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魔王に殺された代理勇者の。  作者: ねずみもち月
三章 代理勇者の家族
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63.目覚め、崖っぷちで

 水が流れている。さほど遠くない場所だ。ざあざあと音がした。


 固い床が小刻みに揺れている。板がきしみ、車輪が回る音が頭に響く。寝心地が悪い上になんだか傾いている。ノイムの体は傾斜に従ってずるずるとすべった。

 姿勢が変わったとたん、口の端からよだれが垂れる。口を開けて呆けるとは、どうも深く寝入っていたらしい。久しぶりにお腹いっぱい食べたからかもしれない。口元を適当に肩のあたりに押しつけて拭う。


 すると、不自然に差し込んだ明かりが顔を直撃した。

 幌の隙間から入ってきている。いや、これはもはや穴ではないか。ぶどう畑に落ちたときに穴でも空いたに違いない。これじゃあ眩しくて寝ていられない。

 おまけにものすごくだるかった。テスト勉強で夜なべしたあと、朝方に二時間だけ寝て登校したときの眠気と気だるさに似ている。起きなければいけないので夢も見ない眠りの半ばで無理矢理覚醒した、そんな感覚である。


 ノイムはのろのろと目を開けた。

 重りをつけたように沈むまぶたは、すぐさま視界を閉ざそうとする。気を抜いたらふたたび眠りの底に落ちてしまいそうだった。


(もう村を出たのか……まあ、デビーだってあんな村にはいたくないだろうし……村人の目がある限りは私たちに優しくしなきゃいけないから……)


 それにしても涼しい。そろそろ夏の盛りを終えて、秋の気配が見え隠れするころではある。とはいえ一朝一夕で気温が一気に下がるはずもない。原因は耳朶を打つ水音だった。流れが速い川でも近くにあるのだろう。


 ――待てよ。


「ッ!?」


 飛び起きた。

 しかしバネのように跳ねるだけでうまくいかず、荷台の床に逆戻りする。


 そこで気づいた。

 よだれをこぼしたのは口を開けてだらしなく寝ていたからではなかった。猿ぐつわを噛まされていたからだ。しかしここまで気づかないなんて、呆けたように眠っていたのは本当らしい。


 まだ頭がぼんやりする。

 目を擦ろうとして、今度は手が縛られていることに思いあたった。足首もだ。それだけじゃない。肘のあたりにもう一本、腕ごと胴を括る縄が増えている。これではまるで、紐を巻かれたハムである。


 隣にはシンシアが転がっていた。

 彼女の(いまし)めは増やされていない。どころか、まったくの自由だ。ただ、穏やかな寝息を立てて眠っていた。


「んー、ン!」


 体当たりしてもぴくりとも動かない。繰り返し名前を呼ぶ――つもりで、唸り続けていると、低い声に遮られた。


「つくづくしぶといガキだ」


 デビーだった。いつもの位置でクッションに埋もれて座っている。

 今日の彼はどことなく上機嫌に見えた。別に笑みを浮かべているわけではないのだが、ノイムに突っかかったその声に、いつものような憎々しさがなかったのである。


「予想はしていたが……昨晩、てめぇはろくに飲まなかったらしいな」


 ノイムは身をよじって慎重に体を起こした。

 冷や汗が背中を伝う。(もや)がかっていた頭が輪郭を取り戻すにつれ、ノイムの心臓は鼓動を打った。ひとつ打つたびに、予感と焦りが確信として、全身の血管へ送り出される。


(ぶどうジュースになにか混ぜたんだ……!)


 それも強力なやつだ。デビーがマルタに渡したという砂糖にあらかじめ混ぜておいたのだろう。あるいはそもそも砂糖なんかではなくて、甘みのある薬だったのかもしれない。夕食後の記憶がさっぱりない理由も、やたらと尾を引く眠気の原因もはっきりした。


 ノイムがひと口でやめたのは正解だったのだ。

 手遅れでもあったが。


(そっか、シンシアは結構飲んでたから)


 なにをしても目覚めないわけである。


(そんでもって、私は縛られてて、シンシアは自由にされてて……)


 昨日、あれほどの面倒ごとに発展したのに、デビーはノイムに縄をかけた。もう人目を気にする必要がないということだ。


 なくなった、と言うべきだろうか。


 眠り薬に、厳重な縛め、猿ぐつわ。

 荷馬車はどこかを走っている。さほど遠くない場所から水の流れる音がする。


「小賢しいおまえの頭なら、これからなにが起こるか、もう結論は出てんだろうよ」


 荷台の揺れがおさまった。荷馬車が足を止めたのである。


「ヒルバール、どうだ」


 手綱を離したヒルバールは、デビーに頷き返して御者台から下りた。ぐるりと回って荷台に上がってくる。彼はまっすぐノイムを目指していた。相変わらず、厚い前髪のせいで表情がわからない。


 哀れな幼子は抱え上げられた。


「ンー!」

「運試しといこうじゃねぇか、クソガキ」


 外に出ると、遠く下のほうで均整な筋を描くぶどう畑が見えた。昨日滞在した村の畑だろう。荷馬車はおそらく朝早くに出て、ここまでせっせと登ってきたのだ。道幅には余裕があるものの、道の端はばっさりと切り落とされ、眼下に開けた景色が広がっている。


 文字どおりの崖っぷちだ。

 ノイムが起きる前から聞いていた水音の正体は、この下にある川だった。


 切り立った山をうねりながら進む道は、荷馬車が停まったこの位置でちょうど、川を真下に見下ろせる崖の端に寄るのである。足元では白い飛沫が上がっていた。川の半ばに突き出た岩がつるんと丸い。大岩を削ってしまうほどの急流である。


 もう間違いない。

 ノイムは今から、このなかに投げ込まれる。


 ヒルバールのあとを追って荷台から降りてきたデビーが、声を立てて笑った。


「ま、おまえにツキは回ってこねえだろうが」


 当たり前だ。いくらなんでもこの状態では無理だ。両手両足を縛られ猿ぐつわを噛まされた状態で、川に投げ込まれる。流れの速い川。底から岩がいくつも突出している川。あらゆる意味で最悪だった。生き延びる自信なんて持てるわけがない。


 よしんば今この瞬間に自由を得たとしても、なす術はない。ノイムの小さな体では、意識のないシンシアを連れてデビーやヒルバールの手を逃れるのは不可能だ。


「後悔したか?」


 デビーに見下ろされる。彼は得意げな顔をしている。ノイムは精いっぱいの威嚇を込めて唸ってやったが、デビーの表情はちらとも崩れなかった。


 ノイムはいつだって詰めが甘い。

 カデルが攫われたときも。

 モニカが殺されたときも。

 デビーに見つかったときも。


 思い返せば失敗ばかりだった。完全な失敗じゃない。中途半端な失敗だ。


 カデルのときは目の前で人攫いに逃げられた。頼みの綱のラヴィアスになりふり構わず縋っていれば――そうだ、いつか彼が言っていたように「見捨てるのか、薄情者」と罵っていれば、その場でカデルを助けてもらえる可能性があった。


 トパの街ではなお悪い。ツィリルの真意をはかりそこねて、モニカを託してしまった。彼がモニカを可愛がっているなんて勝手に思い込んだノイムの落ち度だ。最初から、ツィリルがモニカを疎んでいるとわかっていれば、彼に隙なんて与えなかった。モニカが死ぬことはなかっただろう。


 ついでにデビーの存在を失念していた。狙われる立場でありながら、呑気にシンシアと距離を縮めてしまったことも――失敗だとはいいたくないが――よくなかった。ほかならぬ、シンシアのために。

 この場で考えるだけでも対処法はいくらでも思いつく。ノイムは最善手を選べなかったのだ。だからこんなことになっている。


「やれ」


 デビーが顎で指示を出した。

 ヒルバールはノイムの胴を括った縄を掴んで、荷物のようにぶら下げる。


 ノイムの頭はもう崖からはみ出していた。はるか下で唸りを上げる水流がよく見える。気のせいに違いないが、白く立った飛沫が顔にかかる心地がした。


(シンシアは大丈夫かな……私みたいな目に遭うことはないだろうけど……)


 ノイムがいなくなれば、彼女も多少はおとなしくなるはずだ。時々はやはり、デビーの憂さ晴らしとして暴力を振るわれるだろうが、ひどいことにはならないだろう。そう信じたい。ノイムが巻き込んだ運命だ。


 ノイムはここで死んでもいい。

 代わりにシンシアに良い未来が訪れるように。無事で親もとへ帰れるように。

 きつく目を瞑ったノイムは、必死で祈った。ここが礼拝堂なら、誰よりも熱心に見えただろう。あいにく、目前にあるのは女神像などではなく、人を溺死させる川である。何度瞬いても変わらない。


「なにをぼうっとしてる。とっとと投げろ」


 今さらためらうことがあるのか。さっさと落としてくれ。ノイムはヒルバールを見上げた。下からだと、彼の頬に浮いた鱗がわずかに見えた。その向こうにある瞳も。


 目が合った。

 ヒルバールの腕がしなる。振り子のように引いて、前へ。


「う」


 ノイムは宙に放りだされた。

 一瞬の浮遊感。崖上の人影が、荷馬車が、みるみる遠ざかる。耳元で風が唸る。細かい飛沫が首筋を叩き、どうどうと音を立てる川面が背中に迫る。


 縄でぐるぐる巻きにされたノイムが落下するさまは、さぞ滑稽なことだろう。

 あのときよりもひどい格好だ。


(――あのとき)


 頭から川に突っ込む。全身を叩きつけられる衝撃。ひときわ派手な飛沫が上がる。猿ぐつわのせいで半端に開いた口からどっと水が流れ込んだ。急流がノイムをぐいぐいと押しやる。水面はもはや遠い。


 息ができない。体が思うように動かない。冷たい。寒い。こわい。

 すべてが懐かしい感覚だった。


(前はラヴィーさんが)


 ――彼が、助けてくれたのだ。


 人を呑むという魔の森で、ノイムと仲間たちは無様に散逸した。そうして逃げ惑いながら、たったひとりで応戦していたペトルイノシシに突き落とされ、ノイムは崖を真っ逆さまに落下する。そう、あのときは、まだ互いに名前すら知らなかったラヴィアスがノイムを抱えて、ともに川に飛び込んだ。


 今のノイムはひとりぼっちだった。


 あのときよりもひと回り小さな体で、天地もわからぬままきりもみしながら流されている。


 ぼこぼこと泡を吐きながら、かすかな笑みを浮かべた。

 ここで死んだら、また転生できるだろうか。

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