31.祈り、暗澹たる
頭に冷水をぶちまけられた気分だった。
指先がゆっくりと温度を失っていく。子供たちのさざめき声も、道行く人の雑踏も、見事に耳から遠のいた。賑やかな街並みに浮かれていた心が吹き飛ぶ。
『勇者を見つけた者に褒賞を与える』
教会の立て看板には、でかでかと褒賞金の額が示されていた。金一封どころの話ではない。目玉が飛び出るかと思うような桁である。
看板の文言はまだ続く。
『なお、勇者が見出されているにも関わらず、その存在を隠匿した者は』
斬首の刑に処す。
ノイムの目に間違いがなければたしかにそう書いてあった。
「それじゃ、みんな、礼拝堂では静かにするんだよ」
高らかに響いた子供たちの返事で、ノイムは我に返った。
いつの間にか人数確認が終わっている。ぞろぞろと移動を始めたトパ孤児院の一行に押し出されるようにして教会へ向かった。近づくにつれ、立て看板に隆々と書かれたお触れがもっとはっきり見えるようになる。
間違いなく『勇者の存在を秘匿した者は斬首の刑に処す』とあった。
間近で三回読み返したが変わらない。ついでに末尾にサニア国王の名が記されていることまで読みとれてしまった。
(前世で出されてたお触れって、こんな野蛮だったっけ……?)
勇者を見つけた者には莫大な褒賞金を、勇者の発見に消極的な者には死を。
いくらなんでも極端すぎる。
ノイムは顔をしかめて記憶を遡った。勇者の捜索について言及しているお触れは、たしかに存在した。存在はしたが、その一言一句までは思いだせない。無理もないことだ。ノイムが次なる勇者として見出されてしまったのは、日本から転生して間もなくのこと――今世と合わせれば、ゆうに十年も前の出来事なのである。
(でも、こんな無茶苦茶な内容、読んだら普通は驚くよね)
お触れを目にして衝撃を受けた記憶がないということは、ノイムが前世で目にしたものには、斬首刑なんてことは書かれていなかったのだろうか。
(うーん……)
なんだか自分の記憶が信用できなくなってくる。
(やめよう、不毛だ)
ノイムは思考を放棄した。
斬首刑だろうがなんだろうが、ノイムが第三者に「自分には勇者の素質がある」と漏らさなければ問題ないのである。目の前に勇者の剣があるのなら話は別だが、ここはトパの街で、勇者の剣がある森ではない。周りに悟られる心配はないわけだから、深く思い悩まずともいい。
嫌なものを見てしまったとしかめ面をして通りすぎよう、そうしよう。
ノイムは立て看板の存在を放念して、重厚な扉をくぐり、教会に足を踏み入れた。
街の雑踏が途切れた。扉は開け放たれているはずなのに外の音はほとんど遮断されて、ただ、澄んだ祈りの声が礼拝堂のなかから漏れ聞こえてくるばかりである。
空まで突き抜けるように高い天井。掃き清められた床に、染みひとつない壁。
整然と並んだチャーチチェアの向こうには、女神像が五体満足でたたずんでいる。
豊穣の神、ハヴェルナである。
ノイムが以前いた孤児院にもハヴェルナの像があった。腕が折れ、顔にヒビが入っていたあの女神像だ。扱いからもわかるとおり、誰ひとりとして祈ってなどはいなかった。
こうして女神像の正しい姿を目にすると、途端にきまりが悪くなってくる。
(……放置してごめんなさい)
心のなかでそっと謝っておいた。言い訳はすまい。
真っ白な像の頭上では、朝日を取り込んだステンドグラスが輝いていた。降りそそぐ光の下、人々が祈りを捧げている。それぞれの祈りの声がさざ波のように打ち寄せては引き、礼拝堂に反響する。
なかでも耳に残る声があった。
男の声だ。発生源はすぐにわかった。チャーチチェアには座らずに、床に膝をついて熱心に女神像を拝んでいる人がいた。声が床に跳ね返っているから、気になる聞こえかたをしていたのだ。くたびれた服と、乱雑に整えられた毛量の多い緑髪。あまり裕福ではないのかもしれない。
だからほかよりもはるかに高い熱量でハヴェルナに祈りを捧げているのだろう。
豊穣とは穀物が豊かに実ることを指す言葉だが、それはすなわち、人々の生活が豊かになることにも結びつく。転じて人々の間では、ハヴェルナはほとんどすべての『豊かさ』を司る神として扱われている。
サニア国内でハヴェルナが広く信仰されているのも、そのためである。
魔大陸に最も近い大陸の最東端に位置し、魔王が統べるルアキュリアと国境を隣り合わせにしている。これだけでずいぶん国は荒んだものだが、今ではここに、勇者が失踪した地というおまけまでついてしまった。
国王がしゃんとしない限り、サニア国の状況は悪化する一方だろう。
(っていっても、あの王様はしゃんとなんかできないだろうなぁ)
前世で謁見したサニア国王の顔を思い浮かべながら、ノイムはうしろの一角に座ったトパ孤児院の一行を追いかけた。チャーチチェアの端にちょこんと座る。
皆がきちんと席に座ったのを見届けると、職員たちは一斉に手を組んだ。示し合わせたように揃った動きだった。彼らに倣って、子供たちも祈りの姿勢を取る。
ノイムもややぎこちない動作で皆に続いた。腰を据えて神に祈るなんて初めてのことだ。手を合わせるのか組むのかも迷ったくらいだった。ちらちらと隣を確認して、ノイムは指を組んだ。
「ハヴェルナよ、豊穣の神よ――」
院長の淀みない声が響きはじめ、慌てて目を閉じる。
実りを与えてくれたハヴェルナに感謝を伝え、これからも変わらぬ豊穣のために、正しい行いをし、いっそう努力することを誓う――院長が紡ぐ祈りは、そういう内容のものだった。何人かの特別に信心深い子供が、院長のあとを追って声を重ねている。
皆は今、なにを考えているのだろう。
ノイムの思考はすぐに逸れた。
先ほど思い浮かべたサニア国王の顔がふたたび去来する。
サニア国の国王は、とにかく臆病な人だった。
勇者が失踪したと聞くなり、彼は城に引きこもったという。
名のある騎士を各地から集めて近衛に所属させ、王都の城壁を増築させた。遷都までしようとしたという噂もあったらしいが、国王を揶揄する意味で流された話か、本当にやろうとしたが臣下に止められたか、そのあたりだろう。十年後も今も、王都の場所は変わっていない。
とにかく国王は、できうる限りの護りを固めた。
それでもまだ不安で、食事は喉を通らず、同じく満足に眠ることもできず、もとはふくよかな体型だったのがどんどんやせ細って、目の下にはクマをこしらえ、顔は青白く、常になにかに怯えるようにぎょろぎょろと目玉を動かすようになった。
ノイムが覚えているのは、そうして玉座の上で震えながら縮こまっている姿だ。
国王は新たな勇者として御前に跪いたノイムにも怯えた目を向けるばかりだった。「かような少女に魔王を斃すことができるのか」と疑念を持ち、それによって不安を増幅させたようで――。
(あ、いやなこと思いだした)
ノイムは勢いよく首を振った。
追い詰められた人間とはなにをしでかすかわからないものだ。前世でノイムは、それを痛感した。それくらい、サニア国王はやばい人だった。国が傾くのも当然である。
いつの間にか院長の声は止み、さざ波のようなささやき声が耳を打っていた。
まぶたを上げれば、職員に促された子供たちがちらほらと立ち上がりはじめている。祈りの時間はとっくに終わっていたらしい。ノイムもチャーチチェアから腰を上げる。
そこで、ふと頭上に影が差した。
「……む?」
ひょろりと背の高い男がノイムを見下ろしている。先ほど女神像の前で熱心に祈っていた緑髪の彼だ。前髪が顔の上半分を厚く覆っているせいで、表情はうかがい知れない。
それでも、目が合った気がした。
ノイムが見つめると、緑髪の男は興味を失ったように顔を逸らした。立ち止まっていたのはほんのわずかな間だ。踵を返した彼は、なにごともなかったかのようにゆったりと歩んで、礼拝堂から出ていった。
(なんだったんだ?)
ただの偶然かもしれない。ノイムが座っていたのは通路側だった。人が通りすがるのは当たり前だ。たとえば、緑髪の彼が通ったときにちょうどノイムが立ち上がったのだとしたら……気になってちょっと見てしまうのも、わかる気はするが。
(それにしては、うーん?)
明確に視線を感じたと思うのは、ノイムの考え過ぎだろうか。




