43.井戸、深く
窓ガラス越しに耳朶を打つ雨音は、寝入りばなに聞く子守唄のようだった。悪いものではない。だからことさら耳を傾けながら眠りに落ちたのだが、それが幸いしたらしい。
硬いものが割れる音が聞こえた気がした。
ノイムは深夜に目を覚ました。
雨音がやけに近い。かけ布を蹴飛ばして起き上がる。
ぬ、と黒い影が現れた。
人だった。
「だ――」
だれ、と叫ぶ前に口を塞がれる。
ノイムの小さな顔を覆ったのは男の手だった。指の隙間から必死に睨みつけても、相手の表情はうかがい知れない。夜の闇に溶け込む黒いマントを羽織り、フードを被っている。おまけに男の顔の上半分は厚い前髪で覆われていた。
しとどに濡れたマントの向こうに、粉々に砕かれた窓ガラスと、そこから吹き込む大量の雨粒が見える。
この男は窓から侵入したのだ。外は豪雨だから、多少の破壊音はかき消されてしまったらしい。気づけただけまだよかったが、出遅れては意味がない。
圧倒的な力の差でねじ伏せられ、口も塞がれたまま、なす術もなく持ち上げられる。そうしてノイムが部屋から運び出される直前、割られた窓からまた新たな侵入者が現れ、寝息を立てていたモニカに襲いかかった。
(目的はそっちか!)
合点がいった。黒幕はモニカの義母だろう。今度こそモニカを処分するために人を雇ったのだ。
失敗した。飛び起きたりせずに様子を窺っていればよかった。そうすれば、モニカを助けることができたかもしれないのに。ノイムは足をばたつかせて抵抗したが、拘束が強まっただけだった。力を込められ、骨がきしんだ音を立てる。
廊下は静かなものだ。ただ遠く雨足が強まる音が聞こえるのみである。
異常は誰にも気づかれない。
一階に下りた黒マントの男は、正面玄関ではなく裏口に回った。鍵はすでに開いている。ノイムを両手で捕まえたまま、肩で押すだけで扉は開いた。
(あらかじめ外から開けておいた……? でも、そんな回りくどいこと)
たしかに今、男の両手は塞がっている。裏口の鍵を開けて外に出るには、ノイムを一度手放さなくてはならない。それなら部屋で拘束したときに、猿ぐつわを噛ませるなり縄で括るなりしておけばよかっただけだ。わざわざ運びにくい素手で捕まえて、そのために先に扉を開けておくなんて、手間のかかる方法を選ぶのはおかしい。
攫うのが目的ではないのだろうか。
黒マントの男とノイムが裏庭に出たところで、あとから大柄な影が追いついてくる。黒いマントとフードは揃いらしい。彼の脇には、モニカが抱えられていた。やっぱり口は塞がれている。
モニカは恐怖で硬直していた。
涙を浮かべて見開かれた目と、ノイムの視線がかち合う。
絶えず降り注ぐ大量の雨粒が、あっという間にふたりを濡らした。前髪が額に貼りつく。寝間着が素足にまとわりついて、雫が指先から滴った。
侵入者たちは、裏庭の隅に向かっている。
「おい、そのガキはなんだ。余計なものを連れてくるな」
「起きていたんだ。こうしなければ孤児院じゅうの人間を叩き起こされていた」
「一度にふたりも死んだら怪しまれる」
「致し方あるまい。それともこの子を解放する?」
ノイムに対する拘束がわずかに緩んだ。身じろぎはできるが、抜け出せるほどではなかった。
「やめろ! わかった、それも入れてかまわん。こいつを確実に殺すのが先決だ」
大柄なほうの男は、抱えたモニカを揺すった。やはり、彼らの目的はモニカらしい。それも命を奪うことだ。
(それじゃ、どうしてわざわざ外なんかに)
答えはすぐにわかった。
井戸である。
トパ孤児院の生活用水の一切を担っている井戸の口が、ぽっかりと天の恵みを受け入れていた。蓋が閉められていたはずだが、そちらは井戸の傍らに転がっている。
なにをされるか、理解したノイムはふたたび全力でもがき始めたが、意味はなかった。
ノイムとモニカは解放された。
ただし、井戸の真上で、である。
「きゃ――――ッ!」
口を引き結んだノイムに対して、モニカは盛大な悲鳴を上げた。しかし届かない。すべては井戸の底に吸い込まれ、運よく外にあふれたとしても、それは雨音に潰される。
井戸を覗く黒い影がふたつ。
曇天を移していた井戸の入り口が少しずつ光を失う。蓋が閉められる。
すべてが闇のなかに閉ざされる。
同時、盛大な水しぶきを上げ、少女ふたりは井戸の底に沈んだ。
▽ ▼ ▽
森は暗闇に包まれていた。
頼みの綱の月明かりは生い茂った葉に隠れてしまって、何歩か進むたびにちらりと顔を出す程度だった。てんで役に立たない。ほんの瞬きの間だけ足元に筋を落とされても困る。
足元よりも、周りが見えなければ――。
木々の隙間のあちこちから不気味な鳴き声が響いた。どこから届いているのかわからなかった。前からも後ろからも、左右からも、四方八方から聞こえてくるように思えた。
パニック寸前である。
それでなくても、仲間とはぐれて焦りが募っているというのに。
代理勇者のノイムとその仲間たちは、あらゆる生き物を吞み込んでしまうという森を訪れていた。近くの人里で行方不明事件が頻発しているので、これは見過ごせないと調査にきたのである。
案の定というべきか、ノイムたちも呑まれてしまった。
森を出られないまま夜を迎えてしまったので、致し方なしとここで夜を明かすことになったのが日没直後の話だ。野営中に魔物に襲われる可能性を考えて、交代で見張りを立てたのが深夜である。だから、深夜に襲撃に遭うことはまだよかった。
予想だにしなかったのは、襲ってきた魔物の群れが、魔力酔いを起こして一頭残らず狂暴化していたことだ。
木立から飛びだしてきたペトルイノシシ――下顎から有毒の牙を生やした魔物――の群れは、まっすぐノイムたちに突進してきた。どの個体も瞳が濁り、半開きになった口から絶えずよだれを垂らしている。魔力酔いを起こした魔物の典型的な姿である。勢いあまって焚き火に突っ込もうと、木の幹に衝突しようと、仲間の牙で傷を負おうと構いやしない。
ペトルイノシシの群れはめちゃくちゃに暴れた。仲間内で争っているのか、ノイムたちを襲っているのか、判別できないほどの大混乱だった。
気づけばこのありさまである。
ノイムはひとりで走っていた。まともに応戦できたのは襲われた直後だけだ。あとは野営地の火を見失い、仲間を見失い、方角を見失い、ペトルイノシシの姿を見失い、暗闇から届く獣の気配と追いかけっこを続けている。情けないことこの上ない。
ノイムは走りながら弓を背負い直した。構える気にもなれなかった。
こうも木々が入り組んでいては弓矢なんて意味がない。腰の長剣を抜けば、相手が目の前に迫るまで待たなくてはいけない。やっぱり意味がない。ノイムは笑った。嘲笑に近い。
「勇者の剣も――こんな場面じゃ――形なし――」
吐き出した声は震えていた。肺と心臓が悲鳴を上げている。ノイムはどこまで走ればいいのだろう。
ペトルイノシシの群れはノイムを囲もうとしているようだった。ノイムに狙われる要因があるのか、散逸した仲間の身の隠しかたが上手いからノイムばかりが狙われているように感じるのか。とにかく、木々の間から漏れ聞こえてくる獣の息遣いと足音の相当数が、ノイムの周りに集まっている。
背後にうごめく影が見えた。
ちらりとうしろを見た瞬間、横手の茂みが激しく揺れる。
ノイムは咄嗟に前に飛び込んだ。
受け身も何もあったものじゃない。湿った土が口に入り、木の根が背中をしたたかに打つ。
派手な衝突音に、哀れな木がめきめきと倒れるのが聞こえた。突っ込んだらしいペトルイノシシの長い牙に折れた幹が刺さった。あれではまともに動けまい。
ノイムはいくらかの冷静さを取り戻した。
ノイムが地面に転がっても一斉に襲ってこない。まだマシな状況だ。十分戦える。背中の痛みに顔をしかめながら矢をつがえた。
牙にまとわりつく異物を振り払おうと躍起になっていたペトルイノシシは、額から脳天を貫かれて絶命した。まずは一頭。
次の一頭に突進される前に、ノイムは走りだした。
行く手がほのかに白んでいる。
森を抜けるようだ。茂みを跳び越え、遮るもののない月明かりの下へ躍り出る。
「――げっ」
たしかに森は終わっていた。
ただ、地面もそこで途切れていた。
進む先は真っ暗闇。はるか下の渓流が、月光を反射してわずかに光っているのが見えるくらいである。対岸までは遠い。助走をつけて跳んでもまず間違いなく落ちる。いっそ飛び込んでしまうという手もあるが、この速さの川に服を着たままでとなると、さすがに無事でいられる気がしなかった。そもそも下流に滝があったら一巻の終わりである。
ここに留まって応戦すべきか、と矢筒に手を伸ばす。
振り返ったときには遅かった。
力いっぱい地面を蹴ったペトルイノシシが眼前に迫る。
剣を抜く間もない。
(牙に当たったら死ぬ――)
ぬらぬらと光る長い毒牙は、触れただけでも効果を発する。ノイムは弓を両手で構え、ペトルイノシシの突進を受けとめた。
思いきり吹っ飛ばされた。
牙とまともに打ち合った弓柄にヒビが入り、真っ二つに折れる。毒には当たらずに済んだ。木々の間から次々と走り出てくるペトルイノシシの牙は、もはやノイムには届かない。ノイムの弓を台無しにした先陣は、まっすぐに崖下へと突っ込んでいった。
ノイムも足場を失った。手を伸ばしても地面にはとうてい届かない。
雲ひとつない夜空があった。
星がよく見える。
月がやけに眩しい。
わずかな現実逃避のあと、ノイムの内臓が浮いた。崖上の景色が消え、唸る風が耳朶を打つ。乱れた髪が激しく顔を叩いた。意識が飛びそうになる。
ものを考える余裕なんてなかった。
しかし、ノイムは見た。
崖の上だ。ペトルイノシシの群れが、蹴散らされたように宙を舞う。隙間から人影が飛び出して、ノイムに向かってまっすぐに落ちてくる。
体格のいい男だった。顔は見えない。ただ、月の輝きを閉じこめたような髪が、重力に逆らってなびいていた。仲間にあんな髪色の者はいない。知らない人だ。
彼が手を伸ばした。
大きな手のひらは、まだ遠いと思った次の瞬間には、もうノイムに届いていた。風の音しか拾わないはずの耳が、低いささやき声を捉える。
「――大丈夫だから」
そして男は――ラヴィアスは、ノイムを抱きすくめた。
ふたりを飲み込んだ川が、柱のような水飛沫を上げる。
代理勇者と魔王の、かつての出会いだった。




