37.炎、出会う
ノイムの生活は一転して有意義なものになった。
干からびたみみずのほうがマシだったノイムの文字も、いま少し見栄えがよくなった。さしずめ、雨の日に地上に這い出てくる艶々のみみずといったところか。
(みみずであることは変わらないんだなあ)
日本での幼少期、小学校に入って文字を習い始めたころのことを思いだそうとしたが、あのときは薄く線の引かれたお手本の文字を上からなぞる手法が主だった。今とはやりかたが違う。なんの慰めにもならない。
それでも、年長の子供に混ざって机に向かっているときは、ほかのことに心を砕かなくて済む。暇を持て余して外で遊ぶ子供たちをぼうっと眺めることも、図書室の床で惰眠を貪ることも、眠気に抗いながら歴史書をめくることもなくなった。
代わりに、ふと我に返って独りを実感する瞬間が増えた。
代表的なのは週に一度、休息日に教会へお祈りに向かう際である。
起こしてくれる人がいないのでうっかり寝坊ができない。本来なら同室のモニカがその役目を担うはずだが、そして実際、ノイムが起きてこなかったら職員から「起こしてあげて」と頼まれるのは彼女なのだが、一度それでベッドから叩き落とされた。
以来、味をしめたのか、休息日にはモニカがこれでもかという勢いで寝ているノイムをベッドから突き落とすようになってしまった。合法的にノイムをいたぶることができる絶好の機会というわけだ。
おかげでノイムはモニカより遅くに起きることがないよう、まだ空が暗いうちに自然と目を覚ます早起きに変わった。
今日も今日とて無駄に早く起床したノイムは、欠伸を噛み殺してトパの街の目抜き通りを歩いている。
前方には談笑しながら歩く子供たちの背中があった。
いつぞやにノイムを優しく揺り起こしてくれた隣の部屋の少女たちは、ノイム抜きで手を繋いで仲良く笑い合っている。アーサーはモニカとともに、さらに前のほうを歩いていた。頭ひとつ飛び出た彼の体が見える。ヘラを含めた職員たちは、相変わらず、興味の赴くままふらふらと列を離れようとする子供たちを抑えるのに苦労しているようだった。
つかず離れずの距離で最後尾にくっついているノイムを気にかける人は、いない。
ノイムが自らひとりでいることを選んだからか、子供たちからも今や『そういう子』として空気のような扱いを受けている。年長組に混ざって勉強をし始めたことで、ある種の線引きがされてしまったというのもある。遊びに誘われることもなくなった。
こんなことなら、最初から彼らに馴染もうとする努力などしないほうがよかったのでは、と身も蓋もないことを考える。
慣れ合わなければ、離れるという感覚が生まれることもなかったわけだ。
(自分で突き放しといてあれだけど、ちょっと寂しいかもしれない……)
ノイムの踵になにかが当たったのは、そのときだった。
見れば、真っ赤に熟れたりんごがひとつ落ちている。どこかの売りものだろうかと思ったが、すぐ傍に野菜を売る店はない。
「ごめんなさいっ、それ、あたしの!」
拾って首を傾げたところで、澄んだ声が届いた。
顔を上げる。
鮮やかな赤が視界に映った。高い位置で結んだ赤毛が、ぽんぽん跳ねながら近づいてくる。
駆け寄ってきたのは、腕にバスケットを下げた少女だ。
ノイムより五つは年上だろうか。どちらかというとアーサーに近い年齢だろう。目の前に立たれると、ノイムは少女を見上げる格好になった。
「はい、どうぞ」
りんごを手渡すと、赤毛の少女は華やかな笑みを浮かべた。太陽のような輝きだった。
「ありがとう!」
お使いの途中なのか、バスケットからサニアイモやパンが顔を覗かせている。そこにりんごを放りこんだ少女は、あたりを見渡して小首を傾げた。
「あなた、ひとりなの? お父さんかお母さんは?」
「……あれ?」
言われて初めて気づいた。
露店の立ち並ぶ赤い石畳の道は、休息日ならではの賑やかさに満たされようとしている。朝焼けから徐々に青を足していく空も、その青さに照らされる人々も、ずいぶん見慣れたものだ。しかしそのなかから、見慣れた集団が消えている。
孤児院の職員や子供たちはいなかった。
最後尾を歩いていたことが災いしたようだ。見事に置いていかれてしまったらしい。職員が声をかけてくれることもなかった。ノイムを気にかける人はないと自分で言いはしたが、ここまでされるとさすがに虚しくもなる。
「はぐれちゃった……孤児院のみんなといっしょだったんだけど」
赤毛の少女が、あちゃあと額を押さえた。
「あたしのせいだ! ごめんっ」
ポニーテールを振り回す勢いで頭を下げる。手元のバスケットから、ふたたびりんごが転がり落ちた。おまけにサニアイモもごろごろと溢れてくる。ノイムは慌てて赤毛の少女の腕を叩いた。
「落ちてる、落ちてるっ」
「あ、あーっ!」
ふたりは慌てて、落ちたものをかき集めた。今度こそバスケットに収めて、ほっと一息。頬を染めた少女が困ったように眉を傾けた。「こんな小さな子にまで助けられちゃって」と嘆く。
「これだからひとりでお使いするのは向かないんだよね……何度もありがとね」
少女はシンシアと名乗った。
「シシーって呼んで。あなたは?」
「ノイム。ノイム・トツヅキ」
「ノイムね。おもしろい名前だね」
「よく言われる」
「ノイムはどこに行くはずだったの? 孤児院の人たちの行き先はわかる?」
「教会」
シンシアの顔が輝いた。それならわかるよ、と言いたげである。実際、「お詫びに、あたしが案内してあげるよ!」と胸を張られた。
「難しい道じゃないから、一回行けば覚えると思うよ。教会の屋根って目立つしね」
「……道なら覚えてるよ、もう何度も行ってるし」
ノイムがそっと口を出せば、シンシアは目を瞬いた。そしてさっと頬を赤くする。
「そっ、そ、そうだよね! そりゃそうだっ、あ、あたしったら」
ノイムって小さいからつい、とよくわからない言い訳を散らしながら、シンシアは両手を振った。腕にかけられたバスケットからさまざまな野菜が飛びだしたのは言うまでもない。ノイムはふたたび、荷物拾いをする羽目になった。
「もーっ、本当にごめんなさ」
「頭を下げない、またぜんぶ落っこちる」
勢いよく腰を折ろうとしたシンシアの頭を突いて止めた。ああそうだ、と顔を上げたシンシアがバスケットを抱えた腕で額を叩こうとしたので、その腕も引っ掴むことになった。彼女は慌てると余計にいろいろ失敗を重ねる質らしい。
どうにも気が抜ける相手である。
急いで追いかければ孤児院の皆に追いつけるかと思っていたのだが、その気も失せた。
「せっかくだから、一緒に行ってくれる? 私みたいな小さいのがひとりだと、悪いおとなに目をつけられるかもしれないから、お願い」
逆にノイムから頼んでみれば、重ねたドジに消沈していたシンシアの顔に、みるみる笑顔が戻った。
「もちろん! あたしが安全に送り届けてあげるっ」
シンシアが手を差し出してきたので、ノイムはほとんど反射的に手のひらを重ねた。シンシアは体温が高いらしい。触れたところが熱かった。
繋いだ手を揺らしながら、ふたりは目抜き通りを進んだ。




