22.魔王、見捨てる
『あまり、期待をさせるからですよ』
記憶の中の声がこだました。呼吸が浅くなる。ノイムの心に渦巻いている感情は何だろう。自分でもわからなかった。
バケツいっぱいの恐怖はあった。
あのとき向けられた殺意と、容赦なく命を刈り取った大剣の感触がよみがえる。
カップ一杯の後悔もあった。
魔王城で対峙するまでにできることがあったのではないかという思いは、たしかに存在した。
ひと匙の喜びがあった。
ともにした旅路のなかで何度も助けられた経験が、刷りこみされた雛鳥のように、理由のない安心感を生み出していた。
真綿のような柔らかい光がノイムの体を覆う。
前世で何度も経験した回復魔法だ。悔しいことに、ラヴィアスの魔法が一番心地いい。
「……ありがとう」
顔じゅうを汚した血を拭われながら、ノイムはもぞもぞとお礼を言った。
ラヴィアスが口の端だけで微笑む。あまり優しげとはいえない笑みだった。ノイムを濡らした血をすっかり拭き終えたハンカチを懐に仕舞って、彼は神官の女を見据える。
「なんの咎もない幼子まで巻きこんで、そうまでして私から逃げたいのですか」
「当たり前だわ。あなたの手にかかったらひとたまりもないもの」
危うくノイムを三度目の死に追いやるところだった神官の女は、あっけからんと言い放った。悪びれる様子はない。ところが忌々しいことに、彼女のこの台詞にだけは、ノイムも共感できてしまった。
(ラヴィーさん、私を助けてくれたけど……)
正直、その腕のなかにいることが怖くてしかたがない。神官の女に向けて放たれている殺気が、次の瞬間にはノイムに向くのではないかと気が気ではなかった。
「あなたはその子を送り届けてちょうだいな、ラヴィアスさま。その間にわたくしはまた、ちょこっと細工をさせていただくわ」
しなをつくったなんとも嫌な動作で、神官の女はラヴィアスの肩を撫でる。そして堂々と彼の脇を通り抜け、町のなかへと消えていった。
どうやらノイムは、ラヴィアスの足止めのダシに使われたようである。
「……困りましたね」
あとに残されたのは、年齢不詳の男と幼女。言い換えれば魔王と元代理勇者である。
「あの……えっと、助けてくれてありがとう……」
「いいえ」
「その、わたし、行かなきゃいけないから」
下ろして、と身をよじったが、ラヴィアスは解放してくれなかった。
「行くとは、どちらへ?」
「あっち。友達が攫われちゃったの」
町の外を指し示せば、ラヴィアスの視線がついと移動した。目をすがめて、はるか遠方へと消えゆく砂煙を見極める。彼の瞳には、それが何であるかを認識できるだけの視力が備わっているようだった。
「……なるほど、しかし」
ラヴィアスはノイムを下ろした。下ろして、その薄い両肩をしっかり掴んだ。
「いけません。あなたひとりではどうにもなりませんよ」
「そんな!」
「わざわざ助けたのに、死ぬとわかって送り出すことなどできない」
「じゃあ……じゃあ、お願い! お願いします、カデルを助けてくださいっ」
殴りかかるのではという勢いで、ノイムはラヴィアスの胸元を握った。
彼の手が、そっとノイムの拳を包む。
包んで、解いた。
「私にはやらねばならぬことがあります。あなたのお願いを聞いている余裕はありません」
ノイムの喉が、ひゅっと鳴った。咄嗟に返す言葉が思いつかなかった。それくらい、激しくショックを受けた。
ラヴィアスの整った顔に浮かぶ憐憫は本物だ。攫われたカデルたちを視認し、気の毒だと思う心は持っている。その上でこの男は、きっぱり見捨てると言い切った。
別人のようだった。
ノイムが知っているラヴィアスは、こういうときには真っ先に動く人だったのに。
(……いや、違う)
本当に積極的に人助けに走るような人物だったら、ノイムは今ここにいない。
彼は一国を滅ぼして自分のものにした。魔王として魔族の頂点に立ち、真っ向から人間に喧嘩を売って、対立している。仲間と偽って旅路に加わり、最後に裏切ってノイムを殺した。
だからきっと、前世が特殊だったのだ。彼は代理勇者であるノイムの懐に入るために必要以上の親切を演じていた。そういうことなのだろう。
ぽたり、とノイムの頬に雫が落ちた。雨だ。見上げれば、晴天はすっかり隠れて、厚い灰色の雲が頭上を占拠していた。
黙りこんだノイムの代わりに、ラヴィアスが口を開いた。
おうちまでは送って差し上げます、と。
「その服……孤児院の子ですか?」
「そうだけど、わたし」
「帰りましょう。天気も傾いてきている。孤児院の方もあなたのことを心配しているでしょう? お友達が攫われてしまったのならなおさら、あなたも同じ目に遭ったのではないかと気を揉んでいるかもしれない」
すっかり打ちのめされていたノイムは、この言葉で復活した。かっと頭に血がのぼるのもそのままに、憤りの声を上げる。
「そんなわけない!」
神官の女に痛めつけられたあとだからか、大した声量は出なかった。体に力も入らない。なす術なくふたたび抱き上げられ、カデルが連れて行かれた方角を見つめながら、来た道を戻る羽目になった。
「お、お願い、下ろして! 行かなきゃ駄目なの、今じゃないとっ」
ノイムの存在は、カデルの未来を大きく歪めている。今回の誘拐劇だって、前世でカデルが歩んだ人生にはなかった出来事のはずだった。
成長の過程でノイムがちょっかいを出していなかった前世では、彼は五体満足で成長している。ノイムが手を出さなくたって、彼がきちんとおとなになることは証明されていた。
今、カデルの身になにかあったら。
カデルが死んでしまったら、彼の未来が断たれてしまったら。
それはノイムのせいにほかならない。
ノイムは、助かるはずだった命を。
大事な仲間の命を、ひとつ潰すことになる。
視界が滲んで、ぐんにゃりと歪んだ。
「う……」
ノイムを抱いたラヴィアスの腕に、透明な雫がいくつも滴り落ちる。
「放して! 下ろしてよぉ!」
全力で手を突っ張っても、足をばたつかせても、ラヴィアスはびくともしない。ただノイムの靴が片方脱げて転がっていっただけだった。癇癪を起こした子供のように――いや、正しく癇癪を起こした子供として、ノイムは力の限り泣いて暴れた。
「うえぇええん!」
それでも、ラヴィアスはノイムの泣き声を平然と聞き流した。ややうんざりとした表情すら浮かべて、ただ淡々と歩を進め、目抜き通りを戻っていく。壊れた噴水の広場に出た。例の老婆はもういなかった。
広場には誰もいない。泣き叫ぶ子供を無理矢理連れていく男を引き留める、正義感に溢れた者はこの町には存在しない。
それだけじゃない。
ノイムの味方は、五年を過ごしたこの世界に、ただひとりとしていなくなってしまった。
頬を叩く雨粒が強くなった。ノイムの目元をぐしゃぐしゃに濡らした涙と混ざって、滝のように流れていく。
ラヴィアスの髪もあっという間に水を含んで、彼の頬に重く貼りついた。好き勝手に跳ねた癖毛が平らにならされて、広い背中をまっすぐに落ちる。
孤児院の前に着いたときには、ノイムもラヴィアスもしとどに濡れていた。
「戻って来たわ!」
雨に濡れるのも構わずに孤児院から飛びだしてきたのは、アリサである。彼女は迷わずラヴィアスに駆け寄って、ノイムへと手を伸ばした。微笑みをたたえた口が、白々しく喜びをこぼした。
「よかった、無事だったのね。親切な方、この子を見つけていただいてありがとうございます」
「いえ、町中でさまよっていたものですから」
当然、ラヴィアスはノイムを引き渡そうとした。
しかし、先ほどと違って、今度はノイムが離れない。
ラヴィアスは戸惑ったように、ノイムの背を撫でた。
「ほら、着きましたよ。そのままでは風邪をひいてしまいます。はやくお帰りなさいな」
ノイムはますます、ラヴィアスの肩口に顔を押しつけた。
目は開いたままだった。ぴたりとラヴィアスにくっついた視界は真っ暗闇だ。頭のなかでは、思考が目まぐるしく回転していた。
今、戻ってしまったら。ノイムは孤児院を抜けだすために、否応なしに全神経を注ぐことになる。そうなれば、もうカデルの行方は探しようがない。
「あまり迷惑をかけてはいけませんよ。さ、入って湯浴みをしましょう」
ノイムの体に回されたアリサの腕に、苛立ちがこめられた。
とうとうラヴィアスから引き剝がされ、ノイムはずるりと門の内側に引きずりこまれる。
「下ろして、アリサ!」
自らを抱える腕に爪を立てながら、門前に立つ男を見やる。暗い光を帯びたガーネットと、ぴたりと視線が交差した。
重たそうな睫毛の奥に押しこめられた瞳が、ゆっくりと見開かれる。
ラヴィアスの目に映ったノイムは、いったいどんな顔をしていたのだろう。
答えは得られぬまま、ノイムの目の前で、孤児院の扉は閉じられた。
ヒーローは遅れてやってくるとは言いましたが、彼には手遅れだし助ける気もありませんでした。ヒーローとは。




