36.暇、持て余す
誰に起こされるでもなくひとりで起床し、食堂の隅に着席して無言の食事を済ませ、庭に飛び出していく子供たちを見て「ちょっと前までは私もあのなかにいたのに……」と肩を落とし、無邪気に遊び回る彼らを、どこか恨めしい、しかし多分の諦念を含めて眺め――とはならないのが、ノイムがノイムたるゆえんである。
図書室の窓から差し込む明かりに目を細めながら、ノイムは前庭を駆ける子供を眺めた。
彼らのなかにはモニカの姿もある。皮肉なことに、ノイムと仲違いしてからのほうが、モニカはトパ孤児院に馴染んでいるようだった。思うところがないわけではないが、ノイムもまた、独りを選んだことで徐々に平穏を取り戻しているのでよしとする。
最近のノイムといえば、職員に図書室を開けてもらって意味もなく入り浸るのが常となっていた。
アーサーが持ち込んだという唯一の本はとっくに読み終わってしまった。歴史書だったのだが、途中で眠くなってしまって、何度も図書室の床で寝落ちした。
板切れに書かれたうすぼけたレシピは、孤児院でよく食事に出されているスープのものだったので、なんの面白みもない。
ペラ紙一枚に描かれた神話の絵などはひと目で見終わってしまった。ほかに人がいれば「これはなんの神様なの?」と話を聞くこともできようが、生憎、ノイムはひとりきりである。そして神話の知識もない。ただ、描かれているのが豊穣の神ハヴェルナだろうということくらいは読みとれた。描かれた内容が、長い衣を引きずった女神と、それを取り囲む穀物の穂だったからである。
「暇すぎる……」
ぼっち生活の悪いところは、手持ち無沙汰の時間が長すぎるところだ。ノイムが飽きるのに三日とかからなかった。
もう一度読んでみようかと思ってアーサーの歴史書をぺらぺらとめくってみるも、そんな気力は起こりそうもない。本を棚に戻したノイムは、大の字になって床に寝ころぶ。
「外に出て遊ばないのかい」
「どひゃあッ」
飛び上がった。棚の角に頭をぶつけた。鈍い音が響き、ノイムは頭を抱えてうずくまる。
「すまない、驚かせるつもりはなかったんだ」
ノイムの傍に膝をついてその頭を撫でたのは、アーサーだ。
「ノックもしたのだけれど、聞こえていなかったみたいだね。外から声をかけるべきだったな」
「いや……私がぼうっとしてただけだから……」
目尻に浮いた涙を袖でこそげ落として、ノイムは床に座り直した。
「どうしてここに? モニカは……あ、外で遊んでるのか」
「ああ、だから君と話すのなら今のうちかと思ってね」
「私に用事?」
アーサーは頷いた。彼が薄っすらと微笑んだままだったので、ノイムもさほど身構えずに首を傾げたのだが。
「モニカにいじめられていること、そろそろ職員に明かす気はないか」
ぎょっとした。まじまじとアーサーの顔を眺めてしまったくらいだった。
たしかに、アーサーならばうすうす気づいているのではないかとは思っていた。ただ確信したら、彼は自分から職員に言いつけてしまうだろうという予感があったから、ノイムは下手に触れずに黙っていたのである。
だから驚いたのは、彼が知っていたことに対してではない。アーサーがノイムに確認を取ってきたことに対してだった。
「私がいやって言ったら、黙ってるの?」
「そのつもりだよ。モニカの度が過ぎなければね。俺が彼女に構っている間は、少なくとも、君のことは放念しているようだから」
度が過ぎなければ、というところで、ノイムの脳裏に洗顔中に溺れそうになったあの出来事がよぎったが、懸命にも唇を引き結んだ。
「アーサーは大変じゃない?」
「モニカがほかの子供からやっかみを受けないよう、バランスを取るのが難しいところだね。でも、そうだな、モニカ自身に対して思うところがあるのかという意味ならば」
彼女、弟に似ているんだ。
アーサーの答えは、答えになっていないようにも見受けられた。
「気に入ったものに対しては前のめりなところも、気に入らぬものを排除するのに躊躇いがないところも……あの傍若無人さが、懐かしくてね」
「それだけ聞くと悪口みたいだけど」
はは、とアーサーは声を立てて笑った。邪気のない笑顔だった。
「……弟みたいで可愛いから、モニカのわがままも気にならないってこと?」
ノイムが問い返すと、アーサーは笑みを深めた。
それにしても、弟のようだとは。アーサーにおとぎ話の王子様を重ねて見ているモニカには酷な話である。妹ならまだしも、弟だ。望みは余計に薄い。
「ノイムは大丈夫なのか。こうして独りで過ごすことになってしまって、辛かったり苦しかったりしないのかい」
「ぜんぜんまったく」
ノイムがあまりにもあっけらかんと言い放ったからだろう、アーサーはむずがるような表情をした。ややあって、くつくつと喉の奥で笑う声が届く。
「君はしたたかだな。俺と同年の子と話しているような気分になる」
「子供らしくないって言いたいんでしょ……」
もはや予想ができた。しかし、その予想に反して、アーサーは首を振る。
「そんな不満そうな顔をしないでくれ。君はじゅうぶんくらいに子供だよ。そうやって、思ったことを素直に表に出すところなどは、特にね」
それはそれで、なんだか不満である。ノイムは唇を突きだした。
「君が平気なら構わないんだ。しかし、ノイム。まさかモニカが実家に戻るまでこのままでいるつもりでは」
「それはない。どうにかしたいと思ってるよ」
「そうか。君がその気なら、俺もなにかよい策がないか考えることとしよう。俺から直接注意するだけでは、ただ状況を悪化させることにしかならないだろうからね」
ところで、とアーサーは話を変えた。
「その様子だと、退屈しているのではないかな」
「してる、超してる。このままだとお昼寝以外にやることなくなっちゃう」
「ふふっ、そこで提案なのだけれど、年長組に混ざって手習いに励むというのはどうかな」
「……いいの? 私が混ざっても」
「許可は取ってある」
ノイムは何度も頷いた。願ってもないことだ。
勉強することは、ノイムがトパ孤児院にいる間にできる唯一といってもいい有意義なことである。しかし、ここで勉学に励むのは齢、十を超えた子供たちである。ノイムから勉強したいと頼んでも実現されなかった。だから口にも出さずに諦めていた。
「まずは名前を書くところから、ヘラが教えてくれるそうだ。あとで彼女のもとに行ってみるといい」
「はい!」
育った環境からして、ノイムが読み書きできるとは誰も思っていないのだろう。しかし、ゼロから習い直すことに異議はない。
文字を覚えたのは、前世の旅の最中だった。
教師は旅の仲間たちである。教えることに優れているわけでもなければ、彼らもまた、きちんとした先生に習って読み書きを覚えたわけではなかった。最低限伝わればよいということで妥協されてしまい、ノイムの文字は干からびたみみずのほうがまだ見栄えする有様なのである。
おかげで立ち居振る舞いはさほどひどくないのに文字はひどいと各所で笑われることになったが、読み書きができないよりはマシだと思って我慢していた。
(矯正するチャンスッ)
ヘラならきっと、丁寧に教えてくれる。
ノイムが人並みに綺麗な文字を書けるようになるのも、そう遠くはないはずだ。久しぶりに、わくわくする気持ちがノイムの胸を満たした。




