109.幸運の女神、姉につき
ナグリーブへの国境を越える手前で、デビーの荷馬車は魔物に襲われた。
シンシアはその魔物の名前を知らなかったし、ラヴィアスもどういうわけか口にしようとはしなかったが、とにかくその魔物は群れでやってきたという。
「……お姉ちゃんは大丈夫だったの? 怪我とか」
「あたしは大丈夫だったよ」
でもね、とシンシアが声を落とした。顔が曇る。なにやら複雑な心境を表す顔だった。
「デビーと、ヒルバールのふたりがね」
ヒルバールは御者台に座っていた。シンシアは荷台の奥に押しこめられ、デビーが荷台の一番うしろに陣取った。ノイムがいなくなってからはずっとこの位置取りで旅をしていたという。シンシアが間違っても、馬車から飛び降りて逃げたりしないよう、見張っていたわけである。
それが災いした。彼らはいわば荷馬車の一番外側に位置していたわけだから、襲撃者にとっては格好の的だ。外からすぐにそれと見えた彼らは、あっという間に魔物に襲いかかられた。
「その街道ね、ほかに人なんて通ってなかったし、あたしもこのまま魔物に食べられて死んじゃうんじゃないかってすっごく怖かった。目の前でデビーがすごい悲鳴を上げてるの。ヒルバールはナイフで戦ってたから、デビーほどひどくはなかったけど、たくさん噛みつかれてたよ」
それなりに戦えるはずのヒルバールが精いっぱい抵抗しても、完全に魔物を防ぐことはできなかった。丸々と太った体を抱えていて、加えて武芸はさっぱりのデビーはひとたまりもない。
彼らを尾行していたラヴィアスが慌てて助けに入ったとき、デビーはほとんど死にかけていた。喉笛を魔物に食いちぎられていたのである。呼吸をするたびに喉に空いた穴から血の泡があふれるのを見て、辛うじて生きていると判断できる状態だった。ヒルバールも手足を深く噛まれ、腹は破れ、大量に血を流していた。致命傷といって差し支えのない打撃である。しかし、デビーよりはよっぽど元気だった。
自分の手で戦えるか戦えないか。それが主従の命運を分けた原因だった。
説明しているうちに、凄惨な光景を思いだしたのだろう。シンシアは青い顔で黙ってしまった。ラヴィアスがあとを引き継ぐ。
「荷台の奥に縮こまっていたおかげか、シンシアは無傷でした。さすがに、まったく魔物に気づかれないとはいきませんでしたが、幸い、群れがシンシアに襲いかかる前に、私が割り込めたので」
結果、シンシアは五体満足で助かったわけだ。
「すべての魔物を追い払ったあと、ノイムの名前を出しました。シンシアはそれで私のことを受け入れてくれたので、こうしてふたりで、ここまで旅をしてきたわけです」
「デビーとヒルバールは?」
ノイムの問いかけに、ラヴィアスはちょっと肩をすくめた。
「奴隷商のほうは手遅れでしたし、青年奴隷については……運がよければ生き延びたでしょう。たとえば、あれからすぐに最寄りの人里まで自力で向かい、適切な手当てを受けることができたのであれば」
つまりラヴィアスは、主従を見捨ててシンシアだけを連れだしたのだ。
すっきりしない結末ではあるが、少なくとも今後、ノイムがデビーの影に怯える必要はなくなった。その点、ノイムは心の底からほっとした。
「私を殺そうとしたから、罰が当たったんだ」
ざまあみろと思う反面、ほんの少しだけ、残念な気持ちもあった。
院長やアリサのときと同様だ。許されるのなら、この手で役人の前に突き出して、今までの悪行を法で裁いてやりたかった。もちろんこれはノイムのわがままだ。彼の立場なら、正統な方法で罪を裁かれるよりも、今まで売り払ってきた子供に背中を刺される可能性のほうが高かった。
それにしても、である。
「すごくいいタイミングで襲われたねえ」
「うん、あたしもびっくりしたよ。人が死んでるのに、不謹慎かもしれないけど……助けてもらったとき、その人が、ノイムの言ってたラヴィアスさんって人だってわかったとき、すごく嬉しかった。神様があたしに救いをくれたのかと思ったよ」
ラヴィアスがどうやってシンシアを取り返そうかと思案している最中の出来事である。これがなかったら、シンシアがデビーから解放されるまでにもう少し間があったはずだ。それも、少々ありがたくない方法での解放になったに違いない。
「ふたりとも運がいいね」
ノイムとは大違いだ。
「私よりも、シンシアでしょう。私が気づくまでにまったく無傷でいたんですから。豪運ですよ」
感心したように言ったラヴィアスである。
何気なく彼の顔を見上げたノイムは、ぎょっとした。
声だけは感嘆のため息をついたラヴィアスの口元に、うっそりとした笑みが浮かんでいる。シンシアを助けたときのことを思いだしているのかもしれないが、それだけなら不思議でもなんでもないのだが、問題は彼の目である。
黒々とした赤みを放つガーネットの瞳に、物騒な光がひらめいた。その瞬間を、ノイムは目撃してしまった。
(……魔物の襲撃って、偶然、なんだよね?)
ひとつの予感が頭のなかに浮かんできたが、それが具体的なかたちを帯びることはなかった。
「続いて、第二十二試合――」
闘技大会のアナウンスが、風に乗ってノイムたちのもとまで流れてきた。シャティアの出番のひとつ前だ。おしゃべりは終わりである。勇者の剣についてどう誤魔化そうか思案するためにラヴィアスに話を振ったのに、それだけで見事に時間を潰すことができた。ラッキーというよりほかない。
なにしろノイムは話を聞くのに夢中で、ほかのことなどまったく考えていなかったのである。
闘技場のアナウンスには、もちろんラヴィアスも気づいた。背中を預けていた壁からゆっくりと身を起こして、未だに湯気を立てているワインを一気に煽る。
「そろそろ戻ったほうがよさそうですね。ふたりとも、早くその肉を片づけてしまいなさい」
ノイムもシンシアも、買ってもらった串焼きを握りしめていた。おしゃべりに夢中になって、ほんのひと欠片かふた欠片を口に入れたっきりになっている。
ふたりは慌てて肉を口に押し込み始めた。
ラヴィアスが手元で温め続けていたワインと違って、姉妹が手にした肉はすっかり冷め、油が白く固まっていた。肉も固い。おかげで、味はよかったが食感が悪い。それでもお残しする気はなかった。眉間にシワを寄せながらなんとか腹に収める。
姉妹の手に残った串は、ラヴィアスに取り上げられた。どこに捨てるのかと彼の手元を見たら、もうその手は空っぽになっている。放り捨てた気配もない。
もっとも、ノイムはこんなことには慣れっこだった。前世で散々目撃している。
だから食いついたのはシンシアひとりだ。
「今の、魔法? 魔法?」
「ええ」
シンシアは目をきらきらさせながら飛び跳ね、「便利で羨ましい」というようなことを言いながらラヴィアスにまとわりつく。ラヴィアスはこれを適当に流していた。慣れた様子である。今までの旅路でも、同じようなやり取りが何度もあったに違いなかった。
シンシアとラヴィアスは、ノイムが知らないうちに知り合って、ノイムが知らないうちに仲良くなっている。考えてみれば、ラヴィアスと共に過ごした日数は、ノイムよりもシンシアのほうがはるかに多いのだ。
ノイムがラヴィアスと一緒にいたのは、最初の孤児院から助けられてトパ孤児院に預けられるまでの一週間だけだった。短すぎるくらいに短い。あとは遠方から手紙を二通もらっただけだ。それも最初の一通は、手紙とも呼べない紙の切れ端だった。
(なんか……)
言いようもない気持ちに襲われて、ノイムはつい、路地を出るふたりの背中を見送ってしまった。
「ノイム? どうしたんです」
ついてこないことを不審に思ったのだろう、ラヴィアスが振り向く。その片手は、人混みではぐれないためにと、シンシアの手を掴まえている。
「……ううん、なんでもない。お腹いっぱいになって、ちょっとぼうっとしてた」
「試合中に寝てしまわないでくださいね」
「あんな騒がしいところじゃ寝れないよ」
口を尖らせたノイムは、路地から駆けだして、ラヴィアスの空いているほうの手をしっかり掴んだ。




