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魔王に殺された代理勇者の。  作者: ねずみもち月
四章 代理勇者の束縛
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86.勇者の剣、ふたたび

 ノイムは肩で息をしていた。すっかり疲れてしまった。

 なによりきついのは、森に入って以降ノイムの精神を蝕み続けている頭痛である。一歩を踏み出すごとに頭に響く。熊に目を向けて、焦点を合わせるだけでガンガン鳴る。ソルノとハーレを逃がして気が抜けたせいで余計に響く。


 一瞬、獣の巨体がかすんだ。

 視界がとうとう仕事を放棄した。音も消えた。代わりに耳鳴りが鼓膜を支配する。ノイムは慌てて頭を振る。今度はどうにもならなかった。かすんだ視界ごとシェイクされただけだ。

 ぼかしのかかった世界で、迫る影を辛うじて捉えた。


 熊は短剣を取り払うのを諦めていた。全身から怒りを立ち昇らせ、前足だけを武器にして、ノイムを屠ることに決めたようである。四つ足で駆けて突っこんできた。


 ノイムは横っ飛びに避けた。直後、脇腹が燃え上がった。違う。火は着いていない。灼熱が走ったのだ。転がって起き上がることはできなかった。受け身もなにもない。背中から地面に突っ込む。全身に走る衝撃。


 すぐに身を起こして逃げなければと思う。思うのに、体が動かない。

 熱を発しながらどくんどくんと脈打つ脇腹に手を伸ばす。ぬるりとしたものが触れた。鉄さびの匂い。爆ぜてはいないが、ひどく血が流れている。傷に触れてようやく思いあたった。熊の爪がかすめたのだ。


 頭上に影が差す。

 額に生暖かい液体が落ちてくる。短剣が見えた。熊の口に突っ込んだものだ。その柄を伝って、唾液がぽたぽたと滴っている。


 これは死んだ、と。

 今まで何度も思った瞬間はあったが、今日ほど強烈なものはないだろう。


 振り上げられた熊の爪が、月の光を反射していた。

 脇腹をかすめただけでも動けなくなってしまったのだから、直撃したらどれだけ痛いだろう。狙うならやはり頭か。短剣を口に突っ込むなんて真似をされたのだ。考える理性は残っていなくとも、顔を狙ってくる可能性は高い。


 体がこわばる。目を閉じる。息を止める。


 ――終わりが来ない。

 代わりに声が響いた。


「こっちだ、バケモン!!」


 まぶたの裏が明るくなる。そっと目を開けば、星空が広がっていた。

 熊は背を伸ばしてあらぬ方向を見ている。ノイムも首を巡らせ、獣の視線をたどった。


「おれを狙え! ほら、これでも食らえよっ」


 ソルノが立っていた。

 手に石ころをたんまり抱えて、ひとつずつ熊に向かって投げつけている。ほとんどが明後日の方向に飛んでいったが、まったくのノーコンというわけでもない。ひとつふたつは当たっている。だから熊はノイムを忘れた。

 その意識は――。


「逃げろ、ノイム! 這ってここから離れろっ」


 叫ぶソルノに、向いている。

 熊はターゲットを変えた。


 ノイムに覆いかぶさっていた影が消える。「待ってよ」と呟いたノイムの声など意に介さない。前足をついた熊は、ソルノに向かって走り出す。


 ソルノはもう一度、ノイムに向かって逃げろと叫んだ。

 その一言を叫びたいのは、むしろノイムのほうだった。ハーレはいない。彼はノイムの指示を受けて素直に引き下がってくれたのだろう。救援を急かすために村に駆け戻ったに違いない。しかしソルノが残っている。


「な、なんで逃げてないの……」

「おまえみたいなちびがひとりで足止めなんてできるわけないだろ!」


 叫ぶソルノの顔が月明かりに照らされる。ひと目でわかるほど青ざめていた。手が震えて、抱えた石ころがぽろぽろと落ちる。熊の突進を避ける足取りがおぼつかない。あれではいつ転んでもおかしくない。彼だって手負いだ。十にも満たない体で、倒れた樹木の下敷きになっていたのである。満身創痍に違いない。あちこち痛くて仕方ないはずだ。


 それでも彼は逃げなかった。

 熊の目が地面に倒れたノイムに向くたび、果敢に石を投げて意識を引き続ける。


「それに――」


 ソルノが転んだ。彼の顔のすぐ横に、熊の手が振り下ろされる。当たらない。運がよかった。ソルノは隙を見てふたたび駆けだす。


「――それに、おれのせいだろッ。おまえが怪我したの! おまえとハーレがここに来たの!! おまえが来なかったら、こいつにやられてたのは、おれだった!」

「な、なんなのあんた……」


 ノイムはほとんど口のなかだけで呟いた。

 普段あれだけノイムを嫌っているくせに、こんなときにだけ助けようとする。なんなのだ、本当に。ノイムは体をひっくり返して、うつ伏せになった。


(いやなヤツだったら、このまま見捨てられるのに……)


 ここで熊に襲われているのが奴隷商のデビーだったら、ノイムは今すぐに這ってこの場を離れるだろう。デビーが噛みつかれようが引き裂かれようがまるで無視だ。遠慮なく見捨てることができる。


 でも、ここにいるのはソルノだ。

 ノイムはどうしても、彼のことを嫌いになれない。


 頭痛と、耳鳴りと、心臓の音と、脇腹の傷のあたりで響く脈動。ぐちゃぐちゃに混ざったものが頭を支配している。


 ノイムは腕を突っ張って、どうにか体を持ち上げた。

 開けた草むらがよく見えた。


 頑なに無視をし続けてきたものが目の前に突き立っていた。


 素知らぬ顔で空を見上げる剣だ。

 ぼんやりと光を放っている。


 ノイムが睨みつけると、勇者の剣は身の光を強めた。

 まるで応えるように。


 ノイムは立ち上がった。ふらふらする。それでも歩けた。歩けてしまった。ソルノがまだ逃げ回っているのを横目に、一歩ずつ、重い足を引きずって進む。


 星々が見守る、草むらの中央。

 新たな主人を待つ、勇者の剣。


 ノイムは目を閉じた。見えるものをすべて遮断した。


 すべてが夢だったらいいのに。しかし、頭蓋骨の内側で鳴り続ける鐘が、脇腹に刻まれた熊の爪痕が、絶えず痛みを送ってくる。これは現実なのだと突きつけてくる。逃避すら許されない。


(今、抜いたら、私はまた)


 前世と同じように。いや、前世よりもなお悪い。


 前世のノイムは失踪した勇者を捜して剣を返すつもりで旅に出た。しかしそれは実質、魔王討伐の旅だった。ただ勇者を捜すためだけに旅立つことは、周りが許してくれなかった。ノイムの意志など関係ない。だから勇者の剣も持たされてしまった。


 それでもノイムは、勇者の剣は、一度も鞘から抜かなかった。

 武器として振るったことはない。振るうつもりもなかった。

 ラヴィアスと、魔王と対峙しても、柄に触れようともしなかった。


 それがノイムの意地だ。私はあくまで剣を預かっているだけだと。本当の勇者は別にいると。代理の私はこの剣を使ったりはしないのだと。


(私は――)


 ここで勇者の剣を抜いて、あまつさえ振るうような真似までしてしまったら、前世のノイムの意地を捨てることになる。赤子として生まれ直してから再三繰り返してきたノイムの誓いも粉々だ。


 もう二度と勇者にはならない。

 代理だろうがなんだろうが、勇者の剣には二度と触らない。

 魔王に殺されたくない。

 ラヴィアスに裏切られたくない。


 何度も心のなかで唱えた。

 それなのに。


(これしかないのはわかってる)


 わかっているが、触りたくない。


 ここで運よくシャティアが飛び込んできたりはしないだろうか。

 一秒、二秒――いくら待っても、気配はない。当たり前だ。彼女は村にすら帰ってきていないのだ。そんな都合のいいこと、起こるわけがない。


 耳に届くのはソルノが必死に逃げる音。少年を追う熊の咆哮。彼らが走り回る草擦れ。


 ノイムは諦めてまぶたを持ち上げた。

 手を伸ばす。


 肩の位置にある柄を握る。ノイムの身長では本来、扱うことなどできぬはずの長剣である。

 力を込めると、剣身からこぼれていた光が点滅した。


 先ほどまでの頭痛が嘘のように引いていく。


 ――どうして。


 ソルノが全力で引いても抜けなかった剣先が、簡単に地面から離れた――どうして。


 小柄なノイムとほとんど同じ身丈の長剣なのに、恐ろしく軽い――どうして。


 ひときわ強く輝いた剣身が、主を定めたとばかりに消える――どうして。


 ノイムは勇者の剣を抜いてしまった。


(こんな、あっさり――)


 どうしてこの剣は、どうあってもノイムを勇者にさせるのだろう。魔族を憎む戦士も、志の高い若者も、世界にはいくらでもいる。ノイムは、今の幼いノイムは特に、勇者なんてものに相応しいとは思えない。


 それなのに勇者の剣は、当然のようにノイムを受け入れるのだ。


 ――ふざけるなよ。

 なにに向けてかもわからぬ怒りが湧いてきて、目の前が真っ赤になる。


 ノイムは剣を両手で構えて駆けだした。寝間着が自分の血でしとどに濡れて、肌に貼りついている。不快だった。しかし痛みはなかった。熊にやられた傷の痛みなど忘れていた。


 ソルノに追いすがる熊の背中が、目前に迫る。

 勇者の剣を振りかぶり、大上段から思いきり斬り下ろした。


 斜めに割れた獣の背から血が噴き出す。体毛があっという間に血を含んで、月光に黒々と照り映える。見た目は派手だが傷は浅い。証拠に、熊は耳を塞ぎたくなるような咆哮を放ちながら振り返った。怒り狂っている。ぐっと体を伸ばして爪を持ち上げる。


 その腹が、今度は横に裂けた。

 縦に下ろしたばかりの剣が、ほんのわずかな間に左へ振り抜かれていた。


 最初の斬り下ろしの勢いに身を任せ、砲丸投げでもするかのように一回転し、そのまま横なぎの一撃を叩きつけたのである。先ほどとは比にならない量の血が噴出した。


 頭から獣の血を浴びてもノイムは怯まなかった。

 剣の柄を持ち直して腰を落とす。地面を蹴って跳んだ。


 勇者の剣の切っ先が、熊の首から突きだした。

 喉を貫かれている。

 熊の巨体がうしろに傾いだ。


 ノイムの視界に、熊の影から慌てて這いだすソルノの姿が見える。星空の下に転がり出る。


 ほとんど同時に獣は、腹に乗せたノイムごと、どうと音を立てて倒れた。

 濁った瞳が明後日の方向を見ている。短剣にこじ開けられた口の端から、唾液がどろどろと流れている。振り上げられた爪は、ぴくりとも動かぬまま固まった。


 ――どうやら、ノイムの勝ちらしい。

 終わってみればなんともあっけないものである。


 ノイムは勇者の剣から手を放した。もう頭痛はしなかった。剣を抜いたからだ。

 勇者の剣は、次の勇者を見つけてしまった。


 熊の腹の上からすべり下りる。地面に尻をつけてへたり込んだところで、強烈な痛みがノイムを襲った。脇腹だ。寝間着はもうびちゃびちゃだった。命がこぼれていく感覚がする。怖くて見ることができない。


 座っているのも辛くて、ノイムはその場に大の字でひっくり返った。

 星が夜空を埋め尽くしている。その隙間に、丸い月がぽっかり浮かんでいた。こんなときでなければ見惚れていただろうが、今はただ、忌々しいだけである。今すぐ曇って大雨になってしまえと思った。


 静かになった草むらに、遠くから喧騒が届く。

 村の誰かだろうが、たしかめる余裕はなさそうだ。頭がぼうっとしてきた。血の流しすぎである。


(今なら気絶できそう)


 これ以上ない現実逃避だった。


 傍に寄ってくる人の気配――ソルノが「ノイム、おい、大丈夫かよ!」なんて声をかけてきたが、ノイムは返事をしなかった。肩に触れた彼の手も無視して、ただ目を閉じる。全身の力を抜いた。


 そして遠慮なく、暗闇に意識を落としたのである。

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