35.ぼっち、出来上がる
モニカが使える魔法は、本当に些細なものだった。
液体を持ち上げて移動させる。
ただそれだけだ。
だから部屋掃除の日も、バケツの水をノイムにぶつけることはできたが、バケツごと持ち上げてノイムの頭の上でひっくり返すことはできなかったのである。それでも、それから数日に渡って続いたモニカの嫌がらせは多岐に渡った。
たとえば食事のとき。
ときにはノイムが運んでいる熱々のスープをほんの少し手の甲にかけてやる。「あっつ!」と悲鳴を上げたノイムが皿を落とすこと数回。
あるいは食事の最中に、ノイムがスープを飲むのに合わせて、その皿から服に向かってひと口ぶん垂らしてやる。傍から見ればこぼしたのはノイムである。ヘラから「ノイムちゃんの口は自分で思うよりずっと小さいと思うの。だからスープは少しずつ飲みましょうね」と言われてしまった。
さらには鍋から自分の皿によそっているとき、明らかに皿の許容量を超えたスープを流し込んでやる。これは周りからかなり非難された。皆のぶんのスープをいくらか無駄にしてしまったからである。
派生して、ノイムが誰かのコップに注いでいる飲みものを、ポットからこぼしてやる。やっぱりこれも、周囲からすれば飲みものをこぼしたのはノイムである。何度か繰り返すうちに、ノイムに飲みものを注がせる子供がいなくなった。
さすがに皆に申し訳なくなってきて、そっとモニカに苦言を呈したのは三日目のことだ。
「私のことが気に入らなくて、私をどうこうすることでモニカが安心できるなら、いくらでもやってくれてかまわないんだけど……」
これは紛れもない本音だった。
モニカが使う手といえば、平たく言えば水攻めばかりである。熱々のスープでもただれるほどの火傷にはならないし、ほかだって、ただ濡れるだけだ。今は温かい時期だから、すぐに着替えてしまえば風邪をひく心配もあまりしなくていい。洗濯だって自分でやってしまえば問題ない。
「周りに迷惑をかけるやりかたはどうかと思うよ」
食事中にやられたことのうちのいくつかは、ノイムだけでなく、周りの子供たちを巻きこむものだった。
そもそも、人の見えるところでことを起こすのが迂闊すぎる。今はまだバレていないが、よくよく見ればこぼれる液体の動きが不自然なことは丸わかりだ。その証拠にというのはおかしな話かもしれないが、アーサーなどは、ノイムがなんどスープや飲みものをこぼしても、寸分変わらぬ笑顔で片づけを手伝ってくれる。
(ただ、アーサーが助けてくれればくれるほど、モニカは怒っちゃうからな……)
だからアーサーをノイムから引き離すためにも、これはほとんど親切心で教えたことだった。
「食事中はやめたほうがいいんじゃない?」
そうしたら、顔を洗うとき、水がノイムの顔に張りついて離れなくなった。
もがいてもがいてようやく解放され、肩で息をしながらへたり込んだノイムに、顔色を変えた職員がすっ飛んできたのだが、そのときのモニカといったら。
「ノイムったら、顔を洗ってるときに水を飲み込んじゃって、溺れそうになったの」
である。あまりにも平然とした顔で言うものだから、ノイムはぞっとしてしまった。
(こんなの、モニカを殺そうとした、彼女のお義母さんと同じじゃないか――とは)
口が裂けても言えなかった。
声に出してしまえば、ノイムを井戸の水で包んで暗い石の底に沈めるくらいはするかもしれない。それか、今度こそ洗顔中に窒息死させられそうである。
あるいは。
あるいは、モニカが壊れてしまうかもしれなくて。
(我ながら、とんでもないお人好しだなー)
最初は好意的だった少女から、突然手の平を返していじめられている。
それでもノイムは黙って悪意を浴び続け、うっかり命を脅かされる目に遭っても誰にも告げ口せずにいた。どころか、モニカのために、誰にも知られぬまま解決できないかとすら思っている。
モニカは自分がおとぎ話のお姫様のような人生を送ると信じていた。
自分は誰よりも可哀想で健気で、だからこそ、耐え続ければ光り輝く未来が待っていると考えていたのだろう。だから自分の境遇を語るときに自信満々だったし、ノイムに哀れむことを求めた。
要は、虚勢である。
本心ではモニカは、心細くて、今にも折れてしまいそうで、不安でたまらないのに、素直に弱った態度を見せるのも怖くて、あんなふうに強気になっている。アーサーにはずいぶん甘えているようだから、それで満足してくれればいいのだが、難しいだろう。
モニカはたぶん、本当は哀れんでほしいわけではない。
ただ、自信がほしいのだ。このままでは終わらないと、これから幸せな未来を掴むことができるはずだと、信じたい。
その理由に、おとぎ話を引き合いにだしているだけである。
しかしノイムの身の上を聞いたことで、モニカの足元は砂の城のように崩れ去ってしまった。ノイムが自分よりも凄惨な事件を乗り越えてきたと知り、それが今、平然とトパ孤児院で穏やかな暮らしを享受していると知って、「わたしが幸せになるには、もっと可哀想にならなければいけない」と思ってしまった……のだろう、おそらく。
すべてはノイムの推測の域を出ない。
「わたしが一番可哀想なのよ。低俗な不幸自慢はやめて! みんなはわたしを気遣ってくれるわ。あなたは余計なのっ」
ただ、ノイムと部屋でふたりきりになるごとにモニカがたれ流す呪詛からすると、当たらずといえども遠からずといった印象を受けた。
自分の人生が辛いか楽かなんて、他人と比べて量ること自体が間違っている。
ノイムのように、味方だと思っていた者から裏切られても、これまで重ねてきた好意を簡単にひっくり返して、憎しみに変えておしまいにできる人だっているだろう。
モニカのように義母に殺されかけて父親と離れ離れになっても、実家のことを忘れて平然と新しい生活に馴染むことができる人だっているだろう。
ただ、ノイムもモニカも、それぞれの人生で、そう割り切れる性格ではなかっただけで。
その人の辛さは、その人にしかわからない。
モニカがそれに気づいてくれさえすれば、ノイムが彼女より悲惨な人生を送っていようと、モニカが彼女の未来に対して抱く希望にはなんの影響もないと理解できるようになるはずだ。
(そのためになにをすればいいか、なんだけど)
今のところいい方法は思いつかなかった。
代理勇者時代にノイムが遭ってきた事件と比べれば、というより、ラヴィアスに殺されたショックと比べてしまえば、モニカのような少女の嫌がらせなんて蚊に刺されるよりもへっちゃらだ。だから耐えるという気持ちがないくらいけろりとして、変わらぬ生活を送っているわけだが……。
「あっつ!」
そこでこぼれ出た大声で、食堂中の視線がノイムに集中した。
モニカと決別してから一週間。
油断した。ぼうっと考えごとをしながら、匙にすくって冷ましていた夕食のスープが、ノイムの口に襲いかかってきたのである。ワンピースの胸元は濡れてしまったが、匙を取り落とさなかったのは幸いだった。
「大丈夫か、ノイム」
離れた席からアーサーが声をかけてくれる。ノイムは声には出さず、ただ頷いて応えた。アーサーの隣に座っているモニカは、やや不機嫌な顔をしつつも素知らぬふりである。ノイムになにかあるとアーサーが心配する。これはもう動かしようのない事実なので、優しいアーサーが人を気遣うのは当然のことだからと、モニカはここ何日か、自分に言い聞かせてどうにか納得しているようだった。
(とりあえず、もう、このままじゃ駄目だな……)
濡れた胸元を拭いながら、ノイムは眉をひそめる。
モニカになにをされようと気にならないし、周りからノイムがやらかしたかのように思われるのも構わない。
しかし、ノイムに注目した子供たちの顔がどこか白けている。皆からのこの「いい加減にしろよ」という目だけは、少々堪えた。
いまだに笑顔で心配してくれるのはアーサーだけだ。
職員には呆れられている。子供たちから疎まれ始めている。
よくない傾向だった。
ここで一度、トパ孤児院におけるノイムの目標に立ち返ってみよう。
問題を起こすことなく平穏に暮らし、ラヴィアスの報告を待つこと。
(まずい……)
一旦、子供たちから距離をとるしかない。
食事中はモニカとアーサーから離れるだけでなく、最も隅のテーブルの、さらに隅の席に座る。皆と外で遊ぶことも控える。会話は最低限に。トパ孤児院の子供社会から、ノイムの存在を極限まで薄める。
モニカの嫌がらせが落ち着くまではそうするのが最善手だ、今のところは。
自分から離れるぶん、子供たちのほうから仲間はずれにされるよりはマシだろう。本当の意味で異物として彼らから浮いてしまったら、それこそ終わりである。
ノイムのぼっち生活が始まった。




