44.蜘蛛の糸、あり
「起きなさいよ、ノイムっ」
ばちん、と痛々しい音が石壁に反射した。頬を打たれたのである。ノイムはしょぼしょぼとまぶたを持ち上げた。
(……走馬灯、じゃなかった)
懐かしい夢だった。あのときに戻れたらどれほどよかっただろう。今のノイムといえば――。
「ノイムったら! このバカ!」
ふたたびの平手打ちである。
「痛ったい!」
「あなたが起きないからでしょうがっ」
「待ってモニカ、力込めないで、沈む、沈むから!」
腕をぎりぎりと絞め上げられて、ようやく思考が焦点を結んだ。動くたびに水しぶきが散る。つま先が浮いていた。この状態で気絶して、よく溺れなかったものである。
ノイムとモニカは、井戸に落とされたのだ。
視界は真っ黒。一寸先は闇とはこのことだった。目の前にいるはずのモニカの顔すら判別できない。
じっと目を凝らせば、徐々に慣れてきて、輪郭くらいは把握できるようになった。
「モニカ、怪我してない?」
「へ、平気よ。あなたこそどうなの。顔を伏せてぷっかり浮いたものだから、死んだかと思ったのよ」
怖かったんだから、と堂々と言い放ったモニカの声には、震えが混じっていた。こみ上げてくる申し訳なさを押し殺しながら、ノイムは力強く答える。
「私も大丈夫……だけど、どれくらい寝てた?」
回答の代わりに、モニカの口からはくしゃみがこぼれた。
それがかえって答えとなった。井戸に落ちてから結構経っている。ノイムも寒さを感じている。雨に濡れたあとだというのもあるが、なにしろ、肩まで井戸水に浸かりきりなのである。
(井戸の水が、ものすごく冷たいってことはないだろうから……)
まだ猶予はある。ノイムは部屋から運び出される直前に見た時刻晶の色を思いだした。鮮やかな黄色だ。
(みんなが起き出すまでは、早くても二刻か)
とたんに不安になってくる。待っていれば助けは確実に来るだろう。しかし、四時間も待てばノイムもモニカも低体温症で意識を飛ばしていそうだ。ましてやふたりは子供である。おとなと比べればまだまだ体も小さい。最悪死に至っている可能性もある。
呑気に気絶していた自分が恨めしくなった。
「ここから出なきゃ。モニカ、まだ泳いでられる?」
「これくらいなんともないわ」
一緒にいるノイムが意識を取り戻したので、モニカもいくらか気力が戻ったようだ。良いことだった。
「登るための突起とかあればいいんだけど……」
ノイムは水面を波打たせ、石を積み上げてできた壁を触りながら、井戸のなかを一周してみた。手足をかけられそうな突起はない。
そう簡単にはことは運ばないようだ。
となると別の方法を探さなければいけないのだが、いかんせん、ノイムもモニカも身一つである。ナイフの一本でもあれば、石の隙間に突き刺して無理矢理登ることもできたのだが。
ノイムがため息をつくと、横合いからぽつりと問いが落とされた。
「……どうして、井戸なのかしら」
「ん?」
「だって、わたしたちは生きているわ。あの人たちはなにがしたかったの?」
殺したいならナイフで胸を刺し、利用したいなら攫って交渉材料にすればいい。しかし侵入者のふたり組はどちらもせず、ただノイムたちを井戸に放って閉じ込めた。たしかに、目的を読み取りにくいといえば、そうだ。
「たぶん、殺したかったんだと思う。誰が仕組んだかは、モニカにも予想がついてると思うけど……」
返事を待たずに、ノイムは話を続けた。
ここでモニカが不審な死にかたをすれば、真っ先に疑われるのは、つい数日前に孤児院へ押しかけて来たモニカの義母――アガータである。犯人がはっきりしていれば、どれだけ痕跡を消したところで、罪に問われるのは免れない。少なくとも、重要参考人として引っ立てられるくらいはするだろう。
「だから、誰かに殺されたってわからなくしたかったんじゃないかな」
事故に見せかけるつもりだったのだろう。
井戸から子供の凍死体が発見される。真っ先に想定されるのは、子供が井戸を覗いた際に誤って落ちたケースである。これではまず、他殺とは思われない。
「……よくそんなこと思いつくわね」
「それ褒めてる? ぜんぜん嬉しくないけど」
言いながら、ノイムはひとりで考え続けていた。
暗殺計画というにはあまりにもお粗末すぎる。
同時にふたりも井戸に落ちるのは、さすがに違和感があった。しかしこれは、侵入者たちの会話から読み取ると、完全なイレギュラーである。ノイムが起きていて、すべてを目撃してしまったので仕方なく一緒に連れ去った。そういうことだろう。
しかし部屋の窓を割って侵入するのはいかがなものだろうか。事件性があるのがひと目でわかってしまう。その上、この悪天候である。子供がひとりで水汲みに行ったと言い張るには無理があった。
(成功しなくても構わなかった?)
作戦のお粗末さに見合った結果でよしと考えているのかもしれない。失敗した上で事件性が疑われても、足はつかないから問題ない。成功すれば儲けもの。考えてみると、そんな気がしてきた。思えば、すでに一度モニカを殺そうとしって失敗し、それがモニカの父親にまでバレているアガータである。今さら失敗を恐れるはずがない。
ではひとまずここを突破すれば、ノイムとモニカは生き延びられるということになる。
そこまで結論づけたところで、肩をつつかれた。
「なにか聞こえない?」
モニカに指摘されて、はっと顔を上げる。
はるか頭上高くで物音がする。
がた、がた、とものを移動させるような。ややあって、遠くに曇天が現れた。ばらばらばら、と雫が大量に落ちてくる。雨粒である。
「ノイム、モニカ、そこにいるの!?」
井戸の口から顔を出したのは、シンシアだった。
ノイムたちが静かに攫われたせいで、彼女はなにも知らぬまま眠っていたはずだが、どうやら異常に気づいて起きたらしい。これほどありがたいことはない。
「いる! どっちも無事だよ!」
「ああ、もう、あたしったら。こんなことなら誰か起こしてくればよかった!」
ノイムやモニカを引き上げるだけなら、シンシアだけでも十分だろう。
ノイムの手はすでに感覚を失い始めている。人を呼びに戻っていたら、その間に手指がすっかりかじかんでしまうかもしれない。この狭い井戸のなかでは、人を下ろしてノイムたちを抱えて上がってもらう方法は使えないから、ノイムたち自身が動かなければならない。それができなくなっては、助かるものも助からないのである。
「シシー、私が掴まれるもの下ろして! 引っ張って!」
ややあって、上からバケツが落ちてくる。
いつも水を汲み上げるときに使う、長く伸びた縄を括ったものだ。
井戸の口からはシンシアの姿が消えた。ノイムは縄を掴んで体重をかける。ぴんと張って止まった縄は、井戸の上でシンシアがしっかり固定してくれている証拠である。これなら登れそうだ。
「モニカ、すぐに引き上げるから、待ってて」
「仕方ないわ。ノイムのほうがちっちゃくて軽いんだものね」
そのとおりだった。ノイムひとりならまだ大丈夫だろうが、モニカをひとりで持ち上げるとなると、シンシアもきついはずだ。ノイムが先に上がって、シンシアと一緒にモニカを引き上げる。これが一番確実だった。
「いくよー!」
一応、頭上に向かって声をかけた。そしてノイムは縄を両手で握りしめ、石壁に素足を這わせて、ぐいぐいと登り始める。わずかに上に引っ張られる感覚がある。シンシアもまた、上で全体重をかけて引き上げようとしてくれているのだ。
いける、と思ったところだった。
ノイムは突然、支えを失った。
縄がたわみ、内臓が浮く。つま先が壁の石を掠め、握り込んだ両手はそのままに、水しぶきを上げて井戸の底へと逆戻りした。
がぼ、と大きな泡を吐き出したところで、首根っこを掴まれる。
「ぶっはぁ! なに!?」
「シンシアの悲鳴が聞こえたわ! さっきのやつらが戻って来たんじゃないの!?」
耳元でモニカの大声がさく裂した。
慌てて上を見るが、なにが起こっているのかはわからない。ただ雨粒が額や頬を叩き、まつ毛を震わせるばかりだ。しかし、たしかに聞こえた。耳を澄ませていなければ聞き逃してしまうような、かすかな悲鳴である。
まさか黒マントのふたり組は、どこかに隠れて井戸を見張っていたのだろうか。
(おとなを呼びに行かせればよかった……!)
脱出を急いたのが失敗だったのだ。
後悔してももう遅い。今すぐにでもここを出て、シンシアを助けにいかなければ。しかし、どうすればいい。少ない凹凸にすがりついて壁をよじ登ってもいいが、できる自信がない。その上、もはやそれでは間に合わない。
ノイムは頭を抱えた。髪を掴んで、引きちぎらんばかりに力を込める。痛いだけで、なんの知恵も湧いてはこない。ただ焦りばかりが募っていく。
「ねえ、わたしの魔法は?」
モニカの声に、一瞬、雨音が消えた。
「わたしの魔法、なにかに使えないかしら?」




