102.すべての行く末、ここに在り
サルシャの町の頭上で瞬く星は、普段よりもいくらか霞んで見えた。
というのも今夜の町は、宵闇を追い払うかのように松明を燃やして、あたりを赤々と照らしていたからである。明かりは特に、町の南半分を縦断する目抜き通りに集中していた。
通りのど真ん中に、ぼうと浮かび上がる小さな山がある。
ガケ鳥の死骸だった。
翼を広げたまま倒れた巨体には首がない。頭が乗っていたはずの場所には、ただ鮮やかな切断面だけがあった。露出した肉からはだくだくと血が流れている。少し視線をずらせば、さほど遠くないところに、胴から分かたれた頭が転がっていた。だらしなく開いた嘴からは舌がこぼれている。
光を失った瞳はひとつしかなかった。もう片方の眼窩は空っぽだ。
潰れた片目は今や、ぐちゃぐちゃの粘液となってノイムの片腕にまとわりついている。
「ずいぶん派手に汚れたね」
シャティアがけらけらと笑った。まるで他人事である。
ノイムはべたべたになった腕をめいっぱい伸ばして、できるだけ体から遠ざけていた。濡れたような、泥にまみれたような感覚が不快でたまらなかった。ついでに血の匂いもひどい。
「なにか拭くものないの」
「生憎だけど」
つれない答えに、ノイムが口を尖らせたときである。
血の匂いが濃くなった。と、横合いからハンカチが差し出される。
「これを使うといい」
エクシアだ。
彼はノイムに断る間を与えなかった。ごく自然な動作で膝をつくと、真っ白いハンカチを遠慮なく使って、ノイムの腕を拭き始める。
「キザだねえ」
ふたたびシャティアが笑った。やっぱり他人事である。
「こんな幼い子を魔物の体液にまみれたままにしておくのは気が引けるからね。結局ほとんど任せきりにしてしまったし、自分の役立たずを痛感させられる」
自嘲する笑みを返したエクシアだったが、これにはノイムが首を振った。
なにを隠そう、ガケ鳥の首を刎ねたのはエクシアなのである。
エクシアの頬には返り血が散っていた。曇りひとつなかった白銀の鎧にも。
ノイムがガケ鳥を墜落させたとき、エクシアはすでに抜き身の剣を構えていた。彼は落ちた魔鳥に暴れる隙も与えず、剣のひと振りでその首を飛ばしてしまったのである。
だから、ここまでどちらかというと情けない姿ばかりを――人目も憚らずに自警団と口喧嘩をしたり、公的な治安組織にも関わらず闘技場の警備の仕事を奪われたり、問題の解決案が浮かばず通りすがりのノイムたちに助力を請うことになったり――見せられていたし、剣の腕が立つというのは大いに意外ではあったが、エクシアは決して役立たずではないのである。
どちらかといえば、ガケ鳥を町に落とすだけ落として、自分がそれを仕留める手段を持たないのをいいことに、その後の展開を考えていなかったノイムのほうが役立たずだろう。
「エクシア団長って強いんだね」
「団長代理だよ。この顔だからね、お飾りに見えたかな?」
歯に衣着せぬ物言いに、ノイムはぎょっとした。優男然とした容貌には自覚があるようだ。やぶ蛇だったかもしれない。
なんとなく決まりが悪くなって、べたついた手を丁寧に拭ってくれているエクシアから目を逸らし、周囲に視線を投げかけた。
町中にでんと居座る魔物の死骸の周りで、松明に照らされた影が動いている。
後処理に働いているのは、主にサフィート騎士団員のようだった。自警団は交通整理に回っている。どちらもおとなしくそれぞれの役に徹していた。闘技場で散々やり合って懲りたのだろう。彼らが逃げる魔物をそっちのけにして喧嘩などしなければ、ガケ鳥の一件は闘技場の内部だけで対処できていたかもしれない。
少し離れたところ、明かりと明かりの隙間には、細い人影が沈んでいた。
ガケ鳥と一緒に空中散歩をする羽目になった奴隷の少年である。所在なさげに体を揺らしている。闘技場に帰るべきかこの場に残るべきか迷っているようでもあった。
「あの子、いくつなんだろう」
見た目はまだ子供だった。シンシアと同じか少し上に見える。奴隷として劣悪な環境で育っていることを勘定に入れても、十五は越えないはずだ。あれがもし、ノイムと同じ孤児院の出身で、ノイムの想定したとおりの人物なら、年齢の計算はぴたりと合う。中身も正真正銘の子供だろう。
今さら言うまでもないが、子供の奴隷は大陸全土で違法とされている。だから本来なら、あの少年を奴隷として使っている闘技場のオーナーはしょっぴかれるべきなのだ。
誰に問うでもなく呟いたノイムの疑問に、エクシアから答えがあった。
「わたしも気になってね、先ほど尋ねてみたんだ。彼は十八だと答えたよ」
「うそだ」
「ああ、嘘だろう。発育が遅いのは幼少期の環境が悪かったからだと言っていたが、それにしても無理がある。それに、誰かに教えられた台詞をそっくりそのままなぞっているような口ぶりだったからね。あれは間違いなく、主人に言わされている」
エクシアは憂いを帯びた眼差しを少年に投げかける。彼は動かなかった。闘技場のオーナーは間違いなく黒だと確信しておきながら、口を出す気はないらしい。
否、口も手も出せないのだ。
奴隷の少年本人が、自分は十八歳だと主張している。そうなると、話はそこで終わりなのだ。外野がやいやい言ったところでなにも変わらない。彼の主人は、彼よりもよほど巧みに「自分は子供の奴隷を買ったりなどしていない」ということを主張する。証拠も掴んでいないうちから責めたてたりすれば、いつだったか、失踪した青年勇者が違法孤児院に突撃してきたときの二の舞になる。
では証拠を掴んでしまえばいいという話になるのだが――。
「ほら、これでどうだろう。すっかり綺麗にはできなかったが、気持ち悪い感触はなくなったのではないかな」
「ありがとう、エクシア団長」
「団長代理、だよ」
やれやれと肩をすくめたエクシアが立ち上がる。彼を見つめながら、ノイムは考えた。
闘技場のオーナーの摘発をエクシアに求めるのは酷だろう。そんな暇がないのは、傍から見ていても明らかだ。彼の仕事は町の治安を守ることで、自警団との折り合いを含め、多分な問題を抱えている。その上、闘技場のオーナーの罪を明らかにするとは、町の経済の大部分を担う闘技場を潰すのとほとんど同義だ。
たったひとりの少年奴隷のためにそこまでするいわれはない。
(あの子を解放したら、今度はその身の上まで世話してあげなきゃいけなくなるし――って、こんな考えかたするなんて、私もずいぶん染まっちゃったなあ……)
日本で生きていたころのノイムだったら、ここで口をつぐむことなんて絶対にしなかった。一も二もなく、手を打とうとしないエクシアに怒りを抱いていたに違いない。
女子高生から代理勇者になって四年、さらに生まれ変わって六年も経っているのだから、もはやあのころと比べること自体が間違いなのかもしれないが。
「団長サン、あたしらはもう帰っていいね?」
「だから団長代理だと……うん、あとはわたしたちに任せてくれ。面倒をかけたね。この礼はまた今度、落ち着いているときにさせてほしい」
「ふん、こんなのいつものことじゃないか。今さらお礼もなにもないだろうに」
「では、いつも面倒をかけている礼と言い換えたほうがいいかな?」
シャティアがさらに鼻で笑った。彼女はエクシアには軽く手を振るだけで済ませ、拭い清められたノイムの手を取る。
「宿の女将さんに頼んで、湯浴み……は無理かもしれないけど、体を拭く用意をしてもらおう。そのまま寝るのはいやだろ?」
「ちょっと待ってシャティア、あの子に声かけてもいい?」
ノイムは掴まれた手を引っ張り返して、奴隷の少年を振り返った。
彼を奴隷の身分から解放することはできないし、その後の少年の生活に責任が持てないうちは、あえて解放する気もないノイムだが、だからといってここで無視して帰るつもりもなかった。
そもそもガケ鳥の対処にやる気を出したのはあの少年のためだ。彼が同郷だと思えばこそ、丸腰の状態にも関わらず、ノイムはせっせと働いたのだ。
という話を聞いたシャティアは、なぜか、ノイムに同情的な顔をした。
「やめといたほうがいいと思うけどねえ」
それでも止めようとはしなかった。素直にノイムの手を放して、少年のもとに行かせてくれたのである。ぶつぶつと呟いているシャティアをうしろに置き去って、ノイムは、少年の前に立った。
「ね、あなたさ、もしかして――」
ずっと前、『闘技場に売られていった少年』が孤児院で呼ばれていた名前を口にしようとしたのだが、その一言は、ノイムの舌のに引っかかって止まってしまった。
「なに?」
死んだあとのガケ鳥によく似た目だった。奴隷の少年は、生きているのだか死んでいるのだかわからない、濁った瞳でノイムを見返してきたのだ。
ノイムはたったそれだけで怯んでしまって、彼の――彼のものと思われる名前を呼ぶことができなかった。
「ぼくになにか用なの?」
抑揚のない声だ。いたって落ち着いた様子で、ガケ鳥に吊られて悲鳴を上げていたのと同じ人間には見えなかった。恐怖体験が終わって放心しているという感じでもない。
「……怪我は、ないかと思って」
ノイムがやっとのことで台詞をしぼり出すと、少年は短く「ないよ」と言った。
それで会話は仕舞いだった。
少年はノイムに興味を失ったらしい。彼はもうノイムを見ていなかった。
ただ黙って、首のなくなったガケ鳥の死骸を眺めている。
「だから言ったろ、やめたほうがいいって」
いつの間にかシャティアが背後に立っていた。ノイムの肩を抱いて、もう行こうと促してくる。
ノイムも、今度は抵抗しなかった。
ただ、感情をどこかに忘れてきてしまったような少年奴隷の姿に、現実を突きつけられた気がした。最初の孤児院にいたころに売られていった何人もの子供の姿が、彼の濁った瞳のなかにあった。奴隷としての仕事の過酷さ、苦痛、疲労。主人になったおとなからの理不尽、無茶ぶり、横暴。そういうものがすべて、そこに詰まっていた。
違法な子供奴隷を買う人間が、まともな主人なわけがない。そうして働かされる子供奴隷たちの環境が、まともなわけがない。衣食住を確保するためにやむなく自分から奴隷の身分となり、納得ずくで主人を持った者たちとはわけが違うのだ。
(カデルは……カデルも、こんなふうになっちゃうのかな)
前世で会った寡黙な青年のカデルを思いだした。彼を無口な人間に仕立てたのは、奴隷として暮らした日々のせいだったのだろうか。
(レオとタランに会いたいな……)
彼らが無性に恋しくなった。傍にいたころはお世辞にも好きとは言えなかったのに、今ここで会ったら、歓声を上げて抱きついてしまいそうだ。トパの街に帰ったら、会えるようにお願いしてみようと思った。
ノイムとカデルが苦労して助けたふたりの今を、幸せになった彼らの姿を、この目でたしかめたかった。




