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魔王に殺された代理勇者の。  作者: ねずみもち月
二章 代理勇者の交流
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34.お嬢、豹変する

 服がじっとりと重い。

 スカートの裾からは灰色の雫が滴っていた。足元に置かれたバケツでは淀んだ水が波を打って、なかには床を拭いたばかりの雑巾が沈んでいる。


 ノイムは呆然としたまま目を瞬いた。ややあって、頭から掃除用水をぶちまけられたらしい、と思いあたる。


「どう、これであなたはもっと可哀想になったわ。嬉しい?」


 つんと顎を上げたのはモニカだ。細められた目から敵意がひしひしと伝わってくる。

 彼女はノイムに手のひらを向けていた。


「なにか言ったらどうなの」


 口をひん曲げた彼女が、その手を振る。


 バケツの水が音を立てて盛り上がり、浮いた。灰色の水は、シャボン玉のようにかたちを変えながら宙を移動する。


 あ、と思ったときには遅い。

 ばっしゃんと盛大な飛沫を上げて、二度目の水攻めが行われた。


 頭から汚水を被ったノイムは反射的に目を瞑る。ざらりとしたものが口に入った。水に含まれていた埃だ。慌てて袖で顔を拭ったが、その袖もしとどに濡れていたので、ほとんど意味をなさなかった。

 顔に貼りついた髪をかき上げたところで、ようやく思考に焦点が結ばれた。


(……どうしてこうなった?)


 ノイムとモニカは部屋の掃除をしていたはずだ。


 自室は自分で掃除する、それがトパ孤児院での決まりである。

 ノイムとモニカは四人部屋をふたりで使っているから、ほかの部屋の子供たちよりもいっそう掃除に時間がかかる。午前中いっぱいかけてあちこちの埃を落として床を掃き、昼食を経て、最後の仕上げ――拭き掃除にかかった。そこまではいい。


 問題はそのあと、いや、そのときに交わされた会話である。


「黙って掃除するだけなんてつまらないわ。ノイム、なにか面白い話はないの」

「無茶言う……」

「だってつまらないんだもの! お義母さまにいじめられるのと、ここで使用人のように働くの、どちらがマシだろうかと思うくらい」


 ノイムが、んな大袈裟な、と口に出さなかったのは賢明な判断だっただろう。

 箒を手にしたモニカを眺め、ノイムは握ったハタキを軽く振った。布の端切れを細く裂いて束ねた、トパ孤児院の職員お手製のハタキである。


「でも、殺されそうになったんでしょ? 死んじゃったら元も子もないわけだし、こっちの暮らしのほうがマシだと思うけど……それに、ほら、家から出たおかげで、おとぎ話みたいなドラマチックなことがモニカの身に起こる可能性も出てきたわけでしょ」


 どうにか頭を捻ってモニカに寄り添った返答を心がけようとしたのだが、あまり上手くいかなかったらしい。モニカはいっそう顔をしかめただけだった。


「殺されそうになったなんて、そんな明日の天気でも話すような調子で言うのはよしてよ。この間から思ってたけど、あなた、わたしの話を聞いても全然驚かないじゃない」


 モニカはそこであっと声を上げた。なにかをひらめいたらしい彼女は、持っていた箒の柄でノイムを指す。


「ノイムも最近ここに来たばかりなのよね。それなら、あなたのことを聞かせなさい。どんなおうちで育ったの? どうして孤児院に入ることになったわけ?」

「……聞いてて楽しい話ではないと思うよ」

「いいわ、ノイムがどんなに平凡退屈な人生を送ってきて、それを聞かされるとしても、ただ黙っているよりはね」


 楽しい話ではないという言葉を、モニカはどうやら『山も谷もなくつまらない話』と捉えたらしい。急に貼りつけられたレッテルに、ノイムはぴくりと眉を動かした。


「平凡退屈……」


 自分が刺激的でドラマチックな人生を送ってきたとは思わない。


 貧困がすぐ隣にあり、人を脅かす獣の被害があちこちで散見され、魔族という明確な敵がいるこの世界では、人の命の価値は思いのほか軽い。だからノイムが捨て子でも、子供奴隷を売買する孤児院で育っても、それより悲惨で大変な生きかたをしてきた者はいくらでもいる。

 悲惨さでいえば攫われて行方知れずになったカデルのほうが上だ。彼と比べれば、安全な場所で呑気な生活を送っているノイムなんて順風満帆と言われても文句は言えない。


 でも、ノイムは二度死んでいる。


 一度目は最初の転生のとき。

 近道しようなどと横着して宵闇に沈んだ土手を行ったせいで、不審者に襲われて階段から転げ落ちた。


 二度目はこの世界で代理勇者として働いたとき。

 信頼していた仲間に、一片の慈悲もかけられることなく、あっさり命を刈り取られた。


 人の生きざまなど他者と比べようとすること自体が間違いだとは思うが、それでも比べるとして、ノイムはモニカなどよりもよっぽど辛酸を舐めてきている。ノイムが歩んできた道を平坦だとは思わないし、それを平凡退屈と言われる筋合いはない。


 なにも知らないくせに。


 口から出そうになった捨て台詞を呑みこんで、ノイムは乾いた唇を舐めた。


(面白がって聞かれるのもいやだしなぁ)


 胸の内にほのかに立ったさざ波を、どうにか落ち着ける。


「平凡で退屈かどうかは、まあ、聞いてから判断してよ。先にお昼ごはん行こう、そろそろ時間だし」


 ノイムは火の始刻(ひるのじゅうにじ)になろうとしている時刻晶を見上げた。

 ふたりは手早く床を掃いて掃除の前半を終わりとし、食堂に下りた。


 戻ってきたら拭き掃除だ。水汲み場からバケツいっぱいに満たした水を運び、雑巾を絞って床に這いつくばる。


 ノイムが話をしたのはその間だった。

 床を拭きながら長話とはなかなか体力を使う。ただ、ここでオブラートに包んで完結に語っては意味がない。前の孤児院んの院長とアリサの死については、ラヴィアスの身の安全のために濁しておくが、それ以外については、ノイムは余すところなくモニカに話して聞かせた。


 赤子のとき、孤児院に捨てられたこと。

 その孤児院が子供を奴隷として売り払っていたこと。

 餓死させられそうになったレオとタランを逃がしたこと。

 それがきっかけで心を分けた親友が攫われ、行方不明になったこと。

 ラヴィアスがノイムやほかの子供たちをその孤児院から助けてくれたこと。


「それで私は、トパ孤児院に預けられたってわけ。どう?」


 そうだ、モニカの態度が変わったのは、ここだった。


 ノイムの身の上話が終わるころには、部屋はぴかぴかになっていた。だから話し終えたノイムはそのまま立ち上がって、汚れた雑巾をバケツに突っ込んだのだが、そうしてじゃぶじゃぶ洗っている間も、モニカはなにも言わなかった。


(さすがにショックだったかな……)


 モニカを見習って、ちょっと言葉を飾ってしまったのがいけなかったかもしれない。いつもの調子で淡々と言葉を紡いでいれば――。


 そこで横合いから雑巾が飛んできて、水しぶきを上げてバケツのなかに着地した。

 跳ねた飛沫が顔に散り、ノイムは「のわっ」という妙な声とともに尻餅をつく。


「ちょっと、モニカ」


 袖で雫を拭いながら顔を持ち上げれば、俯いて肩をいからせたモニカがいる。


「……よそれ」

「なに?」


 そのときである。

 波打っていたバケツの水がうねった。大きく山を作った灰色の水が、膨らんだ餅のごとく上に伸びてちぎれる。ノイムがぽかんとして出来上がった水の球を見つめると、それは勢いよくノイムにぶつかって爆ぜた。


「なによそれ、わたしよりも……っ」


 モニカは首まで赤くなっていた。


「わたしよりもずっと可哀想じゃない! 許せない! わたしの話を聞きながら、ずっと心のなかで馬鹿にしてたんでしょ。その程度で悲劇的で可哀想な身の上だなんて笑わせるって、自分のほうがもっとひどい目にあってるのにって」


 ノイムは口をあんぐりと開けて答えに窮した。

 図星だったからではない。予想の斜めうしろから突き飛ばされた心地がして、思考が追いつかなかったからだ。


 そして状況は、冒頭に戻るのである。


「なにか言ったらどうなの」


 と言われて二度水を被ったところで、ノイムはやっと口を開いた。


「モニカって魔法、使えるんだね」


 いくらなんでも間抜けすぎるコメントだった。しまったと思ったときには、やっぱり遅い。

 三度目の水浴びである。


「なにか言えってそういうことじゃないのよっ」


 モニカの顔はもう茹でだこだった。彼女からしたら、煽られたようにしか思えなかっただろう。ただただ考えなしだっただけで、ノイムにそんなつもりはなかったのだが。


「みんなの同情を集めて注目されるのはわたしよ。おとぎ話のお姫さまみたいに、選ばれるのもわたし。あなたじゃないわ!」

「私はべつに、同情されようとか、選ばれたいとか、考えてないよ。モニカがやりたいこと、目指したいものを邪魔するつもりは」

「うるさいっ」


 ずかずかと歩いてきたモニカは、バケツのなかに残っていた雑巾を引っ掴んだ。

 濡れた雑巾がべちゃっとノイムの顔に叩きつけられる。


「部屋、片づけておきなさいよ。戻ってきたときまだびしょびしょだったら承知しないから!」


 居丈高に叫んだモニカは、肩をいからせたまま部屋を飛び出していった。


(……どうしてこうなった?)


 結局、最後までノイムは理解できなかった。


 とにかく、ノイムの平和な孤児院生活が終わってしまったことだけはたしかだ。すべては今この瞬間、天地をひっくり返したように一変してしまったのである。

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