4.見送り、傍観する
勇者たちが出ていったあとも、院長は長いこと孤児院の錆びついた扉を睨んでいた。
人気の少ない食堂に、ノイムがミルクを嚥下する小さな音だけが響く。お腹いっぱいになると、ノイムは短い腕を振り回して匙を叩き落とした。もちろん腹いせである。
落下した匙が、からん、と床の上で回転する。
「……嗅ぎつけられましたね」
床に手を伸ばして腰を折りながら、アリサが呟いた。
「証拠はなにも掴んでいないようだったがね。しょせんは若造だよ。しかし……ふむ」
院長は、節くれだった指で己の顎を撫でる。
「彼らがこのあたりを探っているのだとしたら、現場を直接押さえられる可能性もある」
「取引を中断するんですか? たしか、ひとり商談が成立してましたよね」
取引、商談。これまでの流れを酌むと、それは子供たちの売買の話にほかならない。ノイムの前で堂々と子供奴隷の商談の話をしようとしている。ノイムが赤子だから、会話の内容を理解できないと踏んで高をくくっているのだろう。
生憎、ノイムはただの赤子ではない。
人生を二度も道半ばでやり直している転生ベテランの赤子である。
「中断まではしないよ。良い値で買ってもらえたんだ」
「あの子は一度も病気をしたことがありませんものね。買い手は闘技場の経営主でしたか?」
「ああ。闘獣の世話に奴隷を使いたいらしい。子供なら特に長持ちするだろうとね」
耳が穢れる。それくらい酷いやり取りである。
今、勇者たちが外にいてくれたら。扉に貼りついて耳をそばだててくれていたら。今すぐこの腐った孤児院を摘発して、子供たちを全員救うことができるのに。
あるいは、ノイムが前世と変わらず成人目前の少女だったなら。
(どうして赤ちゃんなんかに転生しちゃったの……!)
今のノイムは無力だ。歯噛みしようにも歯がない。悔しがることすら十分にできない、吹けば飛ぶような弱い存在である。泣いて暴れて癇癪を起こしても、その努力が実を結ぶことはない。
「奴隷だって、あんまりとっかえひっかえやっていると出費がかさみますからねぇ」
「さすがにそこまで資金に余裕はないらしいね。病知らずの子なら闘獣から疫病をもらうこともないし、向こうにとっても良い条件だったんじゃないか」
「期待されているんですね」
アリサが綺麗な言葉でまとめたが、とんでもない。
闘技場の獣は可愛らしい動物とは程遠い。
闘獣と名はつけられているものの、その実、ただ鎖で繋いだだけの魔物である。これだけで、闘獣がどれほど危険なものなのかは察しがつくだろう。
一緒に旅をしていた拳闘士が、もともと闘技場で日銭を稼いでいたので、ノイムはよく知っている。闘技が終わったあと、興奮した闘獣をなだめるためには、かなりの時間と労力を要する。大人が五人でかかっても、ひとりかふたりは必ず、暴走トラックに当たったように跳ね飛ばされるのだ。
あの様子では、餌やりひとつとっても簡単にはいかないだろう。肉の匂いにつられた闘獣に爪で掻かれることくらいはありそうだった。肉を抉り、血が派手に噴出するようなひっかき傷をこしらえてしまえば、子供の体に希望はない。向かう先は死だ。
ノイムはアリサの腕のなかで思いきり体を反らした。落ちてもいい。これ以上こんな会話を聞いていたくない。
負の感情をあらわにすると、ノイムの目はみるみるうちに涙で濡れた。喉を引き絞り、盛大に声を上げて泣きわめく。
「あらあら……もう、本当にやりにくいわ。この子、変なところで泣くんだもの」
「眠いんじゃないか。連れていってやりなさい。片づけは私がやっておこう」
「すみません……夜中に起こした上に、お手を煩わせてしまって」
「なあに、デビーくんに書く手紙の内容を考えなくてはいけなくなったからね。もう少し起きているから、問題ないよ」
椅子から腰を浮かせたアリサが、首を傾げて院長を見上げる。
「あの奴隷商にですか?」
「ああ。取引の中断はしないが、少し先延ばしにしてもらおうと思ってね。警戒しておくに越したことはないだろう」
口の端を持ち上げて嫌な笑み貼りつけた院長は、空になった器と匙を持って厨房へ消えていく。
ノイムを抱いたアリサも、一拍遅れてそのあとを追った。
▽ ▼ ▽
「遊びに来てね」「絶対だよ」「ばいばい」「元気でね」……あどけない声が紡いだ別れの言葉が食堂を飛び交っている。
裕福な商人が、孤児院で積極的に手伝いをしている少年を見込んで、里親になることを希望したらしい。院長が皆に説明しているのを、ノイムはアリサの腕のなかから聞いた。
もちろんこれはまるっきり嘘だ。ノイムは知っていた。今日ここを発つ少年は、デビーという奴隷商に渡されて、闘技場に連れていかれるのだ。以前、院長とアリサが話していた取引がとうとう実行に移されるのである。
ノイムが孤児院に来てから、ふた月が経過していた。
(やるせない……)
離乳食も食めるようになったし、寝返りもうてるようになった。
しかし、売られていく子供を助けることはできない。奴隷の契約書を破り捨てることも、取引の手紙を事前に処分してしまうことも、孤児院にやってくる奴隷商を追い返すことも、ノイムの紅葉の手では不可能である。できることといえば、せいぜいが別れの間際に暴れたり、ノイムを抱いた院長やアリサの髪を引っ張ったり、出ていく子供の服を掴んで離さないくらいだ。
「はいはい、興奮しないでちょうだい。本当に困った子ね。お部屋に戻りましょうね」
心ゆくまで暴れたのはまずかったらしい。
別れを惜しむ子供たちの姿を尻目に、ノイムはあっけなく別棟の二階へと連れていかれてしまった。どんなにわめいても、アリサは容赦してくれなかった。しがみつくノイムを無我夢中で引っぺがして、小さなベッドに放りこむ。そして自分は、さっさと部屋を出ていってしまった。
ノイムは絶えず寝返りをうちながら、四方八方に敵意をまき散らす。泣いても叫んでも人が来る気配はない。この二か月で、ノイムの突然の癇癪にもずいぶん慣れられてしまった。
まったくもって、生きにくい世のなかである。
加えてもうひとつ、ノイムを苛立たせている理由があった。
(勇者たちが来ないからって、あいつら好き勝手……!)
普通に取引を再開しても安全だと踏んだらしい。
明後日にはまたひとり、その一週間後にさらにひとりが孤児院を出る。行き先はもちろん善良な里親希望の市民などではなく、性癖の歪んだ貴族や、子供の小さな体を都合のいい道具と考えている犯罪組織だ。これは深夜におしめを替えたときと、ほかの赤子と合わせて湯浴みをしたときに聞いた話だった。
ノイムはうつ伏せになって、両手足をびたんびたんと振り回す。
不満と抗議は、誰にも届かない。
誰か、気づいて。
孤児院を出てから、一度でも連絡を寄越した子供がいたか。
院に里帰りをした子供がいたか。
里親希望の大人が訪ねてきたことがあったか。
全部、否だ。
十にも満たない子供たちには、疑うのが難しいのかもしれない。
それでもノイムは祈らずにはいられない。
自分が成長してこの孤児院から逃げ出すまでに、ノイムはいったい、何人の子供が売られていくのを目撃することになるのだろう。
考えるだけで恐ろしい。
(はやく、大きくなりたい)
子供たちが駆ける音が聞こえる。いよいよ、件の少年が孤児院を去るのだ。
ノイムは変わらず、声を上げて泣いていた。一向におとなしくならないノイムを放置できなくなったのか、アリサの足音が階段を上がってくるのが聞こえる。
今日出ていく少年の代わりに、明後日出ていく少女の代わりに、一週間後に出ていく誰かの代わりに、また新しい子供が仕入れられる。治安の悪いサニアの、さらに辺境ともなれば、孤児なんていくらでも転がっている。ノイムのように捨てられる赤子も多い。
ノイムが年頃になるまでに、一体何人が入ってきて、何人が売られていくのだろう。
勇者失踪の報がもたらされたのは、それから半年後――ノイムが孤児院を訪れてから、合計で五人の子供が引き取られていったころ――のことだった。




