96.夢は、夢でしかなく
今までの経験から明らかなことだが、こうあってほしいと思ったときに外れ、こうあってほしくないと願ったときに当たる。それがノイムという少女の常だ。
だから最初に育った孤児院ではカデルを失い、次のトパ孤児院ではモニカを失い、さらに奴隷商デビーに攫われて住まいを失い、シンシアも失い、勇者となる道に関わらない人生までをも手放すことになった。
つまり、だ。宿の窓から長身銀髪の人が見えた、ラヴィアスかもしれない――そう思って飛び出した時点で、結果は見えている。
見えているのだが、ノイムの足は止まらなかった。
目抜き通りに出た。右に折れて、闘技場に向かって駆ける。宿から見たぶんには、その人物は闘技場の方向に足を進めていた。
誰かが背負った盾の下をくぐった。大あくびをした男の腕の下を抜け、談笑する冒険者らしいグループの間を割って通る。彼らの足元は煙たかった。道路を擦る踵が土煙を巻き上げている。
人の間を縫いながら、ノイムは視線を左右に走らせた。それらしい人影は見受けられない。ノイムの身長では行き交う人々に埋もれてしまって、ほんの数歩先までしか見通すことができないが、彼がいれば絶対にわかる。わかるはずだ。
ノイムは目抜き通りを走り切った。
肩で息をする小さな体に、はるか高くまでそびえる闘技場の柱が影を落とす。あたりにたむろしていた人々の好奇の目が、さらにノイムに覆いかぶさった。
「ノイムったら! いったいどうしたっていうのさ」
すぐにシャティアが追いついてくる。彼女の足ならここにたどり着く前にノイムを捕まえられたはずだが、そうしなかったのはシャティアなりの優しさだろうか。
「…………知り合いが、見えた気がして」
「はァ?」
シャティアが訝しげに眉を寄せる。
その表情を見たノイムは肩を縮めた。
自分がなにを言っているかは理解している。宿から見えたものは、たぶん、本当に見間違いだったのだ。冷静に考えなくたってわかることである。トパの街でラヴィアスらしき人影が見えたというならまだしも、ここはサルシャの町だった。ラヴィアスとノイムにとって、縁もゆかりもない土地だ。なんの根拠もなく、ここでの再会を期待するのは馬鹿げている。
「その知り合いってのが誰かは、なんとなくわかるつもりだけど……」
ノイムの交流の幅は驚くほど狭い。最初の孤児院からトパの街を出るまでの話をすべて聞いているシャティアなら、予想ができて当然だった。
「たとえばここで会えたとして、それはノイムにとって、あまり喜ばしいこととは思えないね」
そしてこの指摘も、実に的を射ていた。
本当にここでラヴィアスと再会したら、ノイムはきっと問答無用でトパの街に帰される。シンシアを捜すことについては、カデルのときと同じ展開になるだろう。
ラヴィアスは絶対に「もう手遅れだ」と言う。ノイムが頼んでも助けてはくれない。あまりしつこく迫ると、引き受けてくれていたカデルの捜索を打ち切られる可能性だってあった。ノイム自身が消されることだってあり得る。シャティアは間違いなくノイムの味方をしてくれるから、彼女も巻き添えだ。それは嫌だった。
こうしてみると、現時点でのラヴィアスとの再会は悪手だ。積極的に避けたほうがいいまである。それでもノイムが彼の幻影を見て、会いに走ってしまったのは――。
『トラブルに首を突っ込むなと言ったでしょう。戻ってきたときに報告する相手がいないのは困る、とも。なんですかこの体たらくは。トパの街にいないだけでなく、生死すらわからないなんて』
ガーネットの瞳に浮かぶ呆れ。薄い唇の隙間から漏れる嘆息。付き合っていられないと言わんばかりに吊り上がった柳の眉。目を離した隙に全速力で走り去って迷子になった子供を叱るように、説教してくる姿が想像できる。
ノイムは口を尖らせて反論するだろう。「好きで迷子になったわけじゃないもん、捕まって連れてかれたんだもん」と。これまでの苦労を思えば、いささか気の抜けるやり取りである。
それがよかった。そうしたかった。
置かれた状況はなにも変わらないし、失ったものは戻ってこないけれど、ノイムの心はちょっとだけ軽くなるんじゃないかと、そう思ったのだ。
我ながらずいぶん感傷的である。
シャティアの手のひらがノイムの髪をかき回した。いつもどおり、首をもごうとするかのような乱暴な手つきだった。膝を落として目線を合わせた彼女は、下からノイムを覗き込む。
「あたしがいる。それじゃ駄目?」
あたしは肝心なときに限ってあんたの傍にいなかったから、頼りないのかもしれないけど――と苦笑されて、ノイムはますます縮こまった。ラヴィアスを求めて駆けだしたノイムの行動は、間接的に、保護者としてのシャティアを否定したのだ。彼女のことはこれ以上ないほど頼りにしているし、信頼もしている。しかし窓からラヴィアスの面影を見た瞬間、ノイムがシャティアの存在を完全に忘れたことは事実だった。
「そんなことない。全然だめじゃない」
「わかってる。意地悪言った。あんたがあたしのこと、結構好きでいてくれてるのは知ってるよ」
たしかにそのとおりだが、そしてノイムの好意がシャティアに伝わっているのも結構なことだが、そうさらりと言われると黙るしかない。ノイムはちょっとだけ耳を赤くした。
「次からはちゃんとあたしに断ってから動きなさい。あんたの見たもの、頭から否定したりはしないから。サルシャの町は、あんたみたいなちびにとっちゃ、いっとう危ないんだからね」
ノイムの行動はあらゆる方面に対して軽率だったわけである。素直に反省すると、シャティアは口許に笑みを浮かべた。
「わかればよろしい」
ふたたびノイムの髪をぐちゃぐちゃにして立ち上がる。
途端、闘技場の前にたむろしていた者たちが一斉に動き出した。不自然なまでの同調。どうやら野次馬されていたらしい。ノイムは手櫛で髪を整えながら、気まずげに散開する彼らを見送った。
「それじゃ、大会の参加申請を済ませちまおう。ちょっと付き合ってもらうよ」
今日のメインの目的だ。ふたりは闘技場に入った。
入ったといっても、柱と柱の間はアーチ状になっているだけなので、外からは丸見えである。扉もない。おまけに観客席の裏側がそのまま天井になっている。がたがたした石が剥き出しだった。とことん武骨な造りである。
正面には、壁を背にしたカウンターがあった。これも石を削り出しただけの雑な出来だ。要は台の役目を果たせればなんでもいいのだろう。そこにしかつめらしい顔をした初老の男がひとり立っている。顔に斜めに走った傷が恐ろしげだ。
「シャティアじゃねえか」
声もまた低く唸るようで、まるで盗賊と相対したときのような気分になる。しかし今さらそれで怯むノイムでもないので、シャティアの横に並んで男を見上げながら、「怖そうなおじちゃんだなあ」などと呑気に考えていた。
「前回はどうしたんだ? おまえが三連覇するかどうかって盛り上がってたってのに、出場すらしねぇとは」
「悪いね、どうも村を空ける余裕がなくて」
「はん、腰抜け連中なんざ放っておきゃいいだろう」
ぺっ、と唾吐く真似をした男に、シャティアが肩をすくめる。
「村の連中の世話じゃないよ」
ノイムを拾ったからだろう。
定例の闘技大会は季節の変わり目に開かれる。ノイムは夏に拾われて秋になるまで生死の境をさまよっていたから、シャティアは村に留まったのだ。
「シャティア、三連覇するところだったの?」
なんだか申し訳ない気分になる。
「あんたのせいじゃないさ。だいいち、連続で優勝したっていいことないし」
それに答えたのは受付の男だった。
「出禁にできるところだったのによ」
「されてたまるか」
「勝ちすぎなんだおまえは。稼ぎになりゃしねぇ」
観客の入場料は、賭け金として支払われる。シャティアが当たり前のように勝つから、皆がシャティアに賭けてしまって、闘技場の儲けにならないということらしかった。
「もっと強い奴呼び込みゃいんだよ。マンネリ化してるのが悪い。んじゃ、今回も出場するからよろしく」
「けっ、一回戦で負けちまえ」
言いながら、男は手元の板切れになにかを書き込んだ。
「ついでにさ、この子の入場料も先に払わせてやっていい?」
「こんな野蛮なもん見るのか、ちび。というかさっきから気になってたが、それはおまえの何なんだ、シャティア」
「拾いもんだよ」
預かりものと言ったり、拾いものと言ったり、簡潔でわかりやすくはあるがまるで犬猫の言いようである。ただ、実情はまったくもってそのとおりなので、文句をつけるつもりはなかった。
「いいだろう。知らない仲じゃねえし、明日は混むのがわかってるからな。おちびちゃん、誰にいくら賭けるよ」
横合いから硬貨の入った小袋が差し出された。シャティアである。これで入場料もとい、賭け金を払えということらしい。
大会は複数日に渡って開催されるが、特定の試合結果に賭ける場合は、その試合がある日しか入場および観戦ができない。優勝者を予想して賭けるなら、大会の間は好きなだけ出入りできる。そのぶん、最低金額がやや高めに設定されている。
ノイムがもらったお金は、優勝者に賭けてもまだ少し余るくらいの額だった。「ええっとね……」とわざとらしく考える素振りを見せてみる。
すかさず後ろ頭を叩かれた。
「あたしが負けるって言いたいの」
ノイムを小突いたシャティアの顔は笑っている。ノイムもまた、にやにやしながら返事をした。
「冗談だよ。シャティアの優勝に賭けるに決まってる」
はっきりと言い切ると、ノイムは小銭の袋を受付の男に渡した。




