84.度胸試し、決行せり
あんまりたくさんのことをいちどきに語ったせいか、ノイムはすっかり興奮してしまったらしい。その日はなかなか寝つけなかった。
シャティアが帰ってこなかったのもあるかもしれない。これまでシャティアは、一日置きには必ず帰っていた。彼女が二日続けて家を――村を空けることは、この一週間で初めてのことだ。
そういうときに限って、事件は起こる。
だからノイムが寝られなかったのは、そのせいもあったのだろう。嫌な予感ほどよく当たる。
村がすっかり寝静まった深夜になって、それは聞こえてきた。
ずび、ぐすん。
誰かが鼻をすすっている。ぐすっ、ずず、ぐすん。少しずつ大きくなるその音で、どうやら泣いているらしいこともわかる。
ノイムはまぶたを持ち上げた。
炉の火はすでに落とされて、家のなかは真っ暗闇だ。ノイムのほかには人の気配もない。そこに、ぐずぐずとすすり泣きながら、誰かが近づいてくる。砂を噛む足音も聞こえる。
人影が家の戸口に至ったと同時に、ノイムはかけ布を蹴飛ばして起き上がった。
「……エイミー?」
やってきたのはエイミーだった。寝間着と思わしき薄布一枚だ。両手で目をこすりこすりしている姿は、それだけ見れば眠いのをこらえているようでもある。しかし違う。なにしろ先ほどから響くすすり泣きの声は彼女のものにほかならないからである。
「どうしたの」
慌てて駆け寄れば、エイミーはぽろぽろと涙をこぼした。
「ソ――ソ、ソルノが――」
ただでさえか細い言葉は、しゃくり上げる音でかき消されてしまってほとんどかたちをなさなかった。エイミーはそれ以上続けることができずに、ただソルノが、ソルノがとだけ繰り返す。
ソルノの身になにかあったのか。こんな夜中に、ソルノがなにかをやらかしたのか。平時であれば詳しい話を聞き出すまで、ノイムにはさっぱりわからなかったに違いない。
ただし、今夜のノイムは非常に冴えていた。だからすかさず問い返したのである。
「まさか、ソルノがひとりで森に入ったとか言わないよね?」
エイミーの泣き声が大きくなった。
それが答えだった。
あんの野郎、とノイムは唸った。
昼間、度胸試しをするなんて言いだした子供たちを止めたとき、ソルノだけが最後まで不満げなままだった。だから薄々、ソルノならやりかねないとは――なんであんな余所者の言いなりになんかなるんだよ、森にならおれら何度も入ってるだろ、今さらなにを怖気づいてんだ、などと説得し直して、今度はノイムにも隠して、正真正銘子供たちだけでこっそり勇者の森に繰り出すなんてことを――やりかねないとは思っていた。思っていたのだが、まさか今夜、よりによって今夜。いざというときに頼りにできるシャティアがいないときに、誰にも告げずにひとりで行ってしまうとは。
ありとあらゆる暴言を連ねても足りない。一発殴ってやらなければ気が済まない。
「そ、それだけじゃなくて……」
「まだなにかあるの!?」
ついうっかりエイミーを責めるような口調になって、ノイムは慌てて謝った。エイミーはびくびくしながら、今度は「ハーレが」と呟く。
「外にいるの?」
もはや見に行ったほうが早い。ノイムは寝床の脇に転がしてあった役立たずの短剣を引っ掴んで、空いた手にエイミーの腕を掴み、星明りの下へ飛びだした。
広場に人がひっくり返っていた。
「…………ハーレ?」
おそるおそる問いかければ、うめき声で返事があった。近づけばはっきりした。倒れているのは、頬を腫らしたハーレである。エイミー同様、彼も寝間着姿だった。
「いったいなにがあったの……」
聞かずにはいられなかった。
エイミーがよろよろと歩み出て、ハーレの胸元に手をかざした。鼻をすする音でわかりにくいが、なにやら口元で唱えている。やがて彼女の手のひらがほんのりと光った。
再度うめいたのち、ハーレはゆっくりと上体を起こした。
エイミーが回復魔法をかけたのだ。起き上がれるようになったこと以外に、劇的な変化はなかった。腫れた頬もそのままである。以前アマンダが言っていたように、エイミーの魔法はまだ発展途上なのだろう。
「かっこ悪いとこ見せちゃった」
ハーレは痛めた頬をさすりながら苦笑した。
彼が話すところによると、こうだ。
昼間のソルノの様子がおかしかったのは、ハーレも感じていた。ソルノの不満顔を見て、このままで済ますわけがないと思ったハーレは、日が落ち、寝床に入ってもまんじりともせずに外の様子を窺っていたのだという。ソルノが生まれたときから彼のことを知っているハーレは、ノイムなどよりもよっぽどソルノのことをわかっていた。
「広場を突っ切る影が見えたんだ。もしやと思って出て行ってみたら、ソルノが森に入ろうとするところだった」
騒ぎになってはソルノにも都合が悪い。なにしろソルノがやろうとしているのは、初め、村の子供皆で考えていた行動である。できるだけ穏便に済ませようと、ハーレは声を潜めてソルノを呼びとめた。
「そしたらこのざまだよ」
ハーレは己の頬を指し示した。
ソルノは止めるハーレに耳を貸さなかった。静かな押し問答の果てに、これまた静かに取っ組み合いが始まった。ハーレはソルノに殴られ、わずかな間、気を失う羽目になったのである。
その物音に気づいたエイミーが起きだしてきて、ひっくり返っているハーレを見つけた。それで泣きながらノイムのもとまで来たわけだ。
どうしてそこでノイムだったのかはわからない。もしかしたら、シャティアが帰ってきていると思って、そちらを頼りにするつもりだったのかもしれない。当然のようにノイムが対応に出てきてしまったが、「シャティアはいないからエイミーのお姉ちゃんを起こしたほうがいいよ」などと言うのが正解だったのだろうか。今さらである。
「僕のほうが年上なのに……」
ハーレが背中を丸めた。恥ずかしくてたまらないといったふうだった。
「喧嘩でこんな簡単に負けちゃうなんて、情けないったら」
無理もないと思う。年の差といってもせいぜいひとつかふたつだ。ソルノはやんちゃで活発な質だから、それは当然、体力や膂力に現れる。見るからに線の細いハーレが力負けしても不思議はない。なんならノイムでも勝てそうだった。
だから縮こまるハーレは無視して、ノイムは森に目を向けた。
密集した木々に、月も星も遮って覆いかぶさる枝葉。おかげで、広場から眺めると森の実態はほとんど掴めなかった。どこまでも深まる底なしの闇を、わずかな樹木と茂みが毛皮のように囲んでいる。木の服を着た黒い空間。そういうふうに見える。
躊躇った。
暗闇が怖かったからではない。
この先にあるのは、前世のノイムを破滅に追いやった原因だ。
ノイムは森から顔を背けた。
「こうなったらもう隠したってしょうがないよ。ルーダを起こして捜しに行ってもらおう」
「うえぇ……ものすごく怒られるね」
ハーレが眉を寄せた。この期に及んで内密に片づけたいと考えているわけではないだろう。ルーダを頼ることに後ろ向きなのだ。
ルーダなら絶対に、どうしてソルノがそんな行動に出たのか、どうしてハーレはそれを察知できたのかを問いただす。聞かれればこちらは正直に答えるしかない。そうなれば怒鳴られるのは目に見えている。
相手がノイムならなお悪い。おまえがたぶらかしたのか余所者などと唾を散らして責められること請け合いである。
「村じゅう片っ端から叩き起こしてもいいんだけど……」
「それじゃあちょっと」
「だよねえ」
エイミーが行方不明になったときと同じくらいの大騒ぎになるだろう。大々的に準備をして捜索が始まるはずだ。夜の森を相手に、そこまで悠長にしている時間はない。
夜は魔が強まるときと相場が決まっている。
「ルーダならソルノが駄々をこねても、小脇に抱えて戻ってきそうでしょ」
単純かつ迅速な対応である。
決まりだ。
「エイミーならいきなり怒鳴られたりはしないんじゃない?」
そういうわけでルーダを起こす役目は、黙って成り行きを見守っていた――泣きじゃくっていたともいう――エイミーになった。彼女がよたよたと村長の家に向かったときである。
鳥が大量に飛び立った。
「うわ、なに?」
「こわい……」
ハーレが目を見張って、エイミーが体を震わせた。やかましい音を立てて木々から飛び立った鳥の群れは、ややあって森のなかへと戻っていく。
「なんだか……気味が悪いね」
呟いたハーレを横目に、ノイムは森と夜空の境界線を凝視していた。
葉擦れの音も、枝が揺れる音もしなかった。今の鳥たちは、なんの理由もなく一斉に飛び立ったのだ。気味が悪いなんてものじゃない。どう考えても不自然である。
「――結界だ」
「え? 結界って、勇者の剣のところの魔法結界?」
ハーレの問いには答えずに、ノイムは駆けだした。




