61.覚悟、見せつける
この子たちも現実を受け入れられただろうから、縛るのはやめてあげなさい。
真実を知ったんなら、もう逃げたりしないでしょうよ。
可哀想に。せめて奉公先でよいご主人に出会えるといいわ。
ほら、もう泣きなさんな。今日はうちの村に泊まるといい。
とびきりのおもてなしをしてあげようかしらね。元気を出して。
本当にすまないことをしたね、デビーさん。事態をややこしくしてしまった。
「いや、いいんだ。誤解をされるようなことをしていたのは事実だからな」
耳を抜けていく慰めの言葉のなかで、デビーの声だけははっきり脳まで届いた。シンシアの背中を撫でながらまだ呆然としていたノイムは、うっかり「何が誤解だ。ふざけんなよ、クソ野郎」と叫ぶところだった。喉まで出かかった罵倒をぐっと飲み込んで胃に落とす。
いつの間にか、傾いた荷馬車はあぜ道に上げられていた。
「馬も大丈夫そうだね。よければこのまま、君たちを村に招待しようと思うんだが」
「場所はわかったから、あとから追わせてもらおう。俺はこの娘を慰めねばならん」
もう睨みつける気力も湧かなかった。ノイムは泣きじゃくるシンシアにくっついたまま、村へ引き返していく村人たちを見送る。
話し声が遠ざかると、その場の空気がはっきりと変わった。
「俺がなにも考えてねぇとでも思ったか、クソガキ」
「用意周到じゃんか、デブ」
ノイムは咄嗟に屈んだ。
頭上で風を切る音がした。デビーの拳である。
すれすれで殴られるのを回避したノイムは、ほとんど地面と同じ目線からデビーを見上げた。今までにないほど怒りで顔が真っ赤になっている。湯気でも出そうな色だった。
「出てくんじゃねえと言っただろうが、クソが。どうせおまえだろう。悪知恵はたらかせやがって」
「あんたが目を離すから――」
言いかけたところで、視界が遮られた。
シンシアがノイムの前に立ったのである。肩が激しく上下していた。しゃくり上げるのが聞こえる。
「シシー?」
「の、ノイムじゃないよ。あたしが」
「……シシー、シンシア、なに言って」
「あたし、が、逃げようって言ったんだ」
一言発するごとに、シンシアの息は整っていくようだった。
「今なら逃げられると思って。ノイムにはやめておこうって言われたんだけど」
繰り返しシンシアを呼ぶノイムの声は、見事に無視された。シンシアは止まらない。むしろどんどん饒舌になっている。ノイムはたまらず、シンシアのスカートを掴んだ。
ぱしん、と乾いた音が鳴る。
ノイムの手は、払われた。
「あたしが無理矢理、あのおばあちゃんに声をかけたの。あなたが言い訳までぜんぶ考えてるなんて知ってたら、こんなことしなかったのに。ノイムはわかってて止めてたのに、あたしったら馬鹿だった」
「――本当にな」
デビーが唸ると同時に、シンシアの体が消えた。
尻もちをついたノイムが見たのは、ぶどう畑に背中から突っ込むシンシアの姿である。思いきり殴られたのだ。下手なりに衝撃を受け流せるノイムとは違う。シンシアはまともに食らった。
「シシー!」
大慌てで立ち上がったノイムは、転がるように走って畑に飛び降りた。
ぶどうの木が一本なぎ倒されていた。その上に、背中を丸めたシンシアがうずくまっている。顔は無事だった。アザひとつない。ただ、脇腹を押さえている。
振りかぶった拳で、力任せに胴を叩かれたのだ。
「シシー、見せて。どれくらい痛い? 骨は大丈夫?」
「た、たぶん……」
「どうしてあんなこと言ったの! 私もシシーも、同じことを考えてたからおばあちゃんに話しかけたんでしょ。シシーばっかりが殴られるなんて」
そこでノイムは黙った。
シンシアにじろりと睨まれたのである。心から恨めしく思っている顔だった。シンシアにそんな目を向けられるのは初めてのことだ。思わず、彼女の体から手を離した。
シンシアがゆっくりと起き上がる。
「そのセリフ、そっくりそのままノイムに返すよ。ノイムはいっつも自分でぜんぶ被っちゃう。逃げるの失敗したときだって、殴られるのはいつもノイムだった。見てるあたしの気持ちは考えたことある? ノイムが殴られてるの、見てるの結構辛いんだよ」
「で、でも、あれは本当に殴られてるわけじゃなくて。そりゃあちょっとは当たってるけど、私、自分から跳んで痛くないように避けてて……」
「それでも!」
シンシアの鋭い声に、ノイムはぴたりと黙った。
「あたしはいやだよ。あたし、あたし……ノイムのお姉ちゃんでしょ? ノイムはあたしの妹でしょ? ひどい成りゆきだったけど、家族になったんだもん。こういうときは、あたしが矢面に立つべきじゃないの?」
薄く笑ったシンシアが、ノイムの前髪を撫でた。
おそらくノイムは今、とんでもなく情けない顔をしている。まるでノイムのほうが殴られたかのような沈痛な表情である。
「妹を護るのは、お姉ちゃんの役目だよ。ノイムには譲らない」
ノイムは、額のあたりをゆっくりと往復するシンシアの手を掴んだ。
シンシアの指先は震えていた。言葉を紡いでいる唇も激しく震え、額には脂汗が浮かんでいる。
それでも、シンシアは話すのをやめなかった。
「ふたりで逃げるんでしょ。それなら痛いのも怖いのもひとりで抱えちゃだめだよ」
「……そんじゃ、次からはふたりで一緒に殴られよう」
やっとのことでそれだけ言えた。
息を吸うと、ノイムの鼻がずび、と鳴った。
「あたしの気持ちわかった?」
「わかった、すごくわかった。ごめん……」
反省すると同時に、ノイムは顔から火を噴く思いに駆られた。
デビーから逃げるというのは現実的ではない。ならば戦うしかない。先を見据えたとき、ノイムはなにを考えた? シンシアに物騒な場面を見せたくないと。だから戦うことは避けたいと思わなかったか。
それはたしかにシンシアを護る選択だろう。しかし裏を返せば、彼女を無力な少女として舐めていたとも取れる。ノイムが前世のまま、成人間近の女性だったらそれでよかった。ノイムは圧倒的な護る側で、シンシアは護られる側だ。
しかし今は違う。
ノイムの体はシンシアよりもずっと小さい。足だって彼女よりも遅い。純粋な腕力でだって劣る。それなのにノイムは、シンシアを背に庇って、自分ばかりですべてをこなそうとしていたのだ。そんなこと、できるわけがないのに。
今さらそれに気づいた。恥ずかしい。穴があったら入りたいとはこのことだ。シンシアの顔を見るのすら耐えられなかった。ノイムは涙をこぼしながらうつむく。
「わかればよし。泣かないで」
「泣いてないもん」
泣いてないもん、ともう一度呟いて、ノイムは目を擦った。
「シシーこそ……お姉ちゃんこそ、さっきはめちゃくちゃに泣いてた」
「き、気のせいだよ。妹の前でぶざまな姿を見せるわけないでしょ」
顔を逸らしたシンシアの耳は、ほんのりと赤く染まっていた。
張り詰めていた空気が、ふ、と弛緩する。ノイムを襲った激しい羞恥も少しずつおさまってきた。
「お姉ちゃん、立てる?」
「大丈夫、痛いのおさまってきたから」
嘘ではないようだ。シンシアは自分の足で立ち上がった。この様子なら骨は大丈夫だろう。ノイムはほっと胸を撫でおろす。
ぬ、と細長い影が背後に立った。
「あんまりのんびりしてると、また殴られるんじゃない?」
ヒルバールである。
彼はあっという間にふたりを捕まえて、小脇に抱えてしまった。
「ちょっと、私たち荷物じゃないんだけど」
「そこあんまり触らないで、痛いの」
「自業自得」
馬鹿にしたように言い捨てると、ヒルバールは畑から上がった。ノイムたちを荷台に放り入れる。
奥ではすでに、デビーのずんぐりした体がクッションに包まれて座っていた。
「この先の村にいる間は、おまえらを自由にしてやる」
だが、それまでだ。
一音一音を区切るように言ったデビーは、音が聞こえそうなほどに歯を食いしばっていた。
「特にてめぇはな」
デビーの小さな目は、まっすぐノイムに向けられていた。
すかさずシンシアが間に入る。
「さっきのはあたしから言いだしたって言ったでしょ。なんでノイムが!」
「もはや一日たりとも生かしておけねぇ。とっとと殺してやる。覚悟しておけ」
シンシアの訴えはきっぱり無視された。ちらとも見ない。デビーの殺意が向いているのはノイムだけだ。当然である。彼からすればノイムは、商売の大事な取引先をひとつ潰した上、役人から追われる立場へ落とした恨むべき相手だ。ノイムさえ潰せば、少なくとも、デビーの身がこれ以上に脅かされることはなくなる。
もちろん子供奴隷の売買なんて職も、その取引先である孤児院も、法に抵触するものだ。すべてはデビーの自業自得なのだが、それが通用するのであれば、ノイムはこんなことになっていない。
デビーはノイムを殺そうとする。
この結果は初めからわかっていたことだ。ノイムはもはやなんとも思わなかった。
だから、シンシアの動揺が余計に際立った。
「……ころす?」
デビーに殴られたときよりもよほど震えている。血の気が引いた顔は真っ白だった。今にも倒れそうだ。見開かれた瞳が、デビーとノイムの間を落ち着きなく往復した。
「あたしたち、奴隷として売られるんじゃなかったの?」
「おまえはな。そっちのチビは違う。最初から殺すつもりで連れてきてんだよ」
「ノイム、わかってたの?」
もちろんだ。ずっと前からわかっていた。シンシアと出会う前からずっとである。
だからノイムは、とびきりの笑顔をデビーに向けた。
「やってみなよ。絶対に生き残ってやる」
「口の減らねえガキだ。後悔しても知らんぞ」
「言ってろ」
村人の前で丸めこまれたときの敗北感など吹き飛んでしまった。
どれだけ脅してもノイムが怯まないと察したのだろう。デビーは荷台の床板に唾を吐いた。怒りの矛先を変えることにしたらしい。
彼は御者台に座るヒルバールを怒鳴りつけた。
「なにをぼうっとしてる! とっとと出せ、のろまめ。聞いてんのか、おいっ」
ようやく荷馬車が走りだした。




