49,誘拐、可愛らしく
「あたしはノイムを信じる。ほかの誰が信じなくてもね」
シンシアは迷わず言い切った。
ノイムの目頭がみるみるうちに熱を持つ。それでも、涙をこぼすことだけはなんとか耐えてみせた。おそらく目が赤くなっている。
誤魔化すように俯いて口を開いた。ちょっとだけ鼻声になってしまった。
「……本当に誰にも信じてもらえなくて、結構、参ってたの」
「孤児院の人? みんなノイムを嘘つき呼ばわりしたの?」
「したの。おかげで嫌われちゃった。ヘラだけはちょっとアーサーを疑ってるみたいで、私にも普通に接してくれるけど……」
今となっては、彼女も皆と一緒になってノイムを大ほら吹きだと決めつけてくれたほうがよかった気もする。ヘラの身が危険にさらされる可能性があった。
そして危ない目に遭うかもしれないのは、シンシアも同様である。
「ノイムは?」
「え?」
「ノイムはなにかされてない? そんな顔色なのも、アーサーのせいじゃないの?」
質問してはいるものの、シンシアはすでにそうだと決めつけて疑っていないようだ。実際そのとおりなので、ノイムとしてはなにも言えない。
「夜中に刺されそうになって、それからあんまり寝れてない」
素直に話せば、シンシアの口がぱかっと開いた。
「いつ!?」
「何日か前……」
ノイムはこみ上げてきた欠伸を噛み殺した。しかし殺しきれずに、くあ、と息を吸ってしまう。そこでシンシアに両肩を掴まれ、危うく舌を噛みそうになった。
「わかった、ノイム。あたしの家においでっ」
「……エッ」
今から? と問う前に腕を引かれた。
目抜き通りをさかのぼって、教会からはどんどん離れていく。さすがにまずいのではと手を引っ張り返したが、びくともしなかった。当然である。年上のシンシアのほうがずっと背が高いし、力もある。
ノイムは引きずられながら、とっくに見えなくなったトパ孤児院の皆に目を向けた。
教会に着いた彼らは、子供がひとり欠けていることに気づいておおいに焦るだろう。教会へ行く道から外れてしまったので、いくら目抜き通りを戻って孤児院までの道をたどっても、ノイムが見つかることはない。ノイムが行方不明になった、と騒ぎになるはずだ。
――まあ、どうでもいいか。
心配かけて申し訳ない、という気持ちはほとんど湧いてこなかった。ただ、ヘラの顔を思い浮かべると、わずかに胸が痛んだ。
痛んだが、それ以上のことを考える余裕は、ノイムにはない。
シンシアに手を引かれるまま、トパ孤児院がある一角も背後に置き去りにして、街の南側の住宅街に入った。
このあたりの住宅はシンプルだ。
平屋が基本なので背は低い。三角の瓦屋根に、つるりとした漆喰の壁。どちらも隣の家とぴったりくっついているので、ぱっと見では境目がわからない。だから住宅街に入ると、同じ景色が延々続くことになる。まるで迷路である。
先導するシンシアがことさら明るい声を出した。
「初めて来ると、ぜんぶ同じ家に見えるかもしれないけどね」
ノイムの葛藤に気づいているのかいないのか、それともこの状況が、トパ孤児院からすると、ノイムが失踪したように見えるということに思いあたっていないのかもしれない。
シンシアは、通りすがる家のひとつを指さす。
「あっちの家と、こっちの家。ドアも窓も、かたちが違うんだよ。だから、ここに住んでる人は迷子にならないんだ」
「ほんとだ」
「一番わかりやすいのは、壁の色絵かも」
どの家もほとんど真っ白な外壁をしているのだが、そのアクセントとして、窓や扉の周りにちょっとした花の模様が塗り込まれていた。住人の手描きなのか、種類も色も、上手いも下手もさまざまである。
「うちの家はわかりやすいよ、ほらっ」
ぱっと笑顔を咲かせたシンシアが駆けだした。立ち並んだ家々のうちの一軒の前で仁王立ちをする。背後には、玄関扉や窓枠を囲むようにカラフルな丸が並ぶ壁があった。
「……シャボン玉?」
「花! どう見ても花でしょっ。茎と葉っぱの上に描いてあるんだから!」
言われてみればたしかに、カラフルな丸の下には、風に揺られるように弧を描く茎と、葉脈まで再現した葉が描かれている。遠目で見れば、たしかに、この茎と葉のおかげで花のように見えなくもない。しかしやはり、かたちを変えながら宙を漂うシャボン玉だと言われたほうが納得できる見た目である。
「あたしがノイムくらいの年のときに、母さんと一緒に描いたんだ」
母親は茎と葉、シンシアが花を塗ったのだという。どうりで花と茎で技量にギャップがあるはずだ。
「シシーのお母さん、絵も上手なんだね」
「そうなの! 母さんはなんでもできるんだよ」
腰に手を当てたシンシアが、自慢げに胸を反らす。誇らしげな顔で、彼女は玄関の扉を押し開いた。
「ただいま!」
室内は一間続きで、小ぢんまりとしていた。壁沿いには戸棚が並んでいる。手前に四人掛けのテーブルがあり、その横に、赤々と炎を燃やすかまどを据えたキッチン。
鍋をかき混ぜていた背の高い女性が振り向いた。
シンシアの母親だった。
紹介されずともわかってしまった。
なにしろ、顔立ちがシンシアとそっくりなのである。シンシアがおとなになったらこのように成長するだろうという、はっきりした目鼻立ちだ。驚いたように目を見開いたその表情の大きさすらもシンシアによく似ていた。いや、正しくは、シンシアのほうが彼女に似ているのだが。
「シシー、ずいぶん早いじゃない。その子は?」
「ノイムだよ」
「ああ、あの」
得心がいったように頷いたシンシアの母が指したのがどのノイムなのかが気になるところだが、ノイムはひとまず、半ば眠りに落ちかけていた脳を総動員して、どうにかこうにか頭を下げる。
「ノイム・トツヅキです。シシーにはいつもお世話になってます」
「あら、聞いてたとおり、しっかりした子ねえ」
シンシアの母はころころと笑う。
鍋に向き直った彼女は「朝ごはん、まだ食べてないのでしょ」と当たり前のように皿を用意して、ふたりぶんのスープを注いだ。ひとかけらの疑問もぶつけられることなく受け入れられてしまったノイムは、戸惑いもあらわに、シンシアに促されて着席する。隣にはシンシアが座った。
ふたりの前にスープを出しながら、シンシアの母がようやく質問を口にする。
「ところでシシー、イーくんを見なかった?」
しかしそれはノイムのことではなかった。
「見てないけど、寝てるんじゃないの?」
シンシアが部屋の奥を見やる。つられてノイムも、そちらに目を向けた。衝立で仕切られただけの寝室がある。誰かが身を横たえている気配はない。
「あなたが心配だって飛びだして行っちゃったの。どこかで行き違ったのか……あの人のことだから、こそこそ身を隠していたのかもしれないね」
頬に手を当てて嘆息するシンシアの母を前に、ノイムは目を瞬いた。スープから立ち昇る湯気が顔のあたりを揺蕩っていたが、とても「いただきます」と手を伸ばしてよい空気ではない。首を傾げ、隣のシンシアに目で問うた。
「イーくんっていうのはね、あたしの父さんだよ。イゴルだからイーくん。母さんしか呼んでないけどね」
ちなみに、母さんはね――シンシアが笑みをこぼしたときである。
「大変だ、マリちゃん! シシーを見失ってしまったっ」
血相を変えた男性がひとり、家に飛び込んできた。見るからに不健康そうな痩せた人だった。額からは、全力疾走してもそうはならないだろうというほどに汗が噴き出し、顔は紙のように白い。
だから、炎のように真っ赤な髪の色がいっそう際立った。
シンシアとまったく同じ色合いの髪である。




