41.親子喧嘩、割り込む
両手で盆を支えたノイムは、ふたたび階段を上がっていた。
盆の上にはコップがふたつ乗っている。どちらも中身はぶどう酒だ。片方は水で薄めてある。あまり長い間親子喧嘩を続けているものだから、そろそろ喉が渇く頃合いだろうという気遣いである。
廊下には相変わらずモニカの悲鳴じみた怒りが響いていた。
両手が塞がっていてノックもできないので、外から声だけをかける。
「失礼しまーす」
肘を使って苦心しながらドアを押し開け、なかに入った。
「飲みものを持ってきました。ふたりとも、喉が渇いてませんか?」
「君は……たしか」
「二度目まして。モニカと同室のノイムです」
モニカの父親の目には、部屋に入ってきたノイムを咎めるような色が浮かんでいた。しかしノイムは気にしない。どころか気づいていないふりをして、にっこり笑いかける余裕すらあった。
「どうぞ、ぶどう酒です。私の右手にあるのが普通のやつです。左はモニカのために薄めてあります」
ずい、と盆を差し出せば、存外素直に受け取ってもらえた。か細い礼とともに、モニカの父がぶどう酒を飲み干す。
空のコップを受け取ったノイムは、今度はモニカのほうに足を向けた。
「はい、モニカも」
「なにしにきたの」
「差し入れ。話し合いがあんまり上手くいってないみたいだから、休憩したらどうかと思って」
先ほどと同じように、ずい、と盆を差し出す。
モニカの唇が震えていた。どころか、全身がぶるぶると小刻みに振動している。その頬には徐々に朱がのぼり、次の瞬間、ノイムの眼前にはとんでもない声量の怒声が浴びせられた。
「わたしをおちょくってるのかしらッ」
モニカがぶどう酒のコップを引っ掴む。
ノイムは薄めたぶどう酒を頭から被っていた。頭の上でコップをひっくり返されたのである。
(ま、そうなるよね)
十中八九こうなるだろうとわかっていた。
だからノイムには、ぶどう酒を受けとめるために息を止めて目を瞑る余裕すらあった。ついでに懐かしさすらわいた。食事の際には、モニカと離れた席に座るようになって久しい。彼女がこうしてノイムに水浴びさせることはずいぶん減っている。
そして意外だったのは、モニカが魔法を使わなかったことだ。
いつもならコップの中身だけをノイムの上に移動させて落としていたはずだった。手ずからやってやらねば気が済まないほど怒りを覚えたということだろうか。あるいは、ただ単に親子喧嘩で頭に血が昇っていただけかもしれない。
火に油を注ぐことになるかもしれないとは思いながらも、ノイムは口を開いた。
「落ち着いた?」
答えは、音を立てて盆に返されたコップだった。律儀なことである。床に投げ捨てないあたり、冷静にはなったのだろう。
「……出ていきなさいよ。あなたには関係ないでしょう。見世物じゃないの」
「仰せのままに」
これで彼らの話し合いが簡単に収束するとは思っていないが、一石を投じることはできた。十分だ。今度は食堂にでもぼうっと座って待機することにしよう。
ノイムは濡れた前髪をかき上げて踵を返した。
モニカの父親と目が合った。
彼はなんだかショックを受けているようだった。ぶどう酒でしとどに濡れたノイムをまじまじと見つめている。先ほどの親子喧嘩といい、モニカが癇癪を起こす姿など見慣れているとばかり思っていたのだが、そうでもなかったのだろうか。
「どうしたのかね、モニカ。お友達にこんなことをするなんて、まるでアガータのようではないか。それもこの孤児院で覚えたのか」
ノイムは危うく盆を取り落とすところだった。
どうにか指に力を込めて堪えたところで、うしろから突き飛ばされて、結局ぜんぶ床にぶちまけた。木の盆とコップが床に跳ね返る乾いた音と、モニカの荒々しい足音が重なる。彼女はノイムの横も父親の横もすり抜けて、部屋を飛び出していった。
モニカが一言も漏らさなかったのが、かえって不気味だった。
「……うそでしょ」
ついついこぼしたノイムの呟きは、いったい誰に対してだったろう。
一番は、モニカの父親に対してだったと思う。
「おじさん、今のは……モニカにだけは言っちゃいけなかったと思いますよ」
ノイムも以前、喉の奥に押しこめた言葉だ。自分を追い詰めた加害者と似ているだなんて、言われてしまったモニカがどうなってしまうか。わかっていたからだ。
それは、赤の他人であり、モニカに嫌がらせを受けているノイムですら、持ち合わせている分別だった。
(それを、このおっさんは)
空虚なものがノイムの胸をさらっていった。
(そりゃそうか、本当にモニカを娘として溺愛してたら……娘の命を狙う義母とは、真っ先に離婚しただろうし)
それをせず、被害者である娘のほうを家から遠ざけた。その時点で、父親としての愛情などたかが知れていたのだ。
モニカの父の胸元でぎらぎらと下品な光を放っている魔晶石のアクセサリーが、馬鹿げたものに思えてくる。たとえ苦しんでいるのが肉親であっても、短慮な行動を起こさずに、保身を考えて最善手を取る。なるほどたしかに、冷静な判断を下せるのだから、商売では成功するだろう。親としては軽蔑するが。
「モニカのことを娘としてほんの少しでも大事に想ってるなら、せめて居場所くらいは残してあげなよ」
モニカが胸を張って言った『父親に溺愛されている』という台詞も、結局は虚勢だった。
それがわかってしまって、コップや盆を拾うノイムの手が重くなる。のろのろと片づけをして部屋を出るとき、ちらりと見たモニカの父の顔に「赤の他人のガキがなにを口出しを」という困惑が浮かんでいるのを見て、余計に虚しくなった。
(私、余計だったかな……)
少なくともノイムがいなければ、モニカが父親から心ない言葉を投げられることはなかった。
自業自得といえばそれまでだが、ざまあみろという気分にはなれない。モニカがノイムに対してしかけた数々の嫌がらせを肯定するつもりはないが、同時に、ある種の申し訳なさのようなものがこみ上げてくる。
食堂に下りていくと、アーサーにすがりついて泣いているモニカがいた。
声はない。椅子に腰かけたアーサーの膝に顔をうずめて、ただ肩を震わせている。普段のモニカからすれば声を上げてわんわんと泣きわめきそうなのに、食堂にはうすら寒いほどの静寂が満ちていた。
彼女の頭を撫でるアーサーの目がやたらと凪いでいたのが気になるところだが、ノイムは彼らには触れずに、黙って厨房に引っ込んだ。ややあってモニカの父親が下りてきて、モニカに二言、三言告げてから帰っていったようだが、彼がなにを言ったのか、そしてモニカがどういう反応を示したのかは、ノイムには知りようもなかった。
その夜、ノイムは久しぶりにモニカの隣に座って食事をとった。
「なんの真似よ」
「べつに」
一瞥すらせずに答えれば、モニカは、ふん、と鼻を鳴らした。
ノイムがモニカのせいで飲みものやスープをこぼすことはなくなった。
その日だけでなく、以後、一度もである。
それが喜んでいいことなのか、悪いのか、ノイムには判断がつかなかった。




