100.団長代理、現る
シャティアが目を留めたのは、闘技場の方角から真っすぐ走ってきたひとりの青年騎士だった。サルシャの町を護るサフィート騎士団の者だ。シャティアは手を挙げて、傍を駆け過ぎようとしていた白鎧を呼びとめる。
「ちょっと団長サン、どういうワケ?」
青年騎士は驚いたように足を止めた。
振り返った頬に金髪が貼りついている。ずいぶん急いでいるらしい。
細い眉が困り果てたように傾き、澄んだ碧の瞳が揺れている。整った顔を見て、ノイムは思いだした。今朝方、騎士団詰所の前で自警団の連中と言い争いをしていた騎士である。彼もまた、ノイムがこの町で知り合った人々のほとんどと同じく、シャティアの知り合いなのだろう。ごく自然にシャティアの名前を呼んで応えた。
「ああ、シャティアさん。見てのとおり、まんまと逃げられてしまった。闘技のあとに魔物が暴れてね」
「奴隷をひとりくっつけたまま取り逃がしたの? またずいぶんな手落ちじゃないか」
青年騎士はシャティアの非難がましい視線から逃げるように、ちらりと魔物の進路を確認した。いや、ここでシャティアの嫌味を聞いている暇はないと言いたかったのかもしれない。
おそらくそれをわかった上で、シャティアの口は止まらなかった。
「そんなだから自警団の荒くれどもになめられるんだよ。これだから貴族のお坊ちゃんはって」
青年騎士の薄い唇に浮いた笑みが引きつった。なにかを言おうと開いた口から、言葉ではなく、重いため息が漏れる。
「ところで団長サン、さっきから行きずりの人間ばっかり闘獣を追いかけ回してるけど、あんたの部下と、自警団の連中は? 闘技場にいたんだろ?」
シャティアの問いに、碧の瞳が泳いだ。いかにも言いにくそうである。
「今ごろ闘技場の舞台の上で、殴り合いの喧嘩をしているだろうさ」
「こんなときに?」
「こんなときに」青年騎士はシャティアの台詞を繰り返し、わずかに顎を下げた。
どうやらこういうわけらしい。
闘技で相手の戦士を散々に痛めつけたガケ鳥は、血の匂いのためか、すっかり興奮しきっていた。
闘技で猛った闘獣が暴れて、試合本番よりもよほど見ものになる大立ち回りを演じることは珍しくない。今度のガケ鳥も例に漏れず、近づく人間を手当たり次第に攻撃し始めた。
標的になったのは、ガケ鳥を退場させるために鎖をかけようとしていた奴隷たちだ。暴れる魔物に鎖をかけることは容易ではない。試みは上手くいくどころか、鎖を手にしていた三人の奴隷は木の葉のように蹴散らされ、危うくガケ鳥の餌になるところだった。
「いや、あんたら警備してたんじゃないの?」
「今夜は自警団の方々だけだったよ。昼間、ちょっと彼らと揉めてしまってね」
「闘技大会の間の警備についてだろ」
「……見ていたのかい」
青年騎士が今までで一番きまり悪そうな顔をした。
「話しても埒が明かないものだからね、『今日の闘技で問題なく仕事を果たせたら、明日からの闘技場の警護は君たちに任せよう』と……まあ、売り言葉に買い言葉というところかな」
「団長のくせに短気なんだね、あんた」
「団長代理だ。まだまだ未熟者さ。だから今回の失態は、半分はわたしのせいだ。自警団の方々に丸投げしたりせず、わたしが最初からその場にいれば、少なくとも、奴隷の彼を引きずったまま魔物を取り逃がすなんてことにはならなかっただろう」
「で、騎士団抜きで警備に当たった自警団の連中は?」
「ガケ鳥に撥ねられて、わたしが駆けつけたときには舞台に転がっていた」
無能である。サルシャの町の自警団を構成する男衆は、人間相手ならどんなごろつきにも引けを取らない力を発揮するが、魔物が相手となるとそうもいかないらしい。
「観客席にいた親切な方のおかげで、ガケ鳥につつかれていたふたりの奴隷は助けられた。ただ、残りのひとりが」
運悪くというべきか、ガケ鳥に鎖をかけることに成功してしまった。直後、ガケ鳥は首から奴隷の少年をぶら下げたまま、闘技場から飛び立ったわけである。
「闘技場から離れる前にどうにか引き留められればよかったのだが、下手に手を出すと、奴隷の少年を犠牲にしてしまいそうでね。うちの団員は奴隷のひとりやふたり気にすることはないと、いきり立ってガケ鳥に剣を差し向けたのだが」
当然のように人を見捨てようとする騎士団員に、自警団の者たちが食ってかかった。もう一度言うが自警団の者たちは、相手が人間なら、どんなごろつきでもたちまち取り押さえてしまう実力の持ち主である。
「問題の魔物をそっちのけにして、喧嘩を始めてしまったんだよ。それでわたしだけが、あの少年とガケ鳥を追って出てきたというわけだ」
「観客席にいた親切な方ってヤツはどうしたのさ。助けを求めればよかっただろ」
「生憎だが、その部分だけは、わたしが到着する前の話でね。入れ違いになってしまったらしい。わたしが部下から話を聞いたときには、もうその場にはいなかったよ」
青年騎士は、そこで視線を宙に投げた。
目抜き通りをふらふらと滑空していたガケ鳥が、進路を変えていた。嘴の先は西を指している。首から下げた鎖には、相変わらず奴隷の少年がすがりついていた。魔物が建物群の上を跳ぶとなると、彼の身はかなりの危険にさらされる。
柳眉をひそめた青年騎士が、夕陽にきらめく金髪をかき回した。綺麗にまとめられていたハーフアップがくしゃくしゃになる。
「……しかし困ったな。こうして追いかけてきたはいいが、どうすればいいのか、わたしにはまったく見当がつかないんだ」
下から飛び道具でガケ鳥を狙うと、狙いが外れて奴隷の少年に当たる危険性がある。よしんば成功してガケ鳥を撃ち落としたところで、落下死ないし、魔物の巨体の下敷きになって圧死することは免れない。よくても重傷だろう。
「先にあの少年を助けられればいいのだが」
ぐずぐずしているとガケ鳥ははるか遠くに飛び去っておしまいだ。そうなってしまうと助ける助けない以前の問題である。可能性がある今のうちに、たとえどれほど危険度が高かろうと、行動を起こしたほうがよいことは間違いない。
「首から下がってる鎖って、簡単に外せるの?」
それまで黙って話を聞いていたノイムは、ここでようやく口を挟んだ。
青年騎士の視線が下りてきてノイムを捉える。
その碧い目はまるで、今はじめてノイムの存在を認識したかのように見開かれた。実際、気づいていなかったのだろう。彼は絶えず魔物に意識を向けていたし、会話の相手はそれなりに身長のあるシャティアだった。ノイムは特にちびだから、視界に入っていなかった……と自分で言うのはいささか不満だが、事実、そうなのだから仕方ない。
青年騎士の顔に一瞬、この子供は何者かと問う色が浮かんだが、彼は無駄口を叩かなかった。
そういう性質なのか、あるいはノイムの目のなかに理性の光かなにかを見たのか、それはわからないが、速やかに回答を寄越してくれた。
「口の狭いフックになっている。首輪に取りつけられた金属の輪が、ギリギリ通るくらいの隙間が空いているんだ。自然に外れることはないが、取り外しに特別時間がかかるような造りでもない。慣れれば簡単のようだよ。それがどうかしたのかい」
「誰かに下で待っててもらって、あの子を受けとめてもらう。鎖を外すタイミングをきちんと見計らえば、無傷で助けられるんじゃないかと思って」
ねえシャティア、とノイムは手を引いた。
「シャティアがちょっと手伝ってくれたら、私なら、たぶんあの高さまで跳べるよ」
「いやにやる気じゃないか。あんまり危ないことさせたくないんだけどなぁ」
「今さらでしょ」
ノイムの脇腹には熊に引き裂かれた爪の跡がきっちり三本残っている。下手をすれば死んでいた傷だ。これに比べれば、ちょっと宙を舞って空飛ぶ魔物に取りつくことなど、ものの数にも入らない。運が悪くても地面に落っこちるだけだし、そこで受け身を取り損ねるようなへまは、ノイムにはあり得なかった。
なにしろ前世では、代理勇者として数々の修羅場を潜り抜けてきている。
シャティアは乱暴な手つきでノイムの頭を撫でると、青年騎士に向き直った。
「そういうわけだから、あの奴隷についてはあたしたちがなんとかするよ。得物がないから、そのあとはあんたたちに丸投げすることになるけど」
「いや、十分ありがたいよ。ありがたいのだが……大丈夫なのか? その、このお嬢さんが魔物のところまで行って、奴隷の少年と魔物を繋いでいる鎖を外すという話のように聞こえたが」
青年騎士が改めてノイムを見下ろす。本当に解決できるのかという不安、というよりも、幼子を案じる顔だった。
ノイムは彼の心配を真正面から受け止めて、胸を張ってみせた。
「その解釈で合ってるよ、団長さん。私はノイム」
「団長代理だよ。エクシア・サフィートだ。君はシャティアさんの妹さんかな?」
「違う。川で拾われたよその子」
ふたたび青年騎士――エクシアの顔いっぱいに疑問が浮かびあがる。しかしそれを問う暇はないと承知しているからだろう、エクシアはそれ以上の質問を控えた。代わりに、膝をついてノイムと目線を合わせてくる。丁寧な青年である。
「君は、こういう場には慣れているのかな。もし君が勇気ひとつだけで、我々の力になると申し出てくれているのなら、気持ちだけ受け取りたい。君のような小さな子に、大怪我を負わせるわけにはいかないからね」
「勇気があるかはわからないけど、野生の熊をひとりで倒すくらいには戦えるよ」
ノイムの明瞭な返答に、思わずといった様子で、エクシアは顔を持ち上げた。シャティアに真偽のほどを問うたのである。シャティアは実に心強いフォローを入れてくれた。
「ただの熊じゃなくて、魔力酔いを起こして狂暴になった熊ね」
シャティアはさらになにかを言いかけて口を閉ざした。おそらく、「おまけに勇者の剣を抜いた次代勇者だ」とでも舌を滑らせかけたのだろう。黙ってくれて幸いである。
ともかく、彼女がはっきりと頷きを返したので、エクシアの顔からは迷いが消えた。シャティアの言葉には、それだけ信用が置けるのだろう。すかさず立ち上がった彼は、ノイムに片手を差し出した。
「ひと回り以上も年下の君にお願いするのは、やはり、心苦しいが……シャティアさんがこうも言い切るのなら大丈夫そうだ。よろしく頼んでいいかな」
「大船に乗った気でいていいよ」
一も二もなくその手を取ったノイムである。
エクシアが現れてから、ガケ鳥にぶら下がった奴隷の少年が気になって、ずっとうずうずしていたのだ。首尾よく助かった暁には、是非とも聞いてみたかった。
顔だけは柔和な院長が経営し、アリサという女がひとり雇われていた、辺境の孤児院に覚えはないか、と。




