104.闘技大会、開始
サルシャの闘技場は、円形闘技場とは名前がついているものの、その実、まったくの正円ではない。観客席から見下ろすとよくわかるのだが、わずかに楕円形になっている。
その楕円の舞台をぐるりと囲んでいる石壁は十フートに及び、舞台上の激しい闘いから観客を守っている。
壁を隔てて一段高くなった観客エリアはすり鉢状である。座席はひと席ずつではなく、長いベンチが通路と通路の間を埋めるかたちで設置されていた。
ノイムは前から三列目のベンチの端に下ろされた。
傍らに膝をついたエクシアがノイムのポンチョを軽く叩く。執拗に同じ箇所を撫でているところを見るに、靴跡でもついているらしい。
「……帰ったら洗濯をおすすめするよ」
取れなかったようである。
「痛むところはあるかい」
「ないよ。ちょっと踏まれたり蹴られたりしただけだし」
これが本当の踏んだり蹴ったりというやつだ。しかし字面のわりには軽傷だった。ノイムはポンチョとシャツの襟を引っ張って脇腹を確認した。つるんとした肌にはピンク色に盛り上がった熊の爪痕があったが、それだけである。擦り傷もアザもなさそうだった。痛みもあとには引いていない。
「なんともないよ」
「そうか、それならよかった」
頷いたエクシアは、ノイムの肩を軽く叩いて立ち上がる。鮮やかな金髪に照り映える朝の日差しが眩しい。ノイムは目を細めて彼を見上げた。
「助けてくれてありがとう。エクシア団長がいなかったらぺちゃんこになってたかも」
「だから代理だと……うん、それにしても、ひとりで来たのかい。シャティアさんはどうしたんだ」
「もう控えの場に行ってるよ。ひとりで大丈夫って断ったの」
「明日からは、観客席に座るまで一緒に来てもらうといい。今日は君が転んだところを偶然見かけたからよかったものの、次はこうはいかないかもしれない。ぺしゃんこになった君を見つけるのは、私も遠慮したいからね」
「……わかった」
ノイムだってまさかああまで足蹴にされるとは思いもしなかったのだ。まるでサッカーのボールだった。毎日踏んだり蹴ったりされる気も、毎回エクシアの手を煩わせるつもりもなかったので、素直に頷いておく。
「わたしは見回りに戻るが、なにかあったら呼んでくれ。力は惜しまないよ」
言い置くと、エクシアはノイムの傍を離れていった。
豊かな金髪が深紅のマントの上に散っている。マントの下からは白銀の鎧が覗いている。ゆったりと足を進める姿は、まるで王都を警護するエリート騎士である。砂と埃にまみれてくすんだサルシャの闘技場には不釣り合いだった。
エクシアが座席の傍を通るたび、そこに座っている観客は、揶揄するような視線を彼に向ける。連れがいる者は、顔を寄せてひそひそとやる。ノイムが抱いた異物感というものを、誰もが感じている証拠だった。景色から浮いているのがエクシアひとりだけなものだからなおさらだ。
(ほかの騎士はふつうなのになあ……)
ひとりぼっちで座席の端に取り残されたノイムは、ベンチに深く座り直し、肩にかけていた鞄を揃えた膝の上に抱えた。誰が見ても行儀のよい姿勢で、観客エリアを見渡す。
腰に剣を携えて短いマントを肩にひっつけた騎士たちが、一定の間隔を空けて巡回しているのが見える。しかしその誰ひとりとして、エクシアのような強烈な輝きを放つ者はいなかった。生まれ持った容姿がどうというわけではない。平の騎士団員は皆、鈍い銀色に光る鎧をまとっている。マントの色だって、よくいえばバーガンディー、悪く言えば洗いざらしでくたびれた深紅だった。
サルシャのような町の規模に相応しい、ごく一般的な騎士の様相だ。
白銀に輝く鎧も、深紅の長マントも、エクシアひとりだけのものだった。彼だけが異質なのである。ノイムはそこに一種の作為的なものを感じて、しかし、考えすぎかとすぐに頭を振った。
舞台の中央から弾速的に上がり続けていた花火が、ひときわ派手に打ち上げられた。
闘技場の頭上で大量に煙を上げて人目を引いた直後、どこからか魔法で拡声されたアナウンスが響き渡る。
ノイムは両手でそっと耳を覆った。それでちょうどいいくらいだった。
音割れた声は、今回の闘技大会の参加者を紹介するという内容だった。試合の組み合わせも同時に発表するらしい。第一試合で闘うふたりから順に、名前が読み上げられていく。
試合総数は二十を超えた。シャティアの名前が出て以降は聞き流してしまったので、結局何試合あるのかは把握していない。アナウンスはずいぶん長いこと続いていたので、四十も超えているかもしれなかった。
(この大会ってトーナメント制だよね……今日は予選も終わらないのかな)
数日に渡る大規模な闘技大会だから、予選試合だけでニ、三日使うのも当たり前なのかもしれない。本戦になれば人数は半分に絞られるわけだし、準々決勝あたりから先は一日で収まるだろう。
思えば、ノイムがこうやって闘技場で観客になるのは初めてのことだった。
前世でもサルシャの町には来たことがあるが、闘技場に入ったことはない。当然ながら予備知識もないので、ノイムの脳裏には次々と疑問が浮かんでは消えた。
一番気になったのは、自分が果たしてシャティアの出番まできちっと起きて待っていられるかということである。
予選が最も玉石混交で、見るに値しないような試合も数多くあるに違いないのだ。たとえば昨日、宿の酒場で絡んできた飲んだくれ連中なども、今回の大会に出るようなことを言っていたが、彼らの試合が見応えのあるものになるとは到底思えない。途中で飽きる気しかしなかった。
シャティアの出番は第二十三試合である。先は果てしなく長い。
せめて話し相手がいれば違っただろうが、その話し相手にできそうなエクシアはもうずいぶん遠くまで歩いていってしまっている。引き留めておくんだった、とノイムは顔をしかめた。
ふたたびアナウンスが響いたのはそのときである。
興奮して上ずった声が、勢いのよい前口上を述べた。いよいよ始まりだ。これまでで一番やかましく盛大に花火が打ち上げられ、ノイムは思わず首をすくめた。しかし耳朶を脅かすこの爆発音も、これで一旦の終わりだろう。あとは今日の試合を消化しきるまでおとなしくしているはずだ。
改めて第一試合の選手が紹介される。名前を読み上げられるだけだった一回目と違って、今度は、アナウンスと同時に舞台の両脇からふたりの戦士が歩み出てきた。両者、屈強と称していい立派な体格の男だった。もちろん見事な武装をしている。
空気を割るほどの歓声とともに、第一試合が始まった。
前から三列目ともなると、ノイムからはその様子がよく見える。剣を振り下ろした戦士の気合の声も、刃が交わる甲高い音もばっちり聞こえるはずだったが、それはほとんど、観客の野次にかき消されてしまった。「やっちまえ」「俺はおまえに賭けてるんだぞ」「勝たなきゃ承知しねえからな!」このあたりはまだ可愛いほうで、酷いものだと「そこだ! やれ! 殺せ!」などという野蛮極まりないものもあった。真剣を使うとはいえ、これはあくまで闘技大会である。一番強い戦士を決める娯楽大会だ。殺し合いではない。試合のたびに人死にが出ては適わない。
ただ、聞くに堪えない下品な野次は、見かたを変えれば一種の余興である。ときおり、聞いたこちらが思わず笑ってしまうような台詞も飛んできた。おかげでノイムは、思いのほか退屈せずに、第十試合まで観戦を続けることができたのである。
第十一試合目が問題だった。
片方は魔導士かなにかのようで、杖を振って遠隔攻撃に徹している。対する相手は剣士だった。自分に向かってくる魔法を巧みな足さばきで避けながら、剣の届く範囲まで近づける隙を窺う。近づかれては勝ち目がないのがわかっているから、魔導士も魔法を繰り出しながら常に移動を続けている。
あっという間に泥沼の持久戦に突入した。剣士の足が鈍って魔法を食らうか、魔導士が魔力切れを起こして剣士の刃にかかるか。一進一退の攻防は代わり映えしない。
ここでノイムは飽きた。今さら魔法に目を輝かせるほどピュアでもないので、舞台上で繰り広げられる距離の縮まらない鬼ごっこは、瞬きの速さで見応えのないものになってしまった。
ほかの観客も似たようなものだった。ひっきりなしに飛び交わされる野次がうんざりしたものに変わっていく。座席に視線を巡らせれば、これまで前のめりの姿勢で観戦していた者たちがこぞって上半身を引いていた。もはや試合には目もくれず、隣近所の観客と雑談に興じているのも見える。ちょっと休憩とばかりに席を立つ姿さえあった。
(この調子で全試合見るのは無理があるもんなあ)
オープニングで試合順だけ聞いておいて、目的の試合までは適当に時間を潰す。また、目的の試合が終わったら即座に席を立って闘技場を出る……そういう観戦の仕方が、膨大な時間を費やして開催されるこの闘技大会では、ある意味正解なのかもしれない。
やっぱりエクシアに相手をしてもらおう。見回りがあると渋られるかもしれないが、闘技場は見通しがいいし、ほかの騎士団員だって何人も立っている。「ほかの観客の野次が怖い」とでも言えば、エクシアならノイムの傍に留まってくれるはずだ。
ノイムが腰を浮かせかけたときである。
背後からがっしと肩を掴まれて、危うく座席から転げ落ちそうになった。
「だ、だれ!」
即座に掴み返して振り返って、拍子抜けした。
「……ほんとに誰?」
びっくりするくらい見覚えのない少年が立っていた。細身の体をだぶだぶのシャツと吊りズボンに包み、継ぎの当たった帽子を被っている。
彼の耳のあたりから短く刈った赤毛がはみ出しているのを見て一瞬どきりとしたノイムだったが、ゆっくり深呼吸をして、心を落ち着かせた。
ここでシンシアの名前を叫ぶほどおめでたい頭はしていない。思い当たる話を昨日聞いたばかりだった。
(冒険者ギルドで聞いた男の子かな)
シャティアの知り合いが見たという派手な赤毛の男子である。たしか、とびきりの美女の連れがいるとかいう話だった。
それがどうして自分なんかにちょっかいをかけてくるのか、まったく不明だが、とにかく黙っていても始まらない。
「私になにか用?」
「……やっぱり、ノイムだ」
少年の声を聞いて、ノイムは今度こそ座席から転がり落ちた。
澄んだ高い声だった。
それも恐ろしく聞き覚えのある。
「し、シ、シンシア!?」
ノイムが素っ頓狂な悲鳴を上げると同時に、少年は――いや、少女は、ノイムの義姉であるシンシアは、目深に被っていた帽子を脱ぎ捨てた。




