7.状況、悪転する
勇者失踪が間違いようのない事実とわかると、その影響は孤児院にも顕著に表れた。
第一に、院長の孤児院での振る舞いだ。
「院長、なに書いてるの?」
最初に気づいたのは、「いなくなっちゃった勇者様に代わって、俺が次の勇者になるんだ!」と意気込んで毎日のように枝切れを振り回していた少年だった。
「大事な書類だよ」
「だいじって、どれくらい?」
「君たちと同じくらいかな。皆が素敵なおうちで暮らせますようにって、お願いしているんだ」
椅子やテーブルを伝って食堂中をぐるぐると歩き回っていたノイムは、真っ先に反応した。
ぺたんと床に腹をつけ、高速ハイハイを発動する。掴まり歩きよりも百倍速い。掴まり立ちを卒業することがなかなかできないなと思っていたが、事あるごとにこうして目先の速さを取ってしまうからかもしれない。
首尾よく院長の足元にたどり着いたノイムは、椅子をよじ登って院長の手元を覗き込んだ。
「こら、院長のだいじだいじ、じゃましちゃだめだぞ。俺らのためにやってくれてんだから」
少年に手をすくわれたが、べちんと叩いて黙らせておいた。「なにするんだよ!」と怒られたが、知らない。ノイムは舐めるように院長が書いている書類の文字を追った。
旅の途中で皆に叩き込まれて、必死で覚えた読み書きだ。まさか一歳とちょっとで役に立つとは思わなかった。
(奴隷の、契約書類だ……!)
記されている名前は、今の孤児院で最年長の少女のものだった。近く、里親に引き取られるのだろう。名前の横にある拇印は、まさか少女本人のものだろうか。
(ここでは読み書きを教わらないから……!)
養子縁組の書類だと言ってしまえば、子供たちは素直に捺印してしまう。書類に目は通さない。見たところで、読めない。
以前はいつ勇者に証拠として押さえられるかわからなかったから、隠れてこそこそやっていたのだろうが、もはや隠す気もないらしい。あまりにも子供たちを馬鹿にしている。
無性に腹が立って、ノイムは院長の手からペンを叩き落とした。
「やっ!」
「あーあー、いたずらっ子め」
床に転がったペンに、院長が手を伸ばす。
テーブルの上には丸腰の書類。もうやることは決まっている。
「いんちょー!」
「うん?」
ペンを掴んで体を起こした院長が絶句して固まるのを、肌で感じた。
「あぶー」
サインしかけの書類の上で、ノイムが思い切りよだれを垂らしたからである。これでは足りないかもしれないと、紅葉のようなぷくぷくした手で思い切り掴んで、口に入れた。
当たり前だが、紙の味がした。
最後におもちゃで遊ぶように破いてしまえば、仕事は終わりだ。少年が慌ててノイムをテーブルから引き離したが、もう遅い。
べたべたのびりびりになった奴隷契約の書類が一枚。
「あーあー、やってくれたね」
院長の柔和な笑顔に、ほんの少しだけ怒気が浮いた。おそらく、あの笑顔の仮面の下に潜んでいるものが院長の本性だ。
(ぼろでも出してくれれば、子供たちが不審に思ってくれるのに……)
しかし、そこは院長である。取り繕うのが上手い、実際、わずかに見えていた怒りはすぐに消えてしまった。
そして、勇者失踪の影響の第二である。
「本当に辞めちゃうんですね……」
「こういうときの悪い予感は信じたほうが得ですからね。おとなしく故郷に帰りますよ」
ご愛顧ありがとうございました、と門前で頭を下げたのは配達屋だった青年だ。彼は本格的に仕事を辞めた。
手紙を配達してくれる人はもういない。院長は手紙を出すのに苦労するようになった。
そしてやってきたのが――。
「いつもみんなの新しいお父さんお母さんを探してくれているデビーさんだ。みんな、挨拶しなさい」
「こんにちはー!」
子供たちの大合唱が食堂に響く。
彼らの声を鬱陶しがるように、重たそうな体が揺れた。たっぷりと脂肪を蓄えた腹が、でんと突き出ている。毛髪が薄いおかげで頭蓋骨のかたちの悪さが際立った。
「デビーだ。これからはここに出入りして、院長と話をすることが増える。くれぐれも邪魔はするんじゃないぞ」
第三に、憎き奴隷商が堂々と出入りするようになったのである。
挨拶が済むと、子供たちはおのおの好きなように散っていった。里親を探してくれる人に飛びつかないのは、事前に院長から通達があったからだ。仕事の邪魔になるのでデビーにはできるだけ構わないように、と。
「院長、外の悪趣味な看板はなんだ。勇者を見つけた者には褒賞を与えるだのなんだの、くだらん」
「国からの指示ですよ。国王陛下が早急に失踪した勇者を……あるいは、新しい勇者をお望みだとかで」
「とんだ小心者の王だな」
「おかげで我々も体を伸ばして商売ができます」
デビーが口の端を持ち上げる。「まったく、そのとおり」と嬉しそうに言って、アリサに顔を向けた。正確には、アリサの腕に抱かれたノイムを、である。
赤子と奴隷商の目が合った。
「それが一番新しいのか」
「はい、半年ほど前に」
普段から暴れ散らかしているせいか、ここ最近、ノイムだけは必ずアリサの腕のなかにいた。
食事のときも、湯浴みも、着替えも何もかも、必ず院長かアリサ……ほとんどがアリサの手で世話をされている。これがほかの赤子だと、年上の子供たちに世話を焼かれている光景もよく見られるのだが、ノイムに限ってはあり得なかった。
ほかの赤子が二階ですやすやと寝ている間も、ノイムはだいたいアリサの腕に抱かれて食堂にいる。よほど危険視されているらしい。
たしかに今のノイムなら、赤子用のベッドから転がり落ちて、部屋にあるあらゆるもので足場を作り、ドアを開けて部屋から脱走くらいはやってのけるだろう。
ノイムを目の届くところに置こうとする彼らの勘は正しいといえる。
つまらなそうにノイムを眺めたデビーが、鼻を鳴らした。
「ふん、仕入れは順調らしいな。今後もあんたたちとはいい取り引きをしたいところだ」
「もちろんですとも」
笑顔で答えたのは院長である。ほかの子供も散見されるなかで、よくも堂々と言えたものだ。
ノイムはアリサの腕のなかから、でっぷりした男に手を伸ばした。
「でぶー」
「誰がデブだクソガキ」
へこんだ芋のような顔で睨まれた。




