机の前の椅子に座った。コロ左衛門がそのヒザにしがみつく。
初音は構わずさくらを無視し、童話集を読んでいる。
向かい合う位置のさくらが表紙を覗き込んだ。
「ふむ。おぬしは童話を好むか」
「フニ~」
「……」
初音が読む童話集から視線を逸らし、さくらの目は室内を見回す。
本棚には主に教科書類…小学6年生用のものだ。
他には若年層向け恋愛小説(らしき書物、というのがさくらの認識である)があるが、手を付けられた様子はない。
学習机には文房具や電気スタンド。ボタンなどの無い電気スタンドを、さくらは物珍し気に観察する。
衣装ケースやテーブルなどの生活用品はある。が、それ以外のものは殆どない。
初音の年代の少女の部屋としては、少々殺風景と言えた。
「今頃の子供は玩具では遊ばぬのかえ?」
「…」
「それとも、この犬がおるから必要無いか」
「わふ?」
立ち上がったさくらの手が茶太郎を撫でまわす。
自分の頭や背中を撫でる手に、茶太郎は満足げに身を任せた。
茶太郎が無警戒に他人に懐く姿に驚いて、初音の目が僅かに見開いた。
伸ばされたさくらの手を遮るようにして茶太郎を抱え込む初音。
しかしその目には怒りや苛立ちではなく、どこか寂しさが浮かんでいるようにさくらには見えた。
「…先ほども訊いたが、親御殿とは仲が良くないようじゃな。否、良くないというか…」
さくらの目が意味深に向けられたのに気づき、初音は僅かにたじろぐ。
両親から何か聞き出したのかと疑い、目を逸らす初音。
構わず、さくらは初音に尋ねた。
「おぬしが両親を信じておらぬというか。拒んでおるのか」
ページをめくる初音の手が止まった。
聞き流そうとして聞き流せず、本の陰で初音の表情がゆがむ。
思いやるようなさくらの声、そして本の向こうから感じた視線が、初音を苛立たせた。
「別に…」
「……言えぬか?」
「必要無いです」
苛立つ内心を必死に押さえ、初音は簡潔な言葉で拒絶した。
それをさいかに受け止めたのか…しばしの沈黙ののち、さくらは1つ息を吐いた。
「左様か」
落胆でも怒りでもない、ただ初音の返事をありのままに受け入れるだけの答えだった。
しかし用事が終わったからとさくらは階下に降りるでもなく、初音の部屋に居座っている。
初音は構わず本を読み続けつつ、膝の上から見上げる茶太郎を撫でて宥める。
その横にいつの間にかコロ左衛門が座っていた。
「フニ~」
「わふ…」
2匹が揃って初音を見上げる。本当にそれで良いのかと問うような視線で。
だが初音は答えず、2匹の視線を無視して本に没頭する――没頭している振りをする。
項垂れる茶太郎。その頭をコロ左衛門とさくらが撫でた。
ちょうどその時、階下から昼食を知らせる成子の声が聞こえた。
さくらは立ち上がり、コロ左衛門と茶太郎を伴って部屋を出ていく。
階段を降りる前に振り向き、もう一度だけ初音に声をかけた。
「飯もできたようじゃ。腹が空いたら降りて来るがよい」
それだけ言うと、さくらは2匹と共に階段を下りていく。
さくらと2匹の足音がドアの向こうに消え、少しずつ足音が小さくなっていった。
初音は1人きりになった…茶太郎を連れていかれたのは残念であった…のを悟り、本を閉じて膝の横に置いた。
うつむいた初音は唇を噛み、胸元で拳を握る。
さくらの一言…初音自身が両親を拒んでいるという指摘は図星であった。
初音は両親に対してまで敬語を使っている。
実と成子に向ける視線の冷たさを、彼女自身が自覚している。
それは望みもしない不和だ。
以前通りの関係に戻りたいと、初音は思っていないわけでは無い。だが…
見抜かれたのはさくらが目ざといからか。
それとも花咲家の親子を一目見ただけのさくらが見抜けるほど、露骨であったということか。
「………わかったようなこと、言わないでよ」
項垂れて膝を抱え、初音はつぶやいた。
怒りのままに自分の思いのたけを打ち明ける気力すら、今の彼女は持っていない。
それでも、さくらにならいつか――そんな気がする。
「…………わかってくれるのかな…」
わずかな希望とそれが裏切られる不安に、初音は懊悩する。
さくらの話し方からは、見た目に似合わぬ精神年齢の高さを感じる。
きっと両親の方が話が合うだろう。自分の言葉など聞いてはくれぬだろう。
そんな不信感が…かつて両親に対して抱いた不信感が、未だ消えずに靄の如く胸の内に立ち込めている。
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