116.詰所、質素とは遠く
観客席に戻ってきたラヴィアスは苦い顔をしていた。
己の失態に自分で怒りを覚えているようにも見える。たしかに、うっかり敵を吹っ飛ばす方向を間違えて逃げる隙を与えてしまうとは、普段のラヴィアスではあり得ない。
(まあ、そりゃあ焦るか……)
彼からすれば、トワンに一言でも余計なことを言われたら終わりなのである。早く始末しなければと気が急いて手元が狂っても不思議はない。
まさかシャティアやエクシアも、敵の魔族の言葉を鵜呑みにしたりはしないだろうが、ラヴィアスからすれば、疑惑の種をばら撒かれるのと同義だ。本当に怪しまれて「ちょっと背中を見せてくれないか」と頼まれでもしたら、破滅は逃れられない。
長耳と黒翼が揃うと魔族であると断言できるほかに、翼を出していない状態でも、魔族かほかの長命種かを見分ける手段がある。
それが背中の翼の跡だった。
黒翼を仕舞う肩甲骨の下あたりに八の字の傷跡のような印があれば、まず間違いなく魔族だ。それは有翼の種族のなかでも、魔族にしかない特徴だからである。
魔族の頂点に立つラヴィアスも例外ではなく、他人の前で裸に剥かれた時点で一巻の終わりというわけだった。
とにかく、トワンという爆弾を取り逃がしてしまったことは事実である。
「ぬかりました。壁に叩きつけるつもりだったんですが……面目ない」
今世では初めて見る、ラヴィアスの心から申し訳なさそうな顔だった。
これに微笑で答えたのはエクシアだ。ゆっくりとかぶりを振って、ラヴィアスの謝罪をはねつける。
「とんでもない。あなたのおかげで観客を避難させる余裕ができたんだ。ラヴィアスどのがいなければ、観客席は今ごろ血の海だった。感謝こそすれ、責めるいわれはない」
彼は部下にひととおり指示を出し終えてから、ノイムたちのもとまで来ていた。
問題の魔族が闘技場からいなくなったおかげでと言っていいものか、恐怖に凍りついて突っ立っていた騎士たちや自警団の連中は、息を吹き返したらしい。エクシアに命令されると、のろのろとではあるが、状況確認やトワンの追跡に動き始めている。舞台の上には、裏方と舞台とを行ったり来たりする騎士の姿が見られた。
「団長サンの言うとおりだよ」
エクシアの横で腕を組んで唸ったのはシャティアである。
「あれはあたしを狙ってきたんだから、本当ならあたしがひとりで片づけるべきなんだけど……あたしにはまだ、そんな力はない。あたしの巻き添えで危うく百人単位の人間を殺すところだった」
そう言って腕を解くと、彼女はラヴィアスに向かって深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
「やめてください。まだ終わったわけじゃないんです。それに、観客はともかく……裏方の人間は、ほとんど皆殺しにされているはずですからね」
ラヴィアスはシャティアの肩を掴んで、無理矢理に顔を上げさせた。
「それから、ノイム。ここは遮るものがなにもない広い空間です。どれほど離れて小声で話そうと、魔族の耳には、誰かが傍で普通に会話しているように明瞭に聞こえます。目をつけられて当然です。覚えておきなさい」
「……はい、ごめんなさい」
ラヴィアスに指摘されたノイムは、内心で「そりゃそうだ」と思った。
魔族が人間よりはるかに優れた五感を持つ種族だということは、もちろん知っている。前世では魔族を相手に散々戦ってきたノイムだ。
しかし先ほどは、そんなことはひと欠片も考えなかった。頭から綺麗さっぱり吹っ飛んで、まったく思いださなかった。揚げ句のあの醜態だ。
大失敗の羞恥がぶり返して、ノイムの頬に熱が上った。
「とはいえ、悪いことばかりでもありませんでした。あれの意識があなたに向いたおかげで、抵抗されずに魔法をぶつけるだけの隙ができましたから。落ちこみすぎる必要もないですよ」
「え?」
反省に反省を重ねて殊勝な心持ちで説教されていたのだが、ラヴィアスの最後の一言に、思わず間抜けな返事をした。勝手なことをするなと怒られるとばかり思っていたので、耳を疑ったのである。
聞き直そうとしたのだが、それはできなかった。
ひとりの騎士団員がエントランスから階段を駆け上がってきた。
彼はエクシアの傍まで来ると、静かに首を振ってみせた。その頬からは血の気が失せている。
「おぞましい光景です。運営に関わる者はもちろん、奴隷のひとりに至るまで残らず殺されていました。大会の決勝に出るはずだった戦士もです。闘獣だけが檻のなかでぴんぴんしています」
「やはり、か。逃げた魔族は?」
「すでに追わせていますが、今のところ報告は上がっていません」
「ご苦労。君も魔族の捜索に当たってくれ」
「しかし、それでは団員のほとんどが外に出ることになってしまいます」
「構わないよ。町にはわたしと彼らが残る。君だって、ここでの戦闘は見ていただろう? 万が一、あの魔族が戻ってきたとしても、我々で十分に対処できるさ」
報告に来た騎士はそれでも躊躇っていた。ラヴィアスを見る目には明らかな不信の念が浮いている。
エクシアに視線を戻した騎士の顔には、呆れた表情があった。
「どこの馬の骨とも知らない部外者に、そうも全面的に寄りかかるのはどうかと思いますよ、団長代理。職務怠慢です」
「君が彼のように、たったひとりで魔族を圧倒できる実力を持つというのなら、喜んでこの場に残ってもらおう。残念だが、私は君がそれほどの剣の使い手とは思えないし、聞いた覚えもない」
これは団長命令だよとにっこり笑顔で気圧されて、食い下がっていた騎士は深いため息をついた。乱暴に一礼すると、挨拶もなしに戻っていく。
ノイムはびっくりした。隣でシンシアも絶句している。
「あれは、騎士団長より偉い騎士団の人?」
「そんなのいないと思うけど……」
しかし、去っていく騎士の背中に注目しているのは姉妹だけだった。おとなたちはそんなものに気を割く暇を許さなかった。有無を言わせず命令したエクシアは、とっくにラヴィアスに向き直っている。
「勝手にあてにしてしまったが、よかったかな」
「構いません。襲われれば抵抗しないわけにもいきませんから、そうなれば結局、あなたの手助けをするのと同じことです。ここまで来てそ知らぬふりをするのも落ち着きませんし、微力ながら手伝わせていただきたいと思いますよ」
「ありがたい。ついでに、少しわたしに付き合ってくれると助かるんだが」
「もちろん。移動しますか」
「ああ。この場は自警団に任せて、我々は詰所に向かう。シャティアさん、あなたにも来てもらうよ。先ほどの魔族は、あなたが目的でこの場に現れたんだろう?」
シャティアは固い顔で頷いた。
ラヴィアスとシャティアが動くなら、そのおまけであるノイムとシンシアもくっついていくのは当たり前のことだ。すっかり除け者にされているが、子供が口を挟むような事態ではないのは百も承知だった。
(ラヴィーさんがいるならなおさら、私の出番はなさそうだな……)
トワンを捜しだして殺すのは、もうほとんど決定事項だった。シャティアはもちろん、ラヴィアスと、サフィート騎士団も出動するに違いない。
そのときが来たら、ノイムは前世のように、シャティアを助けてトワンを打ち倒したいと思っていた。寂しいことに、それは叶いそうにない。叶いそうにないが、このままいけば、ノイムが考えうる限りで最も犠牲の少ない敵討ちになりそうだ。
シャティアがトラウマを抱える心配もない。
それは素直に嬉しかった。
▼ ▽ ▽
目抜き通りに面した石造りの四角い建物は、騎士団の詰所と呼ぶにふさわしい武骨な面構えをしている。が、その建物が詰所らしい顔をしていたのは、なかに足を踏み入れるまでの、本当に上っ面だけのことだった。
「……それにしても、ずいぶん上品な内装ですね」
「贅を凝らした悪趣味なと言い切ってくれてかまわないよ」
ノイムたちが通されたのは、騎士団長の執務室だ。
床は隅から隅まで毛足の長い絨毯で覆われている。絨毯には細やかな曼荼羅紋様が織り込まれており、土足で踏むのが躊躇われた。とんでもない高級品だとひと目でわかるのである。
壁もまた見事なものだった。入って左の壁には、一面を覆うほどのタペストリーがかけられていて、右の壁には金の額縁に入った絵画が三枚飾られていた。奥の執務机のうしろには大きな窓があるが、これにかかるカーテンも一級品だ。
となると、調度品についてはもはや言うまでもない。
一例として応接用のソファを上げよう。座ったノイムは最初、バランスを崩して転がった。座面があまりにも柔らかすぎるのだった。尻に伝わる感触は抜群にいいが、体重の軽い子供にとっては座りにくいことこの上ない代物である。
「わたしもこの部屋には辟易している。恥ずかしくて、客人をこの場に招くなんてとてもとても」
「五人もお客を入れておいて?」
からかうように目を細めたラヴィアスに、エクシアも笑って返した。
「君たちなら問題ないさ。これを見ても、わたしに侮蔑の視線を向けたりはしないだろう?」
「向ける人がいるんです?」
「主に、うちの団員だけれどね」
ふたりはすっかり雑談に興じていた。ノイムとシンシアに至っては、出されたお茶に舌鼓を打ち、砂糖をふんだんに使った甘いお菓子を大喜びで頬張っている。シャティアだけはさすがに硬い面持ちだったが、「こんなことをしている場合ではない」などと騒いだりはしなかった。
騎士団詰所に腰を落ち着けて、闘技場を襲った魔族トワンとシャティアの関係をすっかり説明し終えると、一同は手持ち無沙汰になったのである。
トワンの行方は、サフィート騎士団の騎士たちが総出で追っている。闘技場が魔族に襲われたことは町中に通達して、不要な外出は慎むようにと住人に呼びかけてある。事態に動きがあれば、どんなかたちであれ、エクシアのもとに真っ先に情報が来る。
下手に歩き回るよりも、待っていたほうがいざというときに素早く動ける。今のノイムたちはそういう状態にあった。静かに待機するのが仕事なのだ。
そうするしかないのであれば、ピリピリしていても仕方ない。気力も体力も無駄に消費するだけだ。
それでこんなもてなしを受けながら、おとなしくしているわけだった。




