40.義母、襲来する
「その反応、やっぱりあたくしの義娘はここにいるんでしょう! 出しなさいよッ」
孤児院の門前に押しかけた女は、しばらくの間なんのかんのとわめいていたが、ほどなくして職員たちの手で追い返され、孤児院に対する呪詛を高らかに叫びながら去っていった。
「なんだったんだろう。怖いね、ノイム」
庭の端に棒立ちしたまま女が帰っていくさまを眺めていたシンシアが、不安げにノイムを見下ろす。揺れる彼女の瞳を見つめ、ノイムは繋いだ手に力を込めた。
「ヘラたちが追い返してくれたし、私たちには関係ない人だろうし、大丈夫だよ」
戻ろう、とシンシアの手を引いて図書室に引き返そうとしたが、そこではたと止まった。図書室は通常、施錠されている。人がいなくなるときは鍵をかけるのが決まりだから、ノイムとシンシアが庭に出るときも、職員に頼んで鍵をかけてもらっていたのである。
肝心の職員たちは、門扉の向こうを睨みながら、ゆっくりとこちらに戻ってくるところだった。
図書室を開けてもらうついでだ。今のが誰だったのかも聞いてみよう。
(あの女、あたくしのむすめとか叫んでたけど……)
門前で追い返されたヒステリックな母親。
そのむすめとなると、ノイムの脳裏にひらめくのはただひとりである。
(うーむ、まさかねえ)
トパ孤児院には事情のある子供ばかりが集っている。ああいう母親を持つ者も、ひとりやふたりではないはずだ。生ぬるい笑みを深めたノイムは、戻ってくるヘラに向かって手を振った。
「さっきの女の人? あまり言いふらさないでね、モニカちゃんの義理のお母さまよ」
まさかだった。
「でも、モニカの居場所って、その人には……」
「隠していたわ。モニカちゃんも、モニカちゃんのお父さまも、それを望んでいたから。ハート家は遠くの街にお住まいだと聞いていたし、私たちが誰かに話すこともあり得ないから、彼女に知られるはずがないのだけれど」
困ったように頬に手を当てたヘラは、そこまで言ってかぶりを振った。
「ごめんなさい、あなたたちに言っても仕方がないことね。怖かったでしょう。心配しないでちょうだい、もうこんなことは二度とないようにするから」
図書室の鍵ね、開けておきましょう。最後に言い置くと、ヘラはちらりと一方向を見やってから、孤児院に戻っていった。
入れ替わるようにアーサーが出てくる。
「やあ、ノイム、シンシアさん。今のは見てたかな」
ふたりが揃って頷くと、アーサーは苦笑して足早に庭を横切っていった。ヘラがチラ見した方向だ。背中を視線で追えば、大樹のブランコにたどり着いた。子供たちが身を寄せ合って門のほうを見つめている。そのなかには、モニカの姿もあった。
遠目に見てもわかるほど、モニカは青ざめていた。
アーサーはそれを慰めに行ったのである。
(最初に義母の話をするときはへっちゃらですみたいな顔してたけど)
あの様子では、実際に義母に暴力を振るわれていたとき、モニカは恐怖で震えていたのかもしれない。虐待に屈しない毅然とした態度もまた、虚勢だったのだろう。
「ノイム?」
「なんでもない、行こ」
面倒なことにならないといいがと思いながら、ノイムは改めてシンシアの手を引いた。
▼ ▽ ▽
ヘラに呼びとめられたのは、午後の勉強を終えたときだった。机と椅子が立ち並んだ、学校の教室のような部屋である。
「ノイムちゃん、ちょっと待ってちょうだい」
石板と白墨を片づけ、部屋に戻ろうとしたノイムの足が止まる。
「なあに、ヘラ」
「今ね、モニカちゃんのお父さまが来ていらっしゃるようなの」
モニカの部屋で、彼女とふたりきりで話をしている最中らしい。
モニカの義母が孤児院に突撃してきたのは、昨日のことだ。昨日の今日で早速足を運ぶとは、さすがといったところだろうか。
ただ、今の論点はそこではない。問題はモニカの部屋というところにあった。モニカの部屋は、すなわちノイムの部屋だ。たとえモニカがノイムを毛嫌いしようと、ノイムがモニカにいじめられていようと、未だに寝起きはともにしているからである。
「……私は部屋に戻らないほうがいいってことだね」
「ええ、申し訳ないけれど、少し待っていてもらえるかしら」
「じゃ、図書室いく! 鍵を開けてください」
言うと思ったわ、と笑ったヘラは、豊かな臀部で膨らんだスカートのポケットから重厚な鍵を引っ張り出した。
「出入りが多いから、あなたに渡しておくわね。はい、プレゼント」
「エッ、いいの?」
「鍵を開けるために、いちいち職員を探すのも大変でしょう」
ノイムは両手で鍵を握りしめた。ところどころに錆びの浮いた金属の、ざらついた感触が手のひらに伝わる。
アーサーも同じようにして鍵を渡されたと言っていた。出入りが多いと面倒くさくなって鍵をもらえるというのは本当らしい。これでノイムは職員の都合も関係なしに、図書室に出入りできるようになったわけである。
「ありがとう、ヘラッ」
ノイムは早速教室を飛び出して、階段を駆け下りた。
空っぽの本棚ばかりの図書室だが、何週間も入り浸っていれば愛着も湧くというものだ。ノイムはわくわくした気持ちで、図書室の扉に鍵を差し込んだ。この古びた大きな鍵を回して施錠を解くのがもう楽しい。
しかし、浮かれていられたのもそこまでだった。
扉を開けて入ってしまえばいつもの図書室だ。すなわち、読むべき本もない、空っぽの本棚と掃き清められた床と、大きな窓があるだけの、虚無の部屋である。
もう何度目だろう。アーサーが持ち込んだ歴史書を数ページめくったのち、ノイムは床に大の字でひっくり返る。今日は話し相手のシンシアがいないので、ノイムはあっという間に暇を持て余した。いつもの流れだった。
(あ、モニカがいないなら、外に出てもよかったな……)
思って窓を見上げたが、もう動く気にもなれなかった。窓ガラス越しにぼうっと青空を眺める。
気づいたら眠ってしまっていたらしい。
強い光に顔を叩かれて、ノイムは顔をしかめながらまぶたを持ち上げた。窓の向こう、茜色に染まろうとしている空があった。ノイムはまた、ずいぶん長いお昼寝をしたようだ。
さすがにモニカと父親の話も終わっているだろう。
のっそりと体を起こしたノイムは、部屋に戻ることにした。
ノイムの読みは甘かった。
図書室を出てしっかり鍵をかけ、階段を上ったあたりで、なにやら言い争う声がした。片方は明らかにモニカのものである。というか、モニカが一方的に癇癪を起しているようだった。
「嫌よ! どうしてそんな意地悪を言うの、お父さまっ。わたし、ここを離れたくないわ!」
「しかし、アガータに居場所が見つかってしまったのだ。また彼女にひどい目に遭わされてしまうかもしれない」
モニカに言い返す成人男性の声はおどおどしていた。モニカがトパ孤児院に来た初日、少しだけ聞いた彼女の父親のものだ。やたら覇気がない。やはり娘には弱いらしい。
アガータというのは、流れからして、モニカの義母の名前だろう。
「お父さまがお義母さまと離婚してくれればいいのよ! わたしを殺そうとした罪でお義母さまを裁いてしまえばいいんだわ! わたし、おうちを出ることになったときにも言ったのにっ」
「し、しかしだな、アガータの実家の力が……」
「お父さまったら、わたしとお家、どっちが大事なのッ! わたしがいなくなってしまったら、ハート家は結局、後継ぎもいないことにっ」
息つく間もなくまくし立てていたモニカの悲鳴が、途切れた。
「……そうね、お父さまにはもう、ボリスがいるものね。わたしがいなくなれば、むしろ、お義母さまとボリスとは円満で、お父さまに不安なことなどなにもないのだわ」
「それは違うよ。お父さまはモニカを一番に愛している。おまえを失うなんて耐えられない。万が一、おまえが命を落とすようなことがあれば、お父さまは即刻アガータを罪人として突き出して、法の裁きにかけるだろう」
(それ、逆効果じゃないのか、おっさん)
彼がいま言ったことは、言い換えれば、モニカが死なぬ限りは全力を挙げてアガータを追及しない、ということだ。もちろんそれはモニカにも理解できてしまったろう。落ち着いていた彼女の声音が、にわかに上ずった。
「わたしが死んでからでは遅いでしょうっ、お父さまの、バカッ!」
「ば、馬鹿だなんて、そんな汚い言葉を使ってはいけないよ。どこで覚えたんだね。この孤児院かい」
「そんなことどうでもいいでしょ! とにかく、わたしはトパ孤児院を離れないわっ。おうちに居られないのなら、わたしはここにいたいの!」
なるほど、読めた。モニカの父は、モニカの居場所がアガータに見つかってしまったことで、モニカをどこか別の場所に移そうと考えたのだ。トパ孤児院を出て、ほかの孤児院に預けるか。あるいは親戚を頼るか。それはわからないが、とにかくモニカは嫌がった。
(そりゃそうだ、モニカも自分で言ってたけど)
ここには、彼女が一方的に王子様だと思っているアーサーがいる。さらに最近では、水を操れる魔法を披露して、子供たちからの注目を一身に浴びていると聞いた。ノイムという煩わしい存在さえなければ、ここはモニカにとって、自分を満たしてくれる唯一の居場所になりつつある。
離れたがらないのも当然だろう。
こりゃ長引くなと思ったノイムは、ふたたび一階に下りた。しかしあまり話し込まれるのも困る。この調子では、親子喧嘩は、夕飯時までもつれ込みそうだ。
(ちょっとちょっかい出しちゃおうかな)
ひらめいたノイムは食堂を抜けて厨房に入り込み、ぶどう酒の樽に忍び寄った。




