62.ぶどう、堪能する
腹いっぱいまで食事を詰めこんだのは、何日かぶりのことだった。
皿に並々と注がれていた豆たっぷりのスープは、すでに綺麗に平らげられている。黒っぽい焼き上がりのパンにはレーズンが混ぜこんであった。小麦よりも安価に手に入るライ麦で作られているらしく、噛み切るのに苦労するくらいには硬かったので、スープに浸してから食べた。
デザートにはぶどうが数粒提供されたのだが、今度こそはノイムもシンシアも、迷わず皮を剥いてからいただいた。
成功間違いなしと確信までした逃走計画で惨敗した日の晩である。
「カデルを追いかけて孤児院を飛びだした先で、ラヴィアスって人に会ったの」
「その名前聞いたことある。たしか、ノイムをトパの街の孤児院に連れてきてくれた人だよね?」
「そう」
ノイムとシンシアは、デビーの荷馬車のなかで顔を突き合わせていた。
幌の隙間から村の酒場が見える。旅人が泊まる宿屋も兼ねているので、敷地内には倉庫や厩舎があった。その厩舎の横に、荷馬車は停められている。
デビーはもちろん宿に泊まる。ここにはいない。
村人からはノイムとシンシアも室内に宿泊してはどうかと誘われたが、ふたりは駄々をこねて断った。この村では特に、人が大勢いる場所は避けたいところだ。同情ばかりが寄せられてしまう。『お金に困った両親からデビーに預けられた姉妹』という肩書には耐えられない。
だからこうして、食事も馬車の荷台で取っているのである。
話をするのにもちょうどよかった。
食事の席でするものではないとは思いつつ、ノイムは自分の生い立ちをシンシアに語っていた。もう隠しておく理由がないと思ったからだ。もともと仔細があったわけではない。こんな血生臭い話はシンシアの耳に入れたくないという、いわばノイムの身勝手だ。
これは昼間に、シンシアの手で打ち砕かれている。
だからノイムはシンシアを……言葉を選ばずいえば、軽視するような態度や言動をすることをやめにした。
「――で、院長とアリサをうっかり殺しちゃったから、子供たちが路頭に迷っちゃう。その責任を取るために、ラヴィアスさんは、私やほかの子供たちの行き先を探してくれたの。ついでにカデルを捜してもらう約束をしたのが、私がトパの街に行った日なんだ」
シンシアは、特にレオやタランが酷い目に遭ったところや、院長とアリサが殺されたところなんかで息を呑んで、口元を両手で覆ったが、それでも静かに最後まで聞いていた。動揺はしたようだが、激しくショックを受けたような様子はない。
「だからノイムは、なんかおとなびて見えるんだね。たくさん危ない目に遭って、たくさん自分で考えたから……」
どこか納得したふうだった。
ノイムはシンシアが譲ってくれたぶどうの最後のひと粒を頬張った。もごもごと動くノイムの顔を、シンシアは真剣に見つめている。
「それじゃ、やっぱりなにか考えがあるんだよね? デビーがノイムをこ、殺すつもりなの、わかってたんでしょ。ずっと黙ってたのは、切り抜ける方法がとっくに思いついてて」
「ないよ、そんなの。あったらお姉ちゃんと一緒にとっくに逃げてるもん」
シンシアが口を開けたまま固まった。
「な、な、じゃあなんで教えてくれなかったの!」
「不安ばっかり煽ることになるから。私も考えないようにしてたし」
デビーのもとから逃げ切ってしまえば解決する問題だった。だから逃走だけに重点を置いていたのである。わざわざ殺されそうなことを意識していれば、ノイムだって無駄に緊張する。
「明日にでも殺されそうだってのに、君は冷静すぎるよ」
ふたりは同時に外を見た。
馬はいないが、御者台にヒルバールが座っている。ノイムとシンシアのお目付け役である。彼は振り返って、ふたりの会話に加わった。口がへの字にひん曲がっている。
「白々しいなぁ。あんたが、私たちが逃げるの止めてるのに」
「だって知らなかったんだ。これから君たちをどうするかなんて、ご主人様は話さなかった」
ノイムとシンシアは子供で、デビーは子供の奴隷を扱っている。だからふたりのことは奴隷にするのだと、ヒルバールがひとりでに納得していただけだという。
「これから楽しめると思ったのに、殺すなんて」
「私たちがこき使われているのは見ていて面白いわけね」
「そりゃそうだろう」
生返事だった。ヒルバールの声にはなんだか覇気がない。そういえば、村に来る前もぼうっとしてデビーに怒られていた。
まさかとは思うが、ノイムが殺されるのがショックなのだろうか。
「……じゃあ知ってたら、私たちが逃げるのを黙って見送ってくれた?」
黙って目を逸らしたヒルバールに、ノイムは鼻を鳴らした。
結局、この青年奴隷は味方にはなり得ないのである。彼は今の暮らしが最上だと思っていて、それ以上に良い生活は存在しないと考えているのだ。だから、日常の些細なことでデビーの神経を逆なですることは気にしなくても、決定的なところで逆らおうとはしない。
「たとえ深夜に逃げだしたところで、あんたは絶対に見逃さないだろうね」
「人が死ぬことより、自分が怒られないことのほうが大事なの?」
ヒルバールはもうこちらを向いていなかった。シンシアの問いに答えようともせず、ただ村を眺めている。
「説得しようとしたって無駄だよ、お姉ちゃん」
まだいくらか猶予はある。人里が近いうちは、デビーも下手なことはしないだろう。
同時に、少なくともこの村にいる間は、ノイムも行動を起こせない。村人はノイムとシンシアを両親に売られた子供だと思っているから、皆、デビーの味方だ。人目が多すぎる。
ノイムはぶどうの汁まみれになった手を拭うと、口元を覆ってシンシアの耳に寄った。
「武器を奪えば優位に立てる。ヒルバールのナイフ、あれが良いと思ってるんだけど」
「それは、デビーとヒルバールを」
「場合によっては殺す」
シンシアは大きな瞳を泳がせた。御者台に座るヒルバールを見、デビーが泊まっている宿屋のほうを見る。そしてノイムに戻ってきた。
「……あたし、戦ったことない」
「私には……えーっと、知識がある」
前世の話に足を突っこみかけて誤魔化した。
「危なくない?」
「危ないよ、とっても。でも、ただ逃げるよりはよっぽど自信がある」
結局はノイムが矢面に立つことになる。シンシアはやや不満げだった。
しかしここで、先ほどのノイムの以前の孤児院での話が活きてきた。ノイムはシンシアよりも圧倒的に場慣れしている。ノイムが動けることは、モニカが殺されたあの夜の出来事でも明らかだ。
シンシアが頷いた。無理矢理に納得したらしい。
「わかった。どっちにしろ、逃げるのはもう何度も失敗してるし……できることは、ぜんぶ試したほうがいいよね。あたしはどうすればいい?」
「とにかく人質にされないように――」
会議はそこで中断された。
「あら、内緒話? おばあちゃんも混ぜてくれるかしら」
振り返ると、マルタが立っていた。ぶどう畑でデビーが助けを求めた老夫婦の、妻のほうである。彼女が両手で支えたトレイには、木製のコップがふたつ並んで乗っていた。ほとんど黒にしか見えない、濃い紫色の飲みものが注がれている。
「ぶどう酒よ。よかったら飲んでちょうだいな」
ふたりが礼を言うと、マルタは朗らかに笑った。なんだか機嫌がよさそうである。
「デビーさんがここのぶどう酒はとっても美味しいって褒めてくだすってね。それで、あなたたちにも飲ませてあげるって約束したことを思いだして」
それで持ってきてくれたわけだった。匂いをかいでも、酒気はほとんど感じられなかった。それにしても色が濃い。聞けば、水ではなく絞ったぶどう……つまりぶどうジュースで薄めたのだという。
ひと口含んだシンシアが、あまぁい、と目を輝かせた。
「ぶどうのときは苦いのと酸っぱい味があったのに、それも全然ないね」
「ちょっと甘すぎる気もするけど……」
「お砂糖を入れているのさ」
「えっ」
農村では砂糖は高級品だと相場が決まっている。そんな贅沢なものを使ってくれたのか。
「そんなに驚くことかいね。デビーさんが使ってくれって私らにくれたんだよ」
ノイムは余計に目を剥いた。
あのデビーが? いくらなんでも親切すぎる。不気味だ。いや、不気味を通り越して不吉だった。ノイムはそれ以上飲むのをやめて、コップをマルタに返す。
「ごはんでお腹いっぱいでもう飲めないや。ね、お姉ちゃん?」
「うん……?」
ノイムがシンシアの腕を引くと、彼女もコップから唇を離す。強く握って首を振ると、シンシアもなにごとかを察したようだった。
「……そうだね。おばあちゃん、ごちそうさまでした」
「美味しかったかい?」
「とっても!」
ノイムとシンシアは声を揃えて答えた。
「そりゃよかったよ。これからきっと楽しいことはたくさんあるからね。あんまり悲しんでちゃ駄目よ」
マルタはしきりに頷きながら、飲みかけのぶどうジュースを持って荷馬車から離れていく。彼女の背中が見えなくなると、ノイムは御者台のヒルバールに質問を投げた。
「今までに、デビーが子供に優しくしたことなんてあった?」
「僕が来てからは君たちが初めてだな」
あまり期待していなかったのだが、彼はきちんと答えてくれた。
「ご主人様にも、人の心があったんだよ」
「あんたに訊いたのが間違いだった」
ノイムがため息をつくと同時に、隣でシンシアが大あくびした。




