64.水没、記憶を運び
めちゃくちゃな波を立てて、しかし確実に下流へ向かってうねる川に呑まれ、前後不覚に陥った。岩だとか崖だとかに体を打ちつけなかったのは運か、あるいは。ノイムを抱きすくめて川に飛び込んだ謎の青年のはたらきによるものだったのかもしれない。
ノイムはただ彼に抱えられていることしかできなかった。口からも鼻からも水が流れ込んでくるので、誰何する暇もない。ただ体温の奪われた手を必死に動かして、青年にすがった。
たぶんノイムは、それからすぐに気を失ったのだと思う。
次に目を覚ましたときには、ノイムの体はしっかりした地面に横たえられていた。寒いとは思わなかった。どういうわけか服からも髪からも水気が失われている。
傍で焚き火が爆ぜる音がする。それとは反対の側から、穏やかな水の音。いくらか流れの落ち着いた川だ。そこに混ざって、もっと鈍く重い、肉を断つような――。
「はっ!?」
飛び起きた。
右手に川、左手に焚き火。そして焚き火の向こうに、ペトルイノシシの骸が折り重なっている。さらにその奥には、底なしの宵闇をたたえる森があった。どうやらペトルイノシシの群れは、崖から落ちたノイムを追って森を下ってきたらしい。執念深いにもほどがある。
それを黙々と処理し続けている青年がいた。
「おや、目が覚めましたか」
腰まで届く癖のある銀髪をひらめかせ、その人は振り返った。顔の横に垂れた髪のうしろに、先の尖った耳が見え隠れする。長命種だ。深いガーネットの瞳は重たそうな睫毛の奥で、あたりに落ちるわずかな月明かりすら反射して煌めいている。口元にたたえた微笑は見る者を不思議と安心させた。
地上に降りた星である。
「えっ、と」
頭のなかにさまざまな言葉が渦巻いて、喉で詰まった。誰、だとか、あなたが助けてくれたの、だとか。残りは青年の顔に対する感想だ。
思考を放棄して見惚れるのが一番楽だった。
青年は、女と見まがうような繊細で整った顔のわりに、がっしりとした体躯をしている。その手には、身の丈もあろうかという大剣が握られていた。片手剣でも扱うかのように軽々と振るわれたそれが、森から駆け出てきたペトルイノシシを両断する。丸太でも割っているのか思うほど、鮮やかな手際だった。生きている動物の肉を断つ音には違いないのに、耳に届くそれすら軽やかである。
ぴくりとも動かないペトルイノシシの山に、胴を真っ二つにされた死骸が加わった。
「今のでおそらく最後です。おそらく、もう襲われることはありません。もう少し休んでいなさい。どうせ夜は動けない」
大剣をひと振りして血のりを払った青年は、とびきり魅力的な笑みをノイムに向けた。
「助けてくれて、ありがとう?」
やっとのことで、それだけ言えた。
青年はあっさり頷いて「どういたしまして」と礼を受け取る。会話が成り立ったところで、ノイムの喉で渋滞を起こしていた疑問が栓を抜いたように次々とあふれた。
「あなた、誰? 初対面だよね? どうして私を助けてくれた、んですか?」
青年が面白そうに目を細めた。その手から大剣がかき消える。
ノイムはぎょっと背を反らした。
「ラヴィアス・レタール。しがない冒険者ですよ」
「しがない、冒険者……」
狂暴化したペトルイノシシを山と倒しておいて、それは無理がある。
一体殺すだけでもノイムはずいぶん苦しんだ。おまけに二体目には崖から突き落とされた。ノイムほど間抜けとはいかないまでも、普通は正気を失った魔物の群れをたったひとりで相手するとなると、それなりに苦戦するものだ。
(それとも、長命種の冒険者ってみんな、こんなふうに規格外なんだろうか)
青年――ラヴィアスが、ノイムの猜疑にまみれた視線を気にする様子はない。
「信じられませんか。よく言われますが」
自覚はあるようだ。
あたりに散った血しぶきを慎重に避けて、彼はその場に腰を下ろした。あえて傍に寄ってこないのは、初対面の相手を怖がらせないようにという配慮だろうか。
「魔の森に入った若者たちが戻ってこないと、近隣の村の方が騒いでいましてね。なかには勇者どのもいらっしゃったとか」
ラヴィアスはちらりとノイムの腰の剣を見やった。勇者の剣である。これは誰が見ても、ひと目でそれとわかる不思議なしろものだ。ノイムがその勇者どのだというのは、ラヴィアスもすでに承知しているだろう。
そこではたと思い至って、ノイムはあたりを見回した。弓がない。流されてしまったのだろうか。矢筒は背負ったままだったが、そちらも中身は空っぽだった。
「村の方々の懸念も、まあ、当然といえば当然……」
言いながら、ラヴィアスが苦笑する。
他人が魔物を退治するさまをぼうっと見届け、呑気に会話を交わしてしばらくしてから、ようやく愛用していた獲物がないことに気づく。本来なら意識を取り戻した直後に確認するべきことなのに、ノイムときたら、危機感が足りないというか、鈍いというか。
ちょっと恥ずかしくなった。誤魔化すために口を開く。
「あの、自己紹介まだだったよね」
言ってからさらに羞恥がつのった。命の恩人に先に名乗らせておいて、自分は名乗るのを忘れている。
ラヴィアスがくつくつと喉の奥で笑った。よく笑う青年である。目の保養にはなるが、今はただいたたまれないだけだった。
「あなたのお仲間と合流するまでは、お付き合いします。よろしくお願いしますね、ノイムさん」
ノイムは慌てて膝を揃え、ぺこりとお辞儀した。
「よろしくお願いします」
話を戻そう。
勇者と名乗るのがいかにも平凡そうな小娘で、一緒にいるのも若い冒険者ばかり。村人たちの不安を煽るには十分だったのだろう。日が暮れても帰ってこないノイムたちにしびれを切らし、通りすがりのラヴィアスにお鉢が回ってきた。
「争う音を追ってみたら、ちょうどあなたが落ちるところだったもので」
咄嗟に飛び込んだのだという。おかげでノイムは助かった。
「あの……ラヴィアスさんは、私を見つける前に、ほかに誰か?」
「いえ、私が見つけたのはあなただけでした。ただ、ほかに激しく戦っている気配はなかったので」
ほかの皆はとっくに合流して、ノイムの捜索に当たっていたのかもしれない。死ぬ気で走っていたのはノイムだけというわけだ。つくづく嫌になる。
「あなたばかりが襲われたのも、その腰の剣が原因でしょうね。勇者の剣は人に類する種族だけでなく、魔物のたぐいにも、ひと目でそれとわかります」
ノイムの心中を推し量ったのか、ラヴィアスが目を細める。
「強大な魔力にあてられたペトルイノシシの群れは、明らかに正気を失っていました。平時の彼らであれば、勇者の剣などは天敵とみなして、むしろ積極的に逃げていくはずなのですが」
魔力酔いを起こした魔物は攻撃的になる。ペトルイノシシの群れは、だから、勇者の剣は天敵だ、では排除してしまえ、と突進してきたのである。
うへえ、とノイムが口をひん曲げると、その顔がよほどおかしかったのだろう。
ラヴィアスは声を立てて笑った。
恐ろしく整った顔と、呵々大笑する姿が噛み合わなくて、ちょっと面食らったのを覚えている。
▽ ▼ ▽
水に落ちるたび、懐かしい夢を見る。
(でもそれって、水に落ちるたびに気絶してるってことだよね)
ノイムの体が幼いゆえ……というわけではなさそうだ。なにしろ前世でも同じだった。ノイムはまったく、自分で道を切り開く気がないらしい。それでも毎回、きっちり助かっているから、悪運は強いのだろう。どうやらまた、誰かに助けられたらしい。
ぼやけた視界に、茅葺きかなにかの屋根が映った。
排煙口から外へ吐き出される煙をぼうっと眺める。火が焚かれている。どうりで暖かいと思った。首のあたりがうっすらと汗ばんでいる。
髪が貼りつく不快感に頭を傾ければ、額に置かれた濡れ布巾がべちゃりと落ちた。
ノイムはかけ布の下からもそもそと手を伸ばし、布巾を拾った。ぬるかった。首を巡らせたが、水の入った桶などは見つからない。
緩慢な動きで起き上がる。頭痛がした。寝すぎだろうか。
熱っぽい気がするので、そのせいかもしれない。
ノイムが寝かされていたのは、農村によくある家だった。藁ぶき屋根に、混ぜものをした漆喰の壁、圧し固めただけの土の床。扉のない入り口からは日の光がたっぷり差し込んでいる。
部屋の真ん中にある炉では、昼間にも関わらず赤々と火が燃えていた。
イグサを敷き詰めた唯一の寝床は、今はノイムのために提供されているようだ。ノイムが寝ている間、家主はどこで睡眠を取ったのだろうか。
寝床を抜け出したノイムは、家の入り口からそっと外を覗いてみた。
半身を森に埋めた小さな村だ。
真ん中の広場を囲むように家屋が建っている。広場では子供たちが走り回っていた。見える範囲におとなの姿はない。
「……ここ」
見覚えがある。ノイムは改めて、家のなかを振り返って確認した。
造り自体はよくある農村の粗末な家である。
しかしここには個性があった。部屋の隅に置かれたチェストの上に並べられた籠手。防具にしてはごつすぎるそれには見覚えがある。はっきり自覚した。見知らぬ家なんかではない。
誰かの悲鳴が響いた。
「ティア姉、ティア姉!! あの子起きた! ティア姉ー!」
思わず耳を押さえたくなるような高い声だった。めまいを覚えたほどだ。ふたたび外に目を向ければ、広場に立つ子供たちのひとりが、ノイムを指さして硬直していた。
その発見は、残りの子供たちにも伝播した。最終的には皆がノイムを見て同じように叫び、一斉に駆け去ってしまった。
村は見事に空っぽである。
子供たちが走っていったのは、村を半分呑み込む森とは逆の方向だった。鬱蒼と茂る森とは反対に開けている。耕作地である。村人らしき人影がいくつか立ち働いているのが見えた。子供たちは、そのうちのひとりに声をかけたらしい。
すらりとした人物だ。青みがかった髪をまとめ上げてお団子にしている。急所だけを覆う簡易な鎧を身に着けた姿は、およそ農民とは思えない。どう見たって、どこかの戦士だ。
(ティア姉って呼びかた……)
あの服装、髪型。しなやかな身のこなし。
予感がした。
両手を子供に取られながら連れてこられたのは、まだ少女と呼んでもいい年頃の女だ。彼女が近づくにつれ、ノイムの心臓は激しく跳ね回った。
「よかった、もう何日も起きないもんだから、駄目かと思ってたんだ」
隙のない装備とつんと吊り上がった目尻からきつい印象を受けがちだが、見た目ほど苛烈な人ではないことを、ノイムはすでに知っていた。その証拠に、空を写し取った瞳には優しい光が浮かんでいる。彼女がきついのはほとんど容姿だけだ。
「……あ、あなたが、たすけてくれたの?」
動揺で舌がもつれてしまった。
「そうなるかな。ま、あたしだけじゃないけどね」
シャティア・リサラ。
前世でノイムと一緒に旅をしていた仲間のひとりの、拳闘士である。
カデルやラヴィアスに続いて、三人目との再会。しかしカデルのときのような感動は湧き上がってこない。ラヴィアスのときのような驚きもない。ノイムの思考はどこまでも深く、深く沈み、仄暗い色を帯びた。
(結局、私はここにたどり着くのか)
それは一種の絶望だった。
新章です。ようやく異世界ファンタジー感が出てきます。よろしくお願いします♡




