112.拳闘士、勝ち上がる
事前の打ち合わせがなにもなかったにも関わらず、シャティアは嘘と真を巧みに混ぜ込んで、ノイムと共に村で過ごした日々から、勇者の剣の存在を見事に消し去ってしまった。
傷が残っていると聞いて興味を示したのはシンシアだ。ノイムが話したがらないくらいの大きな怪我とはどんなものかと気になったに違いない。
見られることに抵抗はなかったので、ノイムは服をちょっとめくってみせた。
腹にでかでかと刻まれた熊の爪痕を目にすると、可愛らしい姉の顔はたちまち歪んだ。ピンク色に盛り上がった三本の傷は、シンシアの目にはグロテスクに映ったらしい。いくらか同情の感を浮かべた顔で、ノイムと傷跡とを見比べた。
「これ、痛くないの?」
「触ってみる?」
シンシアがいやいやをするように首を振ったので、ノイムは彼女の手を取って傷跡の上まで持っていった。
傷跡に指先が触れた瞬間のシンシアときたら、なかなか見ものだった。卵が焼けるまで熱されたフライパンに触ってしまったときのように、悲鳴を上げて手を引っ込めたのである。
グミのようなこの触り心地は、持ち主であるノイムでさえぞっとするくらいだ。シンシアが飛び上がるのも頷けた。期待どおりと言ってもよかった。派手なリアクションがあんまりおもしろくて、声を立てて笑ってしまったくらいである。
「ぷ、ぷにぷにしてるぅ……」
今度シンシアの顔に現れた感情は、ノイムに対する心配というよりも、傷の感触に対する嫌悪感と言い表すのが正解だろう。
「わかるよその気持ち。あたしも手当てのたびに、全身の毛が逆立つような気がしたもん」
シャティアも喉の奥でくつくつと笑いをかみ殺している。
「ラヴィーさんも触ってみる?」
「結構です」
こちらにはすげなく断られてしまった。当然といえば当然である。
不安が解消されたおかげか、ノイムはずいぶん饒舌になった。
手詰まりかと思われたカデルの捜索についても、ラヴィアスが「失敗したのは海路だけですから」と肩をすくめて話を終わらせようとしたところで「でも、ニギの国って島国でしょ? ほかにどんな手段があるの? ラヴィーさんなら空でも飛んで行けるかもしれないけどさ」などと軽口を叩く余裕すらあった。
「その手がありましたか」
当のラヴィアスが真顔で応じてくれたので、ノイムはさらに気分がよくなったくらいだ。
そこからはほとんど雑談だった。
ノイムとシンシアは離れていた時間を埋めるようにしゃべりまくった。ラヴィアスの無味乾燥な報告と違って、シンシアから聞く旅の話には温度があった。
「その髪、シシーがやりたいって言ったの?」
「そうだよ。ラヴィアスさんに男装したほうがあとが楽だって言われて切ったときは、まだもう少し長かったの。顎くらいまであったかな? そうしたら、今までどこに行くにしてもじろじろ見られてたあたしの髪ね、全然目立たなくなったの!」
たしかにシンシアの鮮やかすぎる赤毛は、長く伸ばしてポニーテールにしていたからこそ目立っていた部分もあった。以前よりも注目を浴びなくて済むようになり、それに味を占めたシンシアは、さらに考えたのだという。
「本当に男の子みたいに短くしたら、ちらっとも見られなくなるんじゃないかなって」
一度思いついたら、居ても立っても居られなくなった。そうして今の、後頭部を思いきり刈り上げた髪型が出来上がったわけである。
「でもね、気づいちゃったの。ラヴィアスさんと一緒にいたら、どっちにしろ注目されるんだよね」
しみじみとラヴィアスを眺めたシンシアに、ノイムもしきりに頷いた。
冒険者ギルドで聞いた話を思いだす。赤毛の少年と銀髪の美女が並んで歩いているのを見たという、ダンの証言である。男女が逆転しているが、十中八九、あれはシンシアとラヴィアスの話だろう。
「だから結局、すれ違ったひとにちらちら見られるのは変わらなかったんだけど」
そう言うシンシアの表情は明るかった。注目度とは関係なしに、今の格好が気に入っているようだった。シンシアが自分で望んで、さらに満足しているとなれば、外野がとやかく言ういわれはない。
(やりすぎだなんて思ってごめん、ラヴィーさん)
ラヴィアスに対する非難はただの濡れ衣だったわけである。
遠くで花火の音が響いていた。
初日の闘技大会が閉会する合図だろう。
間もなく、闘技場からどっと吐き出された人々が町に押し寄せるはずだ。腹を空かせた参加者や観客は、まず間違いなく酒場に向かう。ノイムたちのいるここも、あっという間に賑やかになるだろう。
このころには、ひっきりなしに言葉を交わしていたノイムとシンシアも、すっかり疲れて黙りがちになっていた。
話すことがなくなると、自然、この場はお開きの流れになる。
ラヴィアスとシンシアは、ノイムたちとは別の場所に宿泊していた。今から宿を替えようとするのは難しい。闘技大会の間は、どこも満室になるのが常識である。下手にいま滞在している宿を離れると、この町にいる間、寝泊まりする場所を失う羽目にもなりかねないのだ。
翌日も闘技場で落ち合うことを約束すると、四人は解散した。
酒場を出ていくラヴィアスとシンシアの背を見送って、宿の部屋に戻る階段を上りながら、シャティアがため息をついた。
「しっかし、こんなところであのふたりに会えるとはねえ……もっと長丁場になると思ってたよ」
「私も、びっくりした。お姉ちゃんとラヴィーさんが一緒にいるのなんて、想像したこともなかったもん」
「ラヴィアスさんが家まで連れて行ってくれるんだろ。あたしに付き合って闘技大会なんか見物しなくても、明日にでも発っていいんだよ」
シャティアのこの申し出に、ノイムは目を瞬いた。
「ここまで散々お世話になっておいて、私がそんな薄情なことすると思う?」
「薄情だなんて思うもんか。金輪際会えなくなるわけでもなし。せっかく姉妹揃って無事だったんだから、なるべく早く親御さんに顔見せてあげたほうがいいだろ。あんたんとこには、そのうちあたしが遊びに行くからさ」
「む……」
ノイムは口を尖らせた。
「なんだい急に、可愛い子ぶって」
「別に可愛い子ぶってなんかないもん」
ただ単に不満だっただけである。
ノイムはシャティアが闘技大会で優勝する姿が見たいのだ。
「そりゃあ、トパの街に帰ってもシャティアには会えるかもしれないけど、でも、拳闘士としてシャティアが闘うところは? 私の年じゃ、何日も家を離れるなんてできないもの」
ここで見逃したら、シャティアの雄姿を見られる次の機会まで、五年以上は確実だ。それなら、今ここで出立を数日遅らせたほうがいい。神経をすり減らしながら毎日を過ごしているマーリアとイゴルには申し訳ないが、もう少し待ってもらうことにする。でないとノイムが後悔するからだ。
シンシアもきっと賛同してくれる。危険がなくなってしまえば、トパの街を離れて過ごす日々は、実に面白い冒険のはずだ。否やは言うまい。
「だから、シャティアが優勝するまではここにいる!」
ノイムが胸を張ると、シャティアは豪快に笑った。
「嬉しいこと言ってくれるねえ」
本当に嬉しそうに口元を緩めると、もはやお馴染みとなった乱暴な手つきで、ノイムの髪の毛をかき回したのである。
▽ ▽ ▼
闘技大会の二日目には、特筆すべき出来事はなかった。
前日に消化しきれなかった予選試合を片づけるのみだったからである。もちろん、初日にすでに試合を終えていたシャティアは、出番がなかった。となると、ほどほどにつまらない予選試合に見るべきところなんてないと言ってもいい。昼過ぎには引き上げて、四人でサルシャの町をぶらぶらして過ごした。
闘技大会、三日目。
前日までの予選を踏まえて、参加者が半数に絞られると、きちんとした対戦表が貼り出された。これでようやく一日の予定がわかりやすくなるわけだ。
勝ち残り式トーナメントの開始だった。いよいよ本戦である。
第一回戦では予選と違って、シャティアの出番が早い段階で訪れた。
相手もシャティアと似たような拳闘士だ。ふたりは至近距離で相対して、目にも留まらぬ速さで拳を放ったり、蹴りを繰り出したり、また最小限の動きで相手の攻撃を躱したりしていた。その場からはほとんど動かなかった。広々とした舞台を台無しにするような、小さくまとまった試合だった。「もっと派手にやれ! 見えないだろうがっ」なんて野次があちこちから飛んだくらいである。
絵面はたしかに地味だったが、シャティアも相手も一瞬たりとも止まったりしない。彼らの姿がよく見える範囲に座っていたノイムはおおいに楽しめた。観客からはいい勝負をしているように思えたが、どうもシャティアは、予選の鬱憤を晴らすために遊んでいたらしい。ほどほどに打ち合うと、相手の腹に拳を一発叩き込むだけで勝負をつけてしまった。
シャティア自身にはかすり傷ひとつなかった。余裕の勝利というわけだ。
もしかすると、ノイムたちからよく見える場所で拳を打ち合っていたのも、シャティアの立ち回りによるものだったのかもしれない。
後半の試合は、シャティアも含めて皆で仲良く観戦した。
本戦に入ると、さすがに見応えのある闘いばかりが披露される。おかげで、第一回戦だけでまる一日かかったにも関わらず、一日目や二日目に行われた予選と違って、最初から最後まで退屈しなかった。
四日目には、第二回戦と第三回戦がまとめて行われた。
一日のうちに二試合こなさなければいけないにも関わらず、シャティアはどちらの闘いでも、危なげなく勝利をおさめた。まだまだ彼女の相手になるような戦士はいないようだ。とはいえ疲労がないわけではなく、第三回戦を終えたシャティアがノイムたちのもとにやってきたとき、彼女は額にうっすらと汗をかいていた。
参加者や観客が問題を起こすようなこともなく、シャティアも順調に勝ち進んでいる。
相変わらず酷い野次は飛び交うし、お世辞にも上品な見世物とはいえないが、それでも、こうやってのんびり腰を落ち着けてなにかを楽しむとは、久しくなかった経験である。隣にシンシアもいることだし、我を忘れてはしゃいでもおかしくなかったのだが、どういうわけだろう。
日を追うごとに、ノイムはそわそわとして落ち着かない気持ちになっていた。
強い不安感と言ってもいい。試合が進み、決勝戦が近づくにつれ、このままではいけない気がするという漠然とした思いが、胸の内を満たしていったのである。
(やっぱあれかなあ……『十年前のサルシャの町で起こった事件』……)
ノイムの思考は自ずと、そこに立ち返っていた。サルシャの町に到着した当初、喉元まで思いだしかけた前世の記憶である。何日か前には、闘技場からガケ鳥が脱走したあの一件が、それに該当すると思った。ガケ鳥を撃墜したあとに「ああこれか」と納得して、それきり考えるのを止めていたのだ。
違ったのだろうか。
(私の考えすぎって線もある……)
前世で聞いた話というのは、たしかにガケ鳥脱走事件だったのかもしれない。
今のノイムが感じている不安は、ただ単に、あまりにもすべてが上手くいきすぎているがゆえの――ラヴィアスやシンシアともあっさり再会できて、闘技大会はなにごともなく進み、おそらくこのままシャティアは優勝するだろうという、都合がよく、平和すぎる筋書き――このままただで終わるわけがないという、自分に対する不信感が生んだものではなかろうか。
その答えは五日目に出た。
準々決勝、準決勝とこれも危なげなく進んだシャティアが、いよいよ決勝を控えたそのときだった。
闘技場に、ひとりの魔族が乱入してきたのである。




