27.安否、確認する
前庭まで出てきたところで、ノイムはヘラのことを思いだした。彼女はたしか、出立するときは言ってくれとかなんとか、話していなかったか。
「ヘラに言わなくていいの」
「見送りされても困ります。慣れ合うつもりはありません」
「さっきはあんなに楽しそうに話してたのに?」
ラヴィアスがひょいと片眉を持ち上げる。笑いも怒りもしないのが一番怖い。
「冗談」とノイムは慌てて首を振った。
ため息をつかれた。大きな手のひらが、ノイムの髪をかき混ぜる。
「あまりトラブルに首を突っ込まないように。戻ってきたときに報告する相手がいないのは困りますからね」
「ここなら大丈夫だよ。カデルのこと、お願いします」
「ええ」とラヴィアスは頷いた。
そして、そのままあっさり背を向ける。
別れの言葉はなかった。
開放された門扉を抜けたラヴィアスの姿が、あっという間に人混みに溶ける。しかし見失うことはなかった。彼は背が高い上に、陽光の下でも月光の下でも輝く銀髪を持っているので、どれほど多くの人に紛れようともノイムの目はどこまでも彼を追っていく。
いくらノイムが見つめ続けたところで、ラヴィアスはちらとも振り返らない。手を振ることもしない。ただ、腰まである癖毛をひらひらと風に乗せながら、しっかりとした足取りで遠ざかっていくだけだ。
彼の背に「またね」と声をかけることは、終ぞ叶わなかった。
陽の光を受けてきらきらと星屑を散らすラヴィアスの頭が見えなくなっても、ノイムはしばらく門前に突っ立っていた。動けなかった。
まるで別れを惜しんでいるような有様である。
思えばラヴィアスは、ノイムが今世で初めて手にした頼れるおとなだ。惜しむのも当たり前だろう。そこに他意はない。
いや、あるかもしれない。
前世でともに旅をしたころの――仲睦まじかったころの面影を追っていた気持ちが、ないとは言い切れない。
そうだ、だから、ノイムは。
しばらくラヴィアスに会えないのが、寂しい。
素直にそう思った自分の心に、ノイムはひっそりと嘲笑を送った。自分を殺した男と離れて寂しがるなんて、字面で見るとかなり滑稽だ。普通は喜ぶところである。
前世のラヴィアスがこれを知ったら、ノイムのことを愚かだと笑うだろうか。あるいは、哀れなものを見る目をするか。
自覚はあった。途中で絶たれた絆に、そもそも初めから存在しなかった絆に縋っているなんて、愚かで哀れで滑稽だ。しかしその愚かな部分がノイムを救ったことも本当である。
ラヴィアスに助けを求めていなかったら、ノイムはここにいない。
孤児院の子供たちも、ノイムの手で助け出すころにはもっと数を減らしていただろう。院長やアリサはそれまで、のらりくらりと商売を続けたはずだ。
今のノイムが取れる手としては、最善だったといえる。
これでカデルを助けることができればもっと良いのだが、そちらはノイムではどうにもならない。できるのは、ただ待つことだけである。
ノイムはようやく、街から目を逸らした。雑踏から、ラヴィアスの気配はとっくに消えていた。
門の内側に目を向ける。
絶え間なく聞こえるのは子供たちの無邪気な笑い声。駆け回る足音。彼らがまとっているのは、ぼろ布を適当に縫い合わせた服ではない。きちんとあつらえられたものを着ている。ノイムとは大違いだった。
相変わらずぼろ布をまとったノイムは、縦横無尽に走る子供たちから好奇の視線を向けられている。まるで珍獣だ。
しかし、それで怯むノイムではない。堂々と庭を突っ切る。こんななりでは注目を集めるのは当然だ。あからさまな嘲笑を向けられないだけマシである。顔を突き合わせてひそひそやられるのは、気にならないといえば嘘になるが。
子供たちの顔を見ていたら、ノイムの手を散々に煩わせた悪ガキの笑みが脳裏に浮かんだ。
(……レオとタランは、きちんとたどり着けたんだろうか)
以前の町の孤児院から脱走し、院長に捕まって死にそうになっていたふたり。彼らを逃がすとき、ノイムはトパの孤児院を頼るように助言したが、先ほど、ヘラの口からその名前は出てこなかった。街にはたどり着いたが孤児院ではないところで保護されたか。あるいは、道中でなにか問題が――。
(ヘラに聞いてみようか……)
考えながら、孤児院の扉を押し開ける。
ろくに前を見ていなかったので、ぼすん、と柔らかいものに衝突した。
「あら、ノイムちゃん? ラヴィアスさんはどうしたのかしら」
ちょうど出てこようとしていたヘラだった。
「もう行っちゃった」
「まあ! お見送りの挨拶をさせていただこうと思っていたのに……」
「あの人、そういうの苦手だから」
「そうなの?」
頬に手を当てたヘラは、前庭の向こうへと目をやる。とっくに去ったラヴィアスが見えるわけもない。彼女は未練もあらわに、肩をすくめて諦めた。
「さ、ノイムちゃん。まずはお着替えしましょう。その服じゃああんまりだわ」
ノイムは自分のワンピースの裾をつまんで持ち上げた。
もとはなにか柄のある布だったようだが、すっかり擦り切れてただのうす茶色いぼろ布と化している。おまけに、一枚の大きな切れ端を縫い合わせただけの出来だ。
我ながら酷い服装だった。庭でまともな子供服を散々に見たあとだから、余計に醜く見える。
ノイムはふたたび、二階の子供部屋へと連れて行かれた。
ヘラはまっすぐに衣装棚を目指した。「これはちょっと大きいわ」「こっちは丈が足りないかしら」と服を漁りはじめる。
しばらく彼女の背中を眺めていたノイムは、意を決して声をかけた。
「ねえ、ヘラ」
「なあに?」
喉が変なふうに引き絞られて、声が上ずった。
どうにかきちんと話そうとして、腹に力を入れる。そうしたら今度はいやに跳ねた心臓の音がよく響いて、体がこわばってしまった。
「前に……」
この問いを口にするには、自分が思うよりもずっと、勇気が必要だったようである。
「何ヶ月か前に、わたしと同じくらいの年の男の子がふたり、ここに来なかった?」
ヘラが振り返る。
「レオとタランっていうんだけど」
ヘラの目は、その頬と同じくらいまん丸に見開かれていた。
「来た……来たわ。とっても痩せていて今にも倒れそうだったから、慌てて保護したの。覚えてる」
もしかして、と口元を押さえた彼女に、頷きを返す。
「わたしと同じ孤児院の子たちなの」
「まあ……」
ふっくらした顔に沈んだヘラの目が、これでもかというほど見開かれる。
それから彼女は、知っている限りのことを聞かせてくれた。
レオとタランがトパ孤児院の門を叩いた日。
その日は、新しく建てる孤児院の相談のため、領主夫妻が訪ねて来ていたのだという。ぼろぼろの男児ふたりの姿を見て、一番に心を痛めたのはその夫妻だった。
「領主様自ら、伝手を当たって里親を探すと言ってくださって」
レオとタランのふたりは里親が見つかるまで、領主の邸宅に預けられることになった。
レオもタランも見るからに栄養失調だった。とにかく健康な体に戻るのが先だと、そしてそれには自分たちの家が最適だと、領主夫妻は判断したらしい。
「それで、今は?」
気づけばノイムはヘラに詰め寄っていた。ヘラのふくよかな顔が目の前にある。丸っこい瞳に、ぎゅっと唇を引き結んだノイムの顔が映った。
ヘラの頬が緩んだ。
「ふたりとも、大切にしてくれるお父さんとお母さんが見つかったって、少し前に知らせが来たわ」
同時に、ノイムの体から力が抜けた。へなへなと部屋の床に尻をつけ、知らず知らずのうちに握っていた拳をほどく。
「よかった……」
レオとタランは、ちゃんと自分で助けを求め、救われることができたのだ。
今度こそ、あの忌まわしい孤児院から逃げ切ったのである。
やわらかい手が、ノイムの頭を撫でた。
「会いたい?」
「……会えるの?」
「院長先生から領主様にお話ししてもらえば、どこに住んでるか教えてもらえると思うわ」
ヘラはやわらかい笑みを浮かべていた。
しばしその笑顔を見つめ、ノイムは考える。
「ううん、いい。会わない」
「あら、いいの? 本当に?」
いい、ともう一度言い切った。
レオにとっても、タランにとっても、以前の孤児院で過ごした記憶は、辛くて苦しいものでしかない。ノイムが脱出を手伝った最後の一週間弱なんて、特に酷かった。ノイムの顔を見れば、もちろん再会できた喜びはあるだろうが、辛い思い出も一緒に呼び起こしてしまうだろう。
「だから、今は会わない」
レオもタランも、真っ当な両親と生活を手に入れた。それを知ることができただけて十分だ。
会いに行くのはもっとあと。お互いに「昔は大変だった」と笑い合える年になってからだ。それは今じゃない。十年後、二十年後。それくらい先の話である。
「そっか。わかったわ。ノイムちゃんがそう言うなら、無理にとは言わない」
「うん。教えてくれてありがとう、ヘラ」
「どういたしまして」
さて、とヘラは衣装棚を振り返った。
「ノイムちゃん、どれが着たい?」
ノイムの前に、何着かのワンピースが差し出された。どれもこれも、胸か腰のあたりで切り替えがあり、きちんと襟がつけられ、袖を絞られた、しっかりした作りのものだった。
赤子に転生して五年。ノイムは晴れて、ぼろ布服を卒業した。
レオとタランと同じように、新しい生活を手に入れた、その証拠である。
不思議と、喜びは湧いてこなかった。代わりに、むしろ丸裸にされたかのような心もとなさが、ノイムを満たしたのである。




