第二十話
肌色注意(文字だけど)
湯船の温度と恥じらいで初音の頬が熱を帯び、赤らむ…
と、ふと見ると、さくらはじっと初音の横顔を見ていた。
先刻までの穏やかさと異なる、真剣な眼差しだ。
ドキリと胸が高鳴るのをどうにかこらえつつ、初音は気持ちを無理やり落ち着けてさくらに問う。
「……ど、どうかした…?」
「…………」
が、さくらはすぐには答えず、しばし初音を見つめる。
沈黙に戸惑う初音。と、さくらは体を寄せ、初音の肩を掴んで初音を自身の方に向かせた。
正面からじっと見つめる桜色の瞳に、初音の胸が強烈に高鳴る。
対するさくらの表情が真剣そのものなので、却って恥ずかしいとも言えず、初音はされるがままにさくらの瞳を見つめ返した。
しばしの沈黙ののち、さくらは1つ深呼吸をすると、顔を近寄せて言った。
「初音。胸を見せるのじゃ」
突然のことに意味をしばし考え、気づいて慌てて初音は自分の胸元を腕で隠す。
ざばりと湯が跳ねて両者の顔にかかった。
「む、胸!? 何で!? そんな、恥ずかしいよ…」
慌てて答える初音の姿に、さくらは少し苛立ったように言う。
「卑しいことを考えるでない。鬼仁鋼を呼びだした時、お主の胸に光が灯ったのじゃ。
やけどか何かではないか確かめねばならぬ。だから見せてみよと言うておるのじゃ」
「あ…そ、そういうこと… …え、あの時…?」
うむ、とうなずくさくらの前で、先刻のことを初音は思い出す。
特に胸に熱や痛みを感じた記憶もなく、自分も茶太郎も異常は感じなかった。
が、さくらの表情はあまりに真剣であった…それこそ初音を心配しているようだ。
安心させるべく、初音は少しずつ腕を開き、胸が湯船から出るように少しだけ膝を立てた。
恥ずかしさに目を逸らしつつ、ちらちらとさくらの反応を伺う…
そしてさくらの反応はと言えば。
「…………やはりか…」
不安が的中したのか、ため息を吐いて目を伏せていた。
どんな反応だと戸惑っている初音の手を取り、さくらは立ち上がる。
そのまま初音の手を引くと、2人そろって湯船から出て、鏡の前に膝立ちになった。
さくらは鏡面の水滴を手のひらで拭い、鏡の前で初音の胸のある一点を指した。
初音は鏡を覗き込む――鏡の中では一糸まとわぬ初音とさくらが身を寄せ合っている。
鏡に映る自身の胸の中心から少し外れた位置に、覚えのない桜色の小さな斑点があることに初音は気づいた。
「……虫刺され? 痣? 別に、痛いとかは無いけど…?」
「これは『鬼桜の紋』じゃ。わらわも実物は初めて見る」
「きざくらのもん…」
「父上と母上から一度だけ聞いたことがある…」
初音とさくらの視線が再び合う。こんどのさくらの目には、先刻の真剣さとも異なる悔恨があった。
「鬼仁鋼は神社に預けておった。本来はそうやって人の世に預け、封を施し、いざという時に鬼が扱う。
先ほど話したことじゃ。憶えておるな?」
「うん…」
「ところがごく稀に、人がその身より呼び出すことがあるらしいのじゃ。先ほどのお主のように」
項垂れつつ話すさくら。つまり、鬼としても先刻のことは常識外の出来事であったようだ。
一糸まとわぬ姿のさくらがすぐ隣にいる事も忘れ、初音は聞き入る。
「なぜ起きるのかはわからぬ。平時とどれほどの違いがあるかもわからぬ。
ただ一つ言えるのは、その時に限り人の身にあることが起こる…と、父上は言うのじゃ」
「あること…?」
初音が訊き返すと、さくらはウムとうなずき、初音の胸の小さな痣に再び指先で触れ、小さく輪を描いた。
「この鬼桜の紋は、鬼仁鋼を五度呼ぶことで、桜の花の形が出来上がる。
そこまではせいぜい、怪我の治りが早まるとか、少しばかり勘が良くなるとか、人にもたらす力はその程度じゃ。
そしてその後、鬼仁鋼が使われねば、いずれは消える。小さな力も」
「じゃあ5回で消えるの? そのくらいなら、むしろ」
「6度目」
むしろ得ではないか…と初音が言おうとしたところで、さくらの指先が初音の胸の中心に触れた。
「すなわち、桜の花の形ができた後。そこで鬼仁鋼を呼びだした時…」
「呼びだした時、どうなるの?」
「…………」
うつむき、黙り込むさくらの様子に、ただ事ではないと初音も理解した。
そして、さくらの答えは。
「わらわと同じ――鬼と化す」
人が鬼になる。
それは比喩表現としてではなく、さくらと…あるいは彼女の同族と同じ体質になる、ということであろうか。
初音のその推測は、さくらの次の言葉で裏打ちされた。
「軽く手を振るわば命の二つ三つを奪い、永き時を変わらぬ姿のまま生きる、ということじゃ。
どれだけ力を押さえ込んで過ごそうとも、人の世ではいずれ知れ渡る。
恐れられ、しかも一つ誤れば己が手で命を殺す…
人の世には住めぬのだ、鬼は。常日頃は『かくれ里』に住まうのだ」
「かくれ里?」
「現世と幽世のはざまにある、鬼の住む地にして魔妖夷討取改方の本拠地じゃ。
鬼としての務めが無い時、わらわ達はそこに住んでおる」
つまり、番人たる鬼が現世を護るための、一種の詰め所か何からしい。
「でも、さくらちゃんは…こうして私たちと…」
「魔妖夷を討つために目を覚ましたにすぎぬ。それに、わらわ自身力の押さえ方を知っておるからの。
それとて押さえているにすぎぬ…この力を持ったまま、人の世に住み続けるわけでは無いのだ」
人が鬼になる…さくらの説明によれば、それは人類としての生き方を捨てる、ということでもある。
それまでの人間関係、家族、友人知人、恋人、社会的な立場、ビジネス、学校…そういった人間関係、所属する組織なども、すべて失うということ。
人知を超えた膂力、超長寿、それ以外にも人間との違いはいくつもある。種族が異なるのだから当然だ。
そして先刻。その運命が選択肢の一つとして、初音の目の前に突然突き付けられたのだ。
それも自分で選べるものではない。
合わせて6度…すなわちあと4度でさくらが全ての魔妖夷を討ち果たせなければ、初音の選択権は完全になくなる。
魔妖夷を倒すのも出現頻度と数、そしてさくらの戦闘次第だ。
――初音の選択権は、最初から無いも同然なのだ。
その事実に気付き、初音は愕然として言葉を喪った。
「じゃあ……じゃあ私、どうすればいいの…?」
「…お主には人として生を全うしてほしい。
人として生まれたからには、人として生き、人として命を全うしてほしいのだ。
魔妖夷に狙われた挙句、人として生きられなくなるなど……」
うなだれながら言うさくら。桜色の瞳は哀しげに伏せられる。
さくらはしばしの沈黙の後、顔を上げて初音の手を取り、正面から見つめる。
先ほどまで明るく…あるいは穏やかに笑っていたのは、この重すぎる事実を自身も受け止めきれず、少しでも心の準備をするためであったのだろう。
「わらわがあと四度。四度で全て、今代の魔妖夷を討ち滅ぼす。
だからどうか…すまぬが、どうか待っていておくれ。初音」
ただ待たせることしかできぬことを詫びるさくら。
その謝罪にどう答えていいのかわからず、初音はさくらと向き合ったまま、半ば呆然とするのみであった。
入浴を終え、2人でパジャマを着て居間に戻る。
実と成子、きのめ、きのめに体を洗ってもらった茶太郎、そしてコロ左衛門がちゃぶ台の横に座って2人を待っていた。
髪はドライヤーで乾かしてある。初音の黒髪は艶めいていた。
初音の姿を見て茶太郎が足元に駆け寄る。すっかり清潔になり、毛並みもふかふかの茶太郎を、初音は胸に抱いた。
コロ左衛門もさくらの足元に駆け寄り、背中をよじよじ上って肩に縋りつく。
「わふっ」
「フニ~」
そして初音の胸に抱かれた茶太郎が一声鳴き、両親と祖母の前に座るように促した。
さくらも初音の背中を軽く押す。意を決して初音は実と成子の前に、そしてさくらがその隣に座った。
それでも目を合わせられず、初音はうつむいたままだった。
実は覚悟を決め、1つ深呼吸をすると、初音を正面から見つめた。
「初音。僕達の話を聞いてほしい。
あの日からお前に何が起こったか、何故ここに来たのか…これから話すよ」
父の言葉に初音が口元を引き結ぶ。
拒絶しているのではない。ただ、真実を知ることに不安があるだけだ。
全てを知った上で、両親と祖母は初音の体験を夢まぼろしと切って捨てていた。
しかし今、彼らは真剣な表情で初音のことを見ている。何よりあの黒雲と赤い稲光を知っている。
何か――何か、とても恐ろしいことに巻き込まれてしまったのではないか。
その一方で、『あの日』以来の両親の言動が胸の内に去来する。
どれだけ自分の身に起こったことを説明しても、級友も教師も、実も成子も、そしてたまに遊びに来たきのめも…
全員が口をそろえてこう言ったことを、初音はよく憶えている。
――悪い夢を見ただけだよ。気にしない、気にしない――
自分の体験が夢や妄想と言われ続けながら、初音はかすかに魔妖夷の視線を感じ続けた。
しかし言われ続けるうち、いつしか自分こそ幻を見たのではないかと疑うようにもなった。
現実に起こった怪異の体験の記憶、記憶の混乱…初音はやがて、恐怖をすり減らしていった。
その恐怖が先刻よみがえった。今となっては何を信じていいのか、もはやわからない…
初音は不安から、茶太郎を抱きしめたまま黙り込んだ。
その頭にさくらが手を置き、やさしく撫でる。
「お主は己の身に何が起きたか、家族が何を思い今ここにいるのか…
知らねばならぬ。つらかろうが、おとう殿達の話を聞くのだ」
「でも…」
「案ずるな、わらわがおる。茶太郎にコロ左衛門も」
「わふっ!」
「フニ~」
茶太郎とコロ左衛門もさくらの言葉に同意する。
根拠もあるかわからないその言葉が、いまの初音にとってはただ一つの頼りだった。
うなずき、さくらと共に初音は実たちと向き合う。
実たちにとっても過去のことを話すのは苦しいのだと、初音には判っている。
実の娘を苦しめ続けたことへの自分勝手な懺悔、謂わば言い訳にも等しい言葉だと、彼は思っている…
だが話さなければ、真実は見えない。
親子は向き合った。視線を交わすだけではなく、真実に向き合おうと決めた。
「……初音。あの日から記憶が何日分か飛んでるのは、憶えてるかい?」
初音もそれはよく理解している。魔妖夷に出会ったせいなのは確かだ。
が、実がそれを知っているということは、家族もまた何が起こったかを理解していることの証左でもあった。
初音がうなずくと、実は話を続ける。次の実の言葉に、初音は目を見開いた。
「あの後、お前は数日間眠ったまま――いや――
死んでいたんだ」
読んでいただきありがとうございます。
よろしければ評価、いいね、ブックマーク等お願いします。




