第十四話
さくらは殴りつけたばかりの自らの拳を見下ろした。腫れ上がり、拳全体に鈍痛がある。
確かにさくらは鬼であり、人知を超えた膂力を持っている。
だが魔妖夷はその程度では斃せないのだ。
『うふ。うふふふ』
案の定、起き上がった牛鬼の魔妖夷は痛がる様子を見せなかった。
邪気の塊の腫物とは別に頬が腫れ上がり、鼻らしき孔からは血が垂れている。
だが痛みそのものは大したことが無いのだ。傷も同じ、行動を阻むほどのものではない。
『よわいなあ』
「……」
『よわいなあ鬼の子。よわいなあ――』
「黙れぇっ!!」
再び飛び掛かったさくらの拳が魔妖夷の顔面にめり込む。
しかし、柔軟にして強固な肉体が小さな拳を弾き飛ばした。空中でさくらの体勢が崩れる。
その隙を魔妖夷は見逃さなかった。急速に前に踏み込み、巨大な頭を桜の体にぶつける。
「ぐわっ!!」
『あぁはぁ!! 鬼の子は、よわいなああ!!』
魔妖夷は爪の1本でさくらの服をひっかけ、振り回し、近場の電柱に投げつけた。
激突して電柱が折れ、足場用の硬いボルトがさくらの小さな背中に刺さり、コンクリート片が頭部を打つ。
倒れ込んださくらはすぐに起き上がり、背に刺さったボルトを引っこ抜く。
しかしボルトの先端は骨にまでとどいており、硬い痛みにさくらは立ち上がれず膝をつく。
魔妖夷はさくらの傷の深さを知ると、6本の脚をせわしなく動かして走り出す。
昆虫のごとき素早い移動であるが、体重が重いために地面は激しく震動し、爪の先端がめり込んでひび割れる。
路上にいくつも穴が空き、アスファルトが飛び散った。
『うはあぁ!!』
振り下ろした爪がさくらの顔面を撃ちつけた。
体を後ろにそらして直撃こそ避けたが、一撃を受けた頬が裂け、赤い血が飛び散る。
背の痛みを耐えつつ、さくらは距離を取ろうとした。
だが全力を出せぬ今のさくらでは、魔妖夷の膂力に耐えるのがやっとだ。
それは頑丈さや膂力においてだけではなく、行動の素早さにおいても言えることだった。
生物の限界を遥かに超えた魔妖夷の動きに対し、今のさくらでは対応しきれないのだ。
「くっ…!」
美しい顔を汚した血を拭い、さくらは下駄を脱いで両手に持つ。
突き出された爪を鉄の下駄で防ぎ、受け流そうとするが力で押されてよろけ、押し倒された。
のしかかりかぶりつく巨大な口。さくらは転がって魔妖夷の下から抜け出るが、鋭利な牙は容易くアスファルトを引き裂いた。
魔妖夷はすぐに体を起こし、爪を振り抜く。
鋭利かつ巨大な爪が脇腹に突き刺さり、さくらは血を吐き激痛に叫んだ。
「ぅがぁあああっ!!」
『鬼の子はぁぁ、よわぁぁい』
突き刺したまま魔妖夷は爪を振り抜き、さくらを投げ飛ばした。
細い体が鳥居に激突する。支柱にひびが入ったところで、魔妖夷は不気味に笑った。
『うふ。うふふふぁはははは』
何かを思いついたようだ――さくらがそう悟った直後、再び魔妖夷の頭突きがさくらを直撃する。
合わせてさくらが押し付けられた鳥居のひびが大きくなる。
さくらの体ごしに鳥居を破壊し、神域の結界を破ろうという算段であった。
「貴様――!」
『いたくなあい。いたくなあい!!』
神域である神社の結界は、触れるだけで邪悪な存在である魔妖夷に激痛をもたらす。
あるいは痛みを感じずとも通り抜けることはできない…
ならば神域への出入りを許された幽世の番人、鬼の体を叩きつけて鳥居を破壊してしまえ、と思いついたのである。
入り口を、さらには石段を破壊し、神域を崩壊させてしまおうとしている。いわば、さくらを鈍器として使おうとしているのだ。
気付いたさくらは抜け出そうとするが、爪が深く突き刺さっており、逃れることができない。
「ぬ、ぐっ…ぐぅぅっ…」
(いかん、このままでは初音が――!)
『こわれろ。こわれろぉ』
魔妖夷は突き刺したまま、再びさくらを鳥居にたたきつけた。
ひびが大きく広がり、破片が飛び散る。突き刺さった爪が深くめり込む。
激痛の中、しかしさくらが考えるのは初音のことであった。
ごく普通の人間の子供である初音を、自分の闘いに巻き込むまいとしていた。
だからこそこの神域に初音をかくまったのだ。だが――
「初音……っ…!」
『あー、えいいいいいやああ』
さくらを突き刺したまま、魔妖夷は爪を振り上げ、鳥居にまたも叩きつけた。
鳥居の支柱が砕け、真っ二つに折れる。当然反対側の支柱も折れた。
鳥居が砕けた――神が棲む場所の結界が弱まる。神域に踏み込んだ魔妖夷の皮膚が僅かに焼けた。
だが痛みにうめき声をあげつつ、爪を突き刺し、石段を破壊しながら歩を進めていく。
何としても初音を喰らう気だった。
投げ捨てられ、さくらは石段に倒れ伏した。
抉られた腹から血が流れる。ボルトが刺さっていた背中の傷からも。
さくらは立ち上がろうとするが、予想を超えた痛みに耐えかねて膝をついた。
這って上る彼女を尻目に、魔妖夷は石段を登っていく。
神の領域に入ったが故、魔妖夷は結界の中で全身を焼かれている。
そんな魔妖夷の方が先に進んでいる事実に、さくらは焦る。
「はっ…初音…初音ぇっ!! 逃げろ、初音ぇっ!!」
果たして叫びが届いたのか否か。石段の最上段から、小さな足音が聞こえた。
初音は神社の中をくまなく探し回っていた。
本来なら子供や犬猫が出入りできない神社内の施設に踏み込み、中を引っ掻き回す。
だがどれだけ探しても、初音の言う金棒――鬼仁鋼は出てこなかった。
「無い、無い、無い、無い無い無い…!」
「わふっ!」
茶太郎も同じく探し回ってくれているが、それでも全く見つからない。
探せる場所は全て探し、地面の下に埋もれていないかなども疑って何か所か掘り起こした。
だが鼻のいい茶太郎にも見つけられず、当然ただの人間である初音に在処が判るわけもない。
初音の手や服は泥だらけに汚れたが、全てが無駄に終わってしまったのだ。
ただ1人あの化物を相手にできるはずのさくらが、こんな状況で嘘をついて何も持たず立ち向かう理由など無い。
さくらが知る限りではこの神社にあるはずなのだ…だが、どこを探してもそれらしきものは見つからない。
自分の命もだが、それ以上に素手で立ち向かったさくらのことが初音は心配であった。
ただ1人、確かに自分の恐怖と体験を信じてくれた彼女を、初音も信頼したのである。
そのさくらが、怪物を討てるはずの武器無しで立ち向かっていった…
「大丈夫なわけがない…見つけなきゃ…はやく――」
だが別の場所に移ろうとした時、大きな破壊音が聞こえた。
直後、全身を包み込む空気が僅かに冷え、びりびりとしびれるような痛みが皮膚に走った。
神の住む領域の結界が弱まったのだ。直感的に初音は理解し、その意味に震えた。
続けて、硬い石段を破壊しながら登る足音。
魔妖夷の爪が突き刺さる音だ。――神社に侵入してきたのだ。
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