123.死に損ない、ふたり
舌に貼りついた土を吐き出す力もなかった。
目を開けているのがやっとである。それも片方潰れている。頭から流れる血のせいだった。おまけに残ったもう片方の視界すら不明瞭だ。ぼけて歪んで揺れていた。よく見ようと力を込めたら、今度は吐き気がこみ上げてくる始末である。
四肢のひとつやふたつもがれていても不思議はない、まるでぼろ雑巾の有り様だった。しかし幸いなことに、腕の二本、脚の二本ともきちんと胴体にくっついている。
見事にへし折られて身動きが取れない状態を幸いと呼べればの話だが。
徹底的にやられすぎていて、もはや痛みも感じない。こうなるとかえって楽である。なにしろ――。
(あのときよりマシ……だと、思っちゃうのが、なあ)
ラヴィアスの大剣に貫かれたときのほうがよっぽど酷かった。だってノイムはあれで死んだ。比べれば、手足の骨折など可愛いものだと思う。
乾いた笑いがこぼれそうになった。ノイムは笑ったつもりだったのだが、実際はそんな余力もなかった。せいぜい唇の端が痙攣したくらいだろう。
「あーあ、顔に傷がついちゃった。首を取ってからじゃあ治せないからね」
トワンの声が降ってくる。とはいえこれは、ノイムに向けられたものではなかった。声が落ちる位置が、少し横にずれている。
ノイムの隣に倒れている、シャティアに話しかけているのだった。
シャティアに意識があるのかないのか、ノイムからはわからない。
ただ、トワンがシャティアの傍に屈んでその頬を撫でている。彼の好きにさせるなんて、シャティアからすればあり得ないことだ。意識の有無はさておき、彼女が動けない状態であることはたしかだった。
(私も詰めが甘い……)
一本残らず折れた矢の代わりを探しているうちに、シャティアはもう満身創痍で倒れかかっていた。そこにノイムが加勢したところで状況が変わるわけもない。ふたり一緒に戦ってトワンの足元に及ぶところなのに、これではひとりずつ順番に挑むのと変わらないからだ。
結果がこの有様である。
(……諦めて勇者の剣を持ってきていれば)
ここまで一方的に叩きのめされることもなく、もう少しは粘れただろうか。
勇者の剣は端からあてにしていなかった。
魔族相手に最も有効な手だとはわかっていた。しかしノイムがあの剣を自身の手で抜くことはもうない。そう誓ったからだ。だから遠回りをしてまで弓を手に入れる手間をかけた。どんなに勝ち目が薄くても、たとえ丸腰でトワンと対峙することになろうとも、勇者の剣を取りに行こうなどとは考えなかっただろう。
そうなったらむしろ、いっそう意固地になったかもしれない。
(一度使ったら二度も同じだろうに)
追い詰められた今だから思える。意地を張ったせいで間に合わなかったとは笑えない。
ノイムが勇者としての自分を毛嫌いする理由の根源はただひとつ。
ラヴィアスに殺されたから、それだけである。
彼に殺されて死ぬのが嫌だから勇者にはならない。しかし勇者になるのを避けたら、まったく別のところで死んでしまった。これでは本末転倒である。
(ラヴィーさん、なにしてるかな)
シャティアがうめいた気がした。「うんうん、綺麗になったね」とトワンが喜んでいるのも聞こえたが、声が酷くこもっていて遠い。
ノイムの耳はもう、音も正常に拾えなくなっている。まぶたはとっくに落ちていて、シャティアが今どうなっているのか、トワンが彼女になにをしているのか、それを見ることもできなかった。
ただ真っ暗になった視界に、月光を宿した髪を幻視した。
見る者を惹きつけてやまないガーネットの瞳のきらめきが、暗闇のなかにちらついた。
一方的に希望を押しつけた魔王の姿が、まぶたの裏に浮かび上がる。
(依頼は受けてくれたかな)
それはノイムが弄した小細工だった。
冒険者ギルドに魔族征伐の依頼を出してもらった。
依頼主はシャティアで、書類も彼女が書いた。シャティアはまさか、本当にそんな依頼を受けてくれる冒険者がいるとは思っていなかっただろう。魔族を倒すとなれば、依頼のランクは貴人級以上。高ランクである。
それを受けられる冒険者も、必然的に貴人級から上に絞られてくるのだが、サルシャのような場末の町に、そんなエリートは存在しない。
だからノイムは書き足した。
シャティアが書き終えた依頼の紙に、勝手に一文を追加したのである。
『以上の旨を神級冒険者ラヴィアス・レタールに依頼する』と。
依頼の申請にあたって、特定の冒険者が指名されることはさほど珍しくない。特に依頼のランクが高ければ高いほど、より強い冒険者、より有名な冒険者……確実に仕事を達成してくれるたしかな実力と信用のある相手を希望する依頼主は多い。
ノイムもその例に漏れず、現在確実に手が空いていて、信頼のできる、貴人級の依頼でも問題なくこなせる、ランクの高い冒険者を名指しした。
それもただの高ランクではない。最高ランクの冒険者である。
指名依頼の場合、指名された冒険者はよほどの理由がない限り、これを断ることができない。よほどの理由とは、駆け出しのひよっこなのにドラゴン退治を依頼されたとか、国で重宝されるほどのエリートなのに迷い猫捜しを頼まれたとか、そういうものだ。
ノイムの依頼はこれに該当しない。
貴人級の依頼は神級冒険者であるラヴィアスにとって格下だが、それは「この人なら楽勝で片づけてくれるだろう」という安心感をもたらすランク差だ。役不足にはならない。断ることはできない。断れば冒険者ギルドからラヴィアスに対してペナルティが課されることになる。
これだと思った。
ラヴィアスを動かすには、これしかないと思ったのだ。
(さすがに嫌われたよなあ)
サフィート騎士団詰所の執務室でギルド職員から依頼を見せられ、舌打ちをするラヴィアスの姿が目に浮かぶようだ。というか実際に浮かんだ。
ラヴィアスなら、これがノイムの仕業だとすぐに見抜く。
そうなればノイムの信用は地に落ちる。見放される。
彼の良心や責任感に訴える手段を、ノイムは、そうとわかっていて選んでいるのである。ノイム自身も汚いやり口だと思っているのだから、やられた当人からしたらたまったものではない。嫌われて当然だった。
それでもラヴィアスでなければいけなかった。
彼でないと、ノイムとシャティアが置かれたこの状況を打破することはできない。
だからノイムは、ラヴィアスが助けにくるまでの繋ぎとして、自分たちがトワンにぼこぼこにされるのを大前提にした上で、時間を稼ぐためだけに体を張ったのである。
(いざ助けにきて、私もシャティアも死んでたら、ラヴィーさん、どう思うかな)
人に依頼しておいてなんてざまだと笑うだろうか。それとも哀れむか。面倒ごとから解放されたと喜ぶか。
――ちょっとは悲しんでくれたり。
しないかな、と思ったところで、いやにはっきりと響き渡る声がした。
「死に損ないがここにもふたり」
それはトワンではなかった。
この場にふさわしい声でもなかった。苛立ちと呆れを混ぜて二で割ったようだ。
「まったく、あなたたちときたら、揃いも揃って……」
そんな恨み言でさえも、低くなめらかで聞き取りやすくて、耳に心地いいのだから不思議である。
今この瞬間は、特に。
「人に依頼しておいてなんてざまです。せめてもう少し粘りなさい。危うく無駄足を踏むところでは――」
「ラヴィー……さん……」
ノイムがかすれた声で名前を呼ぶと、ラヴィアスはぴたりと黙った。
「………………ルス・テネレ・フュジーク・エウィ――」
そして黙って詠唱を始めた。治癒魔法だった。
(ラヴィーさんがちゃんと詠唱するとこ、初めて見たかも……)
効果は絶大だった。
ノイムの手足がたちまち力を取り戻す。あれほど重たかったまぶたが簡単に持ち上がり、視界は明瞭、吐き気もない。さっそく舌にくっついていた土をぺっぺっと吐いた。あとでうがいをしたいところである。
両手をついて体を持ち上げた。
酷くだるいが、怪我は残らず治っている。手も足も指先まできちんと動かせた。さすがというべきか、このわずかな間によくもここまで回復させたものだ。
隣に倒れていたシャティアも無事だった。
意識こそないようだが、まぶたを閉じた顔は安らかで、呼吸も落ち着いている。血にまみれてはいるが、手酷く負った傷は綺麗に治癒されているようだ。
ほっと安堵の息をついて、ノイムは視線を巡らせた。
踵の高い編み上げブーツが立っている。
辿ってはるか高く見上げれば、癖のある銀髪を風になびかせたラヴィアスの顔に行きついた。
恐ろしく不機嫌な顔だった。
今すぐ逃げ出したくなるくらいには怖かった。
「手足は動きますか? 痛みは?」
「ない、です。大丈夫」
「それはよかった」
よかったなどとはこれっぽちも思っていなさそうな声音である。
「ええっと……」
ノイムの目が泳いだ。無理矢理巻きこんでごめんなさいと謝るべきか、助けにきてくれてありがとうと言うべきか、迷ったのである。
「……助けにきてくれて、ありがとう」
「あなたが来させたんでしょうが」
怒られた。




