45.石壁、蹴る
モニカは魔法が使える。すっかり忘れていた。
「魔法、習ったことはある?」
「いいえ、一度も」
「なら希望はある」
魔法を学んだ上で水を操ることしかできないのであればほとんど絶望的だった。そうでないのなら、いま教えてしまえばいい。
ノイムは魔力を持っていない。魔法を使うなんてできない。しかし、学ばなかったわけではない。学ぶ過程で、自分に魔法は一生使えないと悟ってしまったのだ。
錆びだらけになった知識なら頭のなかに残っている。
「水のかたまりを持ち上げて。食堂の椅子くらいの大きさ」
「わかったわ」
モニカが片手を持ち上げた。一瞬その体が水に沈みかけたが、持ちこたえる。
みるみるうちに水面が盛り上がり、ノイムやモニカの上半身をすっぽり覆える大きさの水の球が浮かび上がった。「む……」とモニカの口からこぼれた吐息は苦しげだ。溺れないように泳ぎながらやっているために、いろいろ限界なのかもしれないが、気遣ってやる余裕はない。
「箱みたいに四角くできる?」
返答はなかったが、宙に浮いた水の面が波打って、徐々にそれっぽいかたちに変化した。あとは仕上げだ。むしろここからが一番大事ともいえる。
(はじめてなら、きちんと詠唱しないと成功しない……)
ちょっと記憶が怪しくなってきた。が、あまり悩んでいる暇はない。
「ノイム、はやくしてっ。落っことすわよ」
「わかってる。今からそれ、凍らせるから。私のあとに続いて唱えて――」
魔法の詠唱とは、自身の持つ魔力を使ってどのような効果を生み出したいのか、その道筋をはっきりさせる役目がある。
魔力を誘導するのに適切な言葉というのが古代語だ。人々が最も魔法に馴染んでいた時代の言語。ノイムとしては正直さっぱりなので、口にしながらも、その意味はほとんどわからない。ただ、人の手で自然の理を歪める旨を神に伝え、許しを請い、大地に助力を頼む、おおむねがそういう内容だとは知っている。
「――クリュスグラス」
「クリュスグラス!」
ノイムのあとに続いて、モニカが呪文を放つ。
井戸のなかの気温が、一段下がった気配がした。白い粒子があたりを舞い、モニカが持ち上げた水の箱に吸い込まれる。
ぴきりぴきりと音を立て、下から徐々に凍りついていく。
わずかに波打っていた箱の面が、そのかたちのまま固まった。
「で、できた! わたし、魔法が使えたわっ」
魔法は最初から使えてたけどね、とはあえて指摘しなかった。
水の箱は、氷の箱になった。
と同時に、モニカの支配を逃れて落下する。氷箱は飛沫を上げ、ノイムとモニカが泳ぐ水面に着地した。
「モニカ、疲れてない? ここで待ってても大丈夫?」
「問題ないわ。沈んだりしないから安心してちょうだい」
モニカの受け答えはしっかりしていた。魔力が尽きかけているということもなさそうだ。
「その氷、押さえてて」
「どうするのよ」
「上る」
宣言どおり、モニカが固定した氷の箱に、ノイムはよじ登った。ひどく揺れるが仕方ない。怖気づく内臓を奮い立たせ、ノイムは立ち上がった。
頭上では井戸がぽっかりと口を開けている。
あそこに届けば勝ちである。
「ノイム!?」
モニカの驚嘆を置き去りに、ノイムは足場を蹴った。石壁に素足を這わせて、さらに蹴る。今度は向かいの壁を蹴る。
蹴る、蹴る、蹴る。
ノイムはあっという間に、自分の身長よりはるか高くにまで跳びあがった。
しかしまだ足りない。出口は遠い。さらに蹴る。足の裏が滑ってひやりとしたが、落ちる前にどうにか体勢を立て直す。
(出――たっ!)
ひたすら壁を蹴り続けているうちに、視界が開けた。
両腕を伸ばして井戸の縁にすがりつく。どうにかこうにかつま先を引っかけて這いだしながら、ノイムは顔を上げた。
黒いマントがふたつ。
やっぱり、ノイムとモニカを井戸に放りこんだ連中だった。その背の向こうにほっそりした脚が見える。シンシアだった。宙に吊られている。
ノイムは弾丸のように飛びだした。
「ッおい!」
ノイムを捕まえたほうの男が気づいたが、遅い。ノイムは急所に膝蹴りをお見舞いした。ついでにみぞおちに拳を叩き込んでおく。うめいた男が体をふたつに折るのをろくに確認もしないまま、大柄なほうの男に取りついた。
無駄に太い首にすがりつけば、彼に捕まえられたシンシアの様子がよく見えた。
首を掴まれている。まだ目は開いているが、抵抗する力はないようだ。濡れて体に張りついた寝間着から、だらんと垂れた四肢が伸びている。
「ハッ、ガキ! そんなちっこい体でなにができる?」
大柄な男は動かなかった。ノイムに飛びかかられたのに、まったく意に介してもいない。単純な力比べではノイムの負けが見えている。それでもノイムは男から離れなかった。どころか、男の肩に脚を回し、腕を首に絡め、いっそう密着した。
「絞め落とす気か? この嬢ちゃんが死ぬほうが早いぜ」
ノイムは答えなかった。ただ男の体に全体重をかけた。
根競べである。
(喉仏の下!)
ノイムの細腕なら、力任せに絞め上げるのでは駄目だ。ピンポイントで狙うのが、最も勝算がある。
「ぐっ……」
さすがに苦しくなってきたらしい。空いた手でノイムの寝間着の背中を掴んだ。ものすごい力だが、うしろに引っ張ってくれるならば、今はただノイムの助けになるだけである。ノイムは腕が解けないようにいっそう強く組んだ。振りほどくように、男が頭を振る。フードが取れる。顔があらわになったが、この男にはもう気にしている余裕がないようだ。
シンシアを吊り上げている腕が、わずかに下がった。
(もう少し……!)
「僕を忘れてもらっちゃ困るな」
不意に背後から届いた声に、ぎょっとした。
視線を向ければ、もうひとりの男である。彼は懐に手を突っこんで、なにかを取り出した。
(げっ)
刃渡りの長いナイフだった。
当たり前だ。人を殺そうというのだから、武装をしていないわけがない。
まずいとは思ったが、動けなかった。
今ノイムが手を離せば、シンシアが絞殺されてしまう。ましてや見るからに剛力を持つ男が相手である。シンシアの首の骨が無惨に折られるさまが、ありありと浮かぶようだった。それだけは駄目だ。
「刺されたって放すもんかっ」
固く誓って、歯を食いしばる。
「幼いのにずいぶん度胸があるね。これじゃ、うちのご主人様が警戒するのも――」
そこから先は聞こえなかった。
誰かが男に体当たりをしたのである。
男のひょろ長い体は横なぎに倒れ、雨を含んで湿っぽい香りを放つ芝生に転がった。
誰が助けてくれたのか、確認する間はなかった。
重ねて、どさりと重いものが落ちる音が響いたからだ。
ハッと視線を巡らせれば、シンシアが糸の切れた人形のごとく地面に崩れていた。
ノイムは慌てて大柄な男に取りついた腕をほどいて、その肩を蹴り、シンシアの傍に着地する。背後でどうと男がひっくり返った。どうやら彼も意識を飛ばしたようだが、もはやそちらに興味はない。
ただ、シンシアの首にくっきりとついた指の跡だけに目がいった。
シンシアの上に覆いかぶさって、その胸にぴたりと耳をつける。心臓はきちんと動いている。口元に手をやる。呼吸もしている。
「シシー、シンシア! 大丈夫!?」
ぺちぺちと頬を叩けば、シンシアがわずかに身じろぎをした。
「……の、いむ?」
「よかった……」
どっと全身から力が抜ける。
何度か咳き込んで、シンシアがゆっくりと身を起こした。それを支えながら、ノイムは改めて周囲を見渡す。
敵はふたりとも倒れている。この場において意識があるのは、ノイムと、シンシアと、もうひとり――。
「ふたりとも、無事だね?」
先ほどナイフを持った男を突き飛ばし、ノイムを助けてくれたアーサーである。
降りしきる雨はいつの間にか弱まって、霧のようにあたりを漂っていた。




