第十一話
初音は全身に力を入れ、必死に逃げようとする。
だが化物どもにすぐに脚を押さえ込まれ、倒れ込んでしまった。。
必死になって抵抗する初音。しかし子供の力で化物の膂力にかなうはずもなく、ずるずると引きずり寄せられる。
「助けて! たすけて、だれか!」
『あはああああ。あはああああああ。たすけてええ。たすけてええ』
必死の叫びを嘲笑う化物の醜い顔が、初音にのしかかる。
恐怖にこらえきれず、初音は涙を流した。
化物は噛みつこうとする茶太郎の牙を逃れつつ、真上から初音たちを見下ろす。
『あーはああ。あーはああああ』
「わふわふっ! わふっ!!」
「いや、いやああ!! お父さん、お母さん!! 助けて!!」
『こわくないよお。こわくないよお。まえとおなじだよお』
前と同じ。――以前遭遇したことを、この化物も憶えていたのだ。
つまりずっと狙われていた…己の恐怖が事実であったことに、そして化物の執着に初音は改めて戦慄した。
なぜ狙われるのか…理由も理屈も判らぬ化物の執着に、誰にも知られぬままさらされ続けてきたのだ。
助けを求めようにも誰一人信じず、両親や祖母ですら忘れろ、夢だったと言って初音の恐怖を無視した。
そして先ほど、さくらもまた同様に…
例え全ての人に無かったことにされようと、初音は望まぬ死の恐怖を前に、必死に助かろうともがく。
だが化物の膂力からは逃れられず、当の化物は苦手であったはずの茶太郎さえ物ともしない。
(しぬんだ)
絶望の涙が初音の目からこぼれた。
茶太郎と共に死ぬのだと。生きながら食われるのだと…
目の前のおぞましい現実と生への渇望、2つの感情が初音の心をかき乱す。
僅かな希望を抱くことさえも最初から許されず、それでも初音は逃れようとあがいた。
そんな初音を励ますように、茶太郎も吠え続けている。
「――やだ……」
「わふ! わふっ!」
「やだ、やだ、やだ、やだ、やだ!!
助けて、誰かぁっ! 誰か―― 誰か、助けてえええ!!」
叫ぶ初音。吠える茶太郎。嘲笑う怪物と骸の花々。
絶叫する初音にのしかかった化物が、いまこそ初音を喰らわんと口を開け、迫る――
その時だった。小さな影が化物の横から飛び掛かってきたのである。
「初音ぇぇぇっ!!!」
『ぼぉぇへっ!!』
雄たけびと共に重い打撃音が響き、化物が突然真横に吹き飛んだ。
初音からは見えなかったが、化物を吹き飛ばしたのは、小さな影の拳の一撃であった。
醜い悲鳴を上げて化物が転がり、川に落ちて盛大な水しぶきを上げた。
どうやらすぐには浮きあがれないらしく、もがきながら沈む足が見えた。
更に周りの骸の花がつぶれる。下駄をはいた小さな足が、ことごとく踏みつぶしたのだ。
初音と茶太郎は解放された。誰かが初音の手を取り、茶太郎ごと抱きかかえる。
「あ、あ、ああ……あなた…」
「初音、しっかりせい! 逃げるぞ!!」
「わふっ!」
桜色の髪。初音と変わらぬ体格。年寄り臭い口調。聞き覚えのある声。
駆けつけたのが誰か、初音にはすぐに判った。
彼女がそこにいる事を不思議に思う気力すら湧く前に、初音は抱え上げられ、体が浮き上がった。
自分を抱えた人物が跳躍したのだと、これもまた初音はすぐに理解した。
目の前にいる、桜色の髪の少女――鬼煌院 さくら。
まさに人知を超えた身体能力を持って、彼女に抱えられ、高く跳んで逃げおおせたのであった。
民家の屋根から屋根へと跳び、化物の姿見えなくなったところで、さくらは地面に降り立った。
雨に当たらぬよう民家の屋根の下で初音と茶太郎を下ろし、自身もかがみ込んで初音を正面から見る。
同じく初音の腕から抜け出た茶太郎も、初音に縋って頬をなめ、正気を取り戻させようとしていた。
「初音、無事か? 怪我は無いか?」
さくらが傷の有無を確かめる間、初音は呆然としてあらぬ方向を見ていた。
赤い稲光、化物の恐怖、死の現実感、それに相反する感情、突然現れたさくら。目まぐるしく変わる状況に頭が混乱する。
錯乱した初音に、いまのさくらの言葉はほとんど聞こえていない。
さくらもそれを気遣っているのか、周囲を見張りつつも初音をせかそうとはしなかった。
「膝を怪我したか。これを結んでおこう、血止めと痛み止めになる」
「……」
さくらが結び付けた布には何か不思議な力があるのか、傷の痛みが瞬く間に引いた。
血も流れず、止まってしまったらしい…状況を理解できぬ初音はますます錯乱する。
そんな初音を落ち着かせようと、さくらは頭を撫でてやる。茶太郎も初音にしがみつく。
さくらは何度か初音の頭を撫でると、再び周囲を見張る。
その間も初音の頭の中は錯乱していた――だが、それによって今まで封じ込めていた苦しさと怒りが、突如表面化する。
――やはりあの化物は夢ではなかった。本当にいたのだ、そしてずっと自分をつけまわしていたのだ。
なのにだれもその言葉を信じず、級友どころか両親にまでずっと嘘つき呼ばわりされ続けた。
その怒りが、苦しさが、正気を失いかけた精神で表面化し、見当違いの方向に向かわせる。
初音の手はいつの間にかさくらの服を掴んでいた。
「――ねえ」
「初音…?」
「ねえ、私うそなんかついてないよ…」
さくらは首をかしげ、初音の手を取ろうとするが、そこにさらに初音が縋りついた。
「うそなんかついてない! 私うそつきじゃない!!
ずっと化物がついてまわってたんだよ!! 見たでしょ!!
化物も死体の花も全部あって、全部本物で、私を食べようとしてた!!」
「う、うむ」
「あの日からずっと夢の中にいるみたいで、何をしても本当の事じゃないみたいで。
本当は私、あの日食べられて……死んじゃったんじゃないかって――なのに」
錯乱した初音が怒りの矛先を自分に向けてしまっただけだ、とさくらは最初に思った。
だがこの言葉、自分が死んでいるのではないかという初音の言葉に、さくらは真相に気付いた。
ずっと夢の中にいるような感覚…とは、かつて一度だけ聞いたことがあった。
さくらが考えている間も、初音は今までの思いのたけをぶちまけ続ける。
「でもみんな嘘つきだって言ってた! わたしのこと、嘘つきだって言ってた!!
寝ぼけてるとか夢見てるとか言って!! ――夢なんかなじゃい、うそなんかついてない!!」
どれだけ苦しみ、どれだけ恐れ、どれだけ心をすり減らしたか。初音の叫びは全てを物語っていた。
目の前の少女の苦悩に気付けなかった自らの迂闊さを、さくらは悔いた。
いつ死ぬか…それ以上に、自分が本当は死んでしまっているのではないかという恐怖を嘘だ夢だと嘲笑されては、両親に対してああも冷たくなろう。
現実感が失せ、いつ向こうに引きずり戻されるかもわからぬ恐怖に、彼女はずっと怯えていたのだ。
読んでいただきありがとうございます。
よろしければ評価、いいね、ブックマーク等お願いします。