118.空気、冷ややかに
「騎士団を動かせなくなった」
「なんだって!!」
火に油を注ぐとはこのことである。シャティアはエクシアに飛びかかった。
ソファから突き落とされでもしたら、エクシアにはひとたまりもなかっただろう。間違いなくぼこぼこにされていたが、そうはならなかった。
ラヴィアスがいたからである。
彼はシャティアの腕を掴むと、がっちり動きを封じてしまった。文字どおり身じろぎも許さない力強さだった。
「落ち着きなさい。なにか理由があるのでしょうから、怒るのは話を聞いたあとでも遅くはありませんよ」
「そうだ、わたしはなにも、意地悪で言っているわけじゃない」
シャティアの剣幕に及び腰になっていたエクシアが、そっと姿勢を正した。
「東南に広がる森から向こうは、もう、わたしの――サフィート家の領地じゃないんだ」
サフィート男爵家は、サルシャの町を中心にささやかな領地を治める下級貴族である。
サフィート騎士団については名前のままなので言うまでもない。これまた言うまでもないが、サフィート男爵領のサルシャの町を拠点にしている時点で、この騎士団はサフィート家のものだ。
サフィート騎士団は、サフィート家の領地内でしか動かすことができない。
「他領にわたしの騎士団を派遣したら、立派な領地侵犯になる。魔族の征伐どころの話では済まなくなってしまう。だから、サフィート騎士団を出動させることは、できない」
エクシアが言葉を結ぶときには、シャティアはすっかりおとなしくなっていた。
鬼の形相だった彼女の顔は、驚愕に包まれている。怒りでも焦燥でもない。たしかに驚きが一面に広がっていた。
未だシャティアを拘束していたラヴィアスは、これ幸いと言わんばかりに、彼女をもともと座っていた位置に突き飛ばした。シャティアの体が抵抗もなく、やわらかいソファに沈む。
茫然自失といった体だった。
「……森の向こうはサフィート家の領地じゃないって?」
「森の向こうだけじゃない。森も、だよ」
「ちょっと待って、それじゃ、村から出した嘆願書は!?」
騎士団の助けを得られない事実に打ちのめされたのかと思いきや、シャティアが口にしたのは、まったく違うことだった。エクシアはもちろん、ラヴィアスとシンシアにもなんのことかさっぱりだったようだが、ノイムにはわかった。
わかりすぎるくらいにわかってしまった。
「森には魔物が出る。村の近くには、山賊が住みつくような廃墟がある。村はずっと危険にさらされてて、だから、領主にお願いしてなにか対策を講じてもらおうって、シャティアは手紙を出してたんだよ。何回もね。返事がきたことはないけど」
シャティアに代わって、ノイムが簡単に説明した。
「それは申し訳ないことをしたな。領地の運営については、相変わらず父が王都で指揮を執っているから……その手紙もきっと、直接、父のもとへ届けられたんだ。わたしを通してもらえればなにか協力できたかもしれないんだが」
シャティアの反応からすると、彼女は村がサフィート家の領地だと思っていて、サフィート家に向けて嘆願書を出していたのだろう。おそらく、ほかの村人も同様だ。
「でも、自分の住んでるところが誰の領地かわからないって、そんなこと……ある……んだよなあ」
否定しかけた言葉を、ノイムは自分で取り消した。
あの村は見捨てられている。
シャティアが言っていたことだ。村はずっと、税を納める相手を持たなかった。となると、自分たちが誰の領地に住んでいるのか、わからなくても仕方がないのかもしれない。
(しっかし、嘆願書を出す相手を間違えてたんだとしたら……)
受領してもらえないのも当然である。かつての村や、シャティアの努力はすべて無駄だったわけだ。
シャティアがショックを受けるのも頷ける。
とはいえ、彼女が間抜け面を晒していたのはそう長い間ではなかった。ややあって息を吹き返したシャティアは、いくらか勢いを減じた様子でエクシアに尋ねたのである。
「あんたんとこの領地じゃないってんなら、いったい誰の?」
「王家の直轄領」
復活したばかりのシャティアは、絶句して固まった。
「たしか、そうだったと思う。妙な境界線が引かれていたから印象に残っているんだ」
「妙な境界線、ですか」
これを聞いたのはラヴィアスだった。
「ああ。サルシャの町の東南の森と、シャティアさんが暮らしている村、川を挟んで、大きな街の跡地……そのあたりだけ、くり抜かれたように王家直轄領になっている」
シャティアの村のあたりは、サフィート家の領地と、隣のレーブン家の領地のちょうど真ん中に位置している。
それならばどちらかの家の領地に含まれるべきはずなのに、問題の一帯だけは、それもノイムのような小さな子供が一日のうちに簡単に行ったり来たりできるほど小さな一帯だけが、ぽっかり穴を空けたように王家の管轄になっているのである。
「変なの」
部屋の天井を見上げながら、頭のなかで周辺の地図を描いてみたらしいシンシアが、素直な感想をこぼした。「そうなんだ、変だろう」と神妙に頷いたのはエクシアのみである。シャティアは読み込み中のパソコンの画面のように硬直したままだったし、ノイムとラヴィアスは黙って難しい顔をしていた。
どうして街の廃墟と、シャティアの村だけが王家直轄領なのか。
その原因を、ノイムは知っている。いや、勝手に予想を立てて知った気になっている。
むっつりと押し黙ったラヴィアスの様子を窺う。
次に口を開いたのは彼だった。
「シャティア、ひとつお聞きしても?」
「……なに」
「あなたの村に、ルーダという少年がいませんか。村長の息子の」
シャティアはふたたび息を吹き返した。まさかルーダの名前がラヴィアスの口から出てくるとは思わなかったのだろう。
ノイムも思わなかったが、まったく予想だにしないことではなかった。
おかげでほとんど息が止まる思いだ。背中にいやな汗すらにじむ気がした。
「少年って年でもないけど、いるよ。知り合いなの?」
「いいえ、私が一方的に見知っているだけです。その村に住んでいる人は、私の家族を殺した者たちの子孫ですからね」
可哀想に、シャティアはまた殴られたような顔をして静止してしまった。
とはいえ、今度ばかりは、衝撃を受けたのは彼女だけではない。部屋にいたラヴィアス以外の全員が、揃って凍りついた。
部屋の気温が十度も下がった心地である。
ノイムは半分泣きそうになっていた。
村の近くの廃墟で見つけたぼろぼろの屋敷。部屋の一角に大切そうに立てかけられた四人家族の肖像画、眼前に供えられた枯れた花束。頭のなかに残る光景が、つい昨日見たばかりのもののように、鮮やかに浮かび上がっている。
ラヴィアスが口に出したということは、この話で彼の正体が露見する心配はないのだろう。無論、廃墟で彼の生家を見つけたノイムが、ラヴィアスに排除される恐れもなくなったわけだが、それとこれとは別である。
なにもかも、ノイムの予想どおりだったのだ。
それが恐ろしかった。
許されるのであればこの場から逃げだしたいくらいである。
ラヴィアスはなに食わぬ顔でティーカップを傾けて、冷めた紅茶を喉に流している。それ以上の事情を自分から語るつもりはないらしい。
はた迷惑な話だが、そうなると、この場の空気を解凍させる力を持っているのはノイムだけだ。
ちょっとお手洗いになどと逃げだすどころではない。最悪だった。




