103.群衆、幼子に厳しく
翌日のサルシャの町は浮かれ切っていた。
前夜に闘獣が脱走したことなど露ほども気にかけず、また、あの騒ぎを知らない町民に気取らせるような真似もしなかった。闘技場の頭上にはひっきりなしに花火が揚がっている。ドンドンと響く音は町の端にいても聞き取れた。この日ばかりは、どんな寝坊助でも早起きを強いられたことだろう。
かくいうノイムも、派手な爆発音に叩き起こされた質である。幸いだったのは、無駄起きにならなかったことだ。ノイムが起きたとき、シャティアはすでに身支度を済ませていた。
「なんだ、起こす手間が省けたね」
ちょうどいい時間だった。ノイムはのろのろとベッドから降りて、あくびを噛み殺しながら着替える。くたびれたシャツを身につけ、裾をかぼちゃパンツに押し込み、ベルト代わりの帯でぎゅっと締める。フードつきのポンチョを頭から被れば完成だ。
顔を洗って完全に身なりが整うと、朝日に照らされるサルシャの町に繰り出す。シャティアの籠手を引き取りに、鍛冶屋の親父のところへ行くのである。
「親父さん、できてる?」
親父は昨日とまったく同じ場所に椅子を置いて、まったく同じように長剣を研いでいた。そして声をかけられると、これもまた前日と同じようにちょっと手を止めて顔を上げる。訪ねてきたのがシャティアだと認めると、親父は軽く顎をしゃくって、ふたたび作業に戻った。
彼が指し示したのは、店の奥に置かれた小さなテーブルだ。客とやり取りするときに使っているのだろう。その上に、籠手がひと組用意されている。
シャティアの目がきらりと光った。
「さっすが、仕事が早いね。助かるわ」
仕上がった籠手をさっそく両の手にはめたシャティアは、満足げに笑みこぼす。ニヒルな笑みだった。ちょっと怖い。とにかく、納得のいく出来だったようだ。
「なにか変わったの? 私には全然わかんないや」
「今までより思いきりぶん殴れるようになったね」
「……そっか」
ノイムの感じたとおり、見た目にはほとんど変わりはないらしい。ただ、内部に新たにクッションになるものが取りつけられている。これまでより、拳を痛める心配がなくなったというわけだった。
(鍛冶屋の仕事ではないよなあ)
とは思ったが、口には出さなかった。
メンテナンスと改造の代金を親父に払うと、用事は終わりだ。寄り道などはせず、シャティアとノイムはまっすぐ宿に戻った。
空腹を訴える胃に朝食を詰めこんだら、いよいよ闘技場である。時間もちょうどよかった。
外に出ると、町の賑やかさはいっそう増していた。道行く人の足が、ほとんど闘技場に向かっている。ノイムたちも、人の波に乗せられるように町の中央へと歩を進めた。
ひっきりなしに鳴る花火の音は、少し離れたところで聞くくらいが良い、とノイムは思った。闘技場に近づくにつれ、耳が痛んで仕方ないのである。
しかしそれも中に入るまでだった。もっとも、闘技場の外と中のエントランスとは林立する柱で区切られているだけなので、仕切りも壁もあってないようなものだ。音も筒抜けだが、まるっきり外にいるよりは花火の爆発音もいくらかマシになった。
大会の参加者はここで奥へ入っていき、舞台と同じ階にある控えの場で待機する決まりになっている。純粋な客であるノイムは受付を済ませたら、問答無用で観客席へ登る階段に押しやられてしまうから、シャティアとはここで解散となる。試合が終わるまでは顔も合わせられない。
「ひとりで大丈夫? ちっちゃいと大変だろ。あたしが席まで着いていってやろうか」
「ちっちゃいのって言うな。平気だよ」
シャティアはノイムをひとりにすることに躊躇いがあるらしい。
闘技場の入場受付は多すぎる人でごった返している。
誰もが「ちょっと早めに来ていい席を確保しよう」と考える頃合いだ。ノイムとシャティアが闘技場に来たのは、いささかちょうど良すぎる時間だったのである。
受付には闘技場の規模に相応しい広さと人員が用意されていたが、それでもさばききれる客の数には限りがあった。偽の札を持ってただで入ろうとする不届き者は紛れ込むし、入場待ちの列に横入りしたしてないという客同士の諍いだって起こる。そうなると当然、入場手続きは遅れる。客は苛立つ。
このなかに入っていかなければいけないと思うとげんなりするのはたしかだが、ノイムは、シャティアについてきてもらおうとまでは考えなかった。この人の波は、一度挑んだら途中で抜けるのも一苦労だ。シャティアを巻きこんで、なにか大きな問題が起こっては、最悪、彼女の今日の試合に響いてしまう。それだけは避けたかった。
なにしろノイムの運の悪さは折り紙つきなのである。安易な気持ちでシャティアに甘えると、痛い目を見るのがおちだ。
「変な人に絡まれたって、自分でなんとかできるもん。シャティアだって知ってるでしょ?」
「いや、そこは心配してないけど……もっと単純な問題だよ」
肩をすくめたシャティアは、ノイムの頭を軽く叩いた。
「それじゃ、気をつけるんだよ。最前列はおすすめしない。たまに人が吹っ飛んでいくからね。あたしも何回かやらかしたことがある」
「観客席まで試合相手を吹っ飛ばしたの?」
「そう。ただ、あんまり軽すぎる向こうも悪かったと思うよ」
見た目だけは立派な細身の少女であるシャティアに「体重が軽い」なんて理由で非難されては、相手もたまったものではないだろう。ノイムは笑いかけた奇妙な顔で、選手用の入り口に消えていくシャティアを見送った。
「さて……と」
受付を振り返る。
群がっている客は軒並みおとなだ。それも圧倒的に成人男性が多い。ノイムの身長では見事に埋もれてしまう。並んで並んでいざ受付の前に立ったところで、うしろの人に頭上を抜かされてしまって、いつまでたっても入場できないなんてことになりかねない。
自己主張だけはしっかりしていこう。決意したノイムは、横断歩道を渡る小学生のようにしっかり手を挙げて、受付待ちの列に入り込んだのだった。
▼ ▽ ▽
努力も虚しく、ノイムは実に五人の人間に横入りをされた。
「ちょっと、私が先に並んでるんだけど!」などと主張すれば、冷笑とともに無視される。受付に立っていた男も、相手が小さな子となればたいしたトラブルにもならぬと侮ったのだろう。客の並び順を正すよりも、目の前に差し出された入場札を――ノイムの頭の後ろから差し出された入場札を――照会するほうを優先した。
これが五回も続いたのだから、いい加減唾でも吐いてやりたいところである。
ただ、ここでぎゃーぎゃー騒ぐのはいかにも子供のすることだ。ノイムの中身は立派な成人間近の女性であるからして、おとなしく隙を窺った。誰にも文句を言わせないタイミングを見計らって、受付の男に入場札を叩きつけてやったのだ。
投げた札が見事に受付の男の鼻を打ったのは、もちろん狙いどおりである。
「嬢ちゃん、人にものを投げちゃいけませんって教わらなかったか?」
「おじちゃん、前とうしろはどっちが先なのか、教わらなかった?」
受付の男は舌打ちひとつでノイムに答えて、あとは黙った。相手が思ったより面倒なガキだとわかってくれたらしい。ここでノイムの相手をして時間を食ったりしようものなら、うしろに並んでいる客に罵られるのは間違いない。
「ほらよ。観客席までたどり着けるか? おちびちゃん」
「なめんな」
ふんぞり返ったノイムは、返された入場札をひったくるように受け取って受付を離れた。
観客席に向かう階段へ足を向けたのだが、こちらもまた大変な混雑である。上がったところで、客がいちいち足を緩めて、どのあたりに座ろうかと吟味するからだろう。この階段は最前列の席の前を走る通路に繋がっているのだが、その通路だって階段を上りきれば左右に伸びている。どちらに進むかほんのひととき考えるだけでも、列の進みが遅くなるのは必至だった。
(とりあえず右に行こう。右、みぎ!)
この点ノイムはあらかじめ決めておいた。そうでないと、後続の人間に蹴倒されてしまう。ノイムの身長では人混みで悠長なことをすると、危険なのである。
むしろ悠長に立ち止まらなくても、普通に歩いていても危険かもしれない。
(さては、シャティアが心配してたのってこれだな……)
たしかにこんなすし詰め状態では、シャティアと一緒のほうが安全に決まっていた。彼女の申し出を断ったのを一瞬だけ後悔したノイムだったが、時すでに遅しである。うしろに立つ人間の膝が背中にクリーンヒットしないかとひやひやしながら階段を進むしかない。
案の定というべきか。
ノイムは横から突き飛ばされ、見事に通路の床に転がった。階段を上りきり、舞台と客席フロアを仕切る頑丈な壁が見えた矢先である。
四つん這いになって慌てて立ち上がろうとしたが、間に合わない。すぐさまふくらはぎのあたりを踏まれて、悲鳴を上げかける。
ぎゅうぎゅうの人の波のなかで転んだ小柄な六歳児。周りから見えるわけがない。
続いて地面についた手の甲を踏まれた。頭上から「うわっ」と声が聞こえて、すぐに足は退けられたが、それだけだ。助けてくれる気はないらしい。
今度は脇腹のあたりに誰かのつま先が食い込む。
(悔しいけど、受付のおっさんの言うとおり……)
「観客席までたどり着けるか?」と半笑いで尋ねてきたあの男にはこう答えねばなるまい。
(……ちょっと無理かも)
考えながら、ころんと仰向けにひっくり返ったノイムである。
「君たち、足元に気をつけて。少しそこを空けてくれ。いやとは言わせないよ、君たちだって、闘技大会を見に来て殺人犯にはなりたくないだろう。ほら、その子を踏まないように」
不意に、視界がぽっかりと開けた。
「ノイムさん、だったかな。大丈夫かい?」
そしてその空いた視界に映り込んだ青年騎士がいた。
「……エクシア団長」
ノイムが顔をしかめてみせると、彼はほっと息をついたようだった。群衆に踏み倒されて気絶したのではないかと思っていたらしい。
エクシアは、ノイムの両脇に手を差し入れると、ゆっくりと持ち上げた。
「だから代理……いや、うん、ひとまず移動しようか。このままだと後続の観客が入ってこられないからね」
人混みから幼女を発掘すると、そのままノイムを腕に座らせた。ノイムがあちこち踏まれ蹴られたのをさすっているのを、やや不安げな目で見る。
「怪我はないかな?」
「昨日のほうが無傷だったよ」
「それはそれは……」
これだけ言えるなら大丈夫だと思ったに違いない、多分に安堵を含んだ苦笑が、ノイムに向けられた。




