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「あなた達は、これから沢山のものを失っていきます。人によっては、得るものより多い人もいるでしょう。そんな悲しみや絶望の中でも、あなた達に必要なものは必ずすべて揃っています。目の前の人達、自分の周りにある環境、ものがあなたの人生を豊かにしていきます。どんな時も。失うということはありません。目の前に広がるすべてが、あなた達のすべてです。すべてを愛してください」
高校の卒業式の時、担任の中年の女教師がそう言っていた。名前も覚えていない。
適当なこと言うなぁ。と、ぼんやり窓の外を見ながら思っていた。春間近の肌寒いけど、温かな日差しが差し込む教室で、私は1人だった。
30人近くいるクラスの中で、1人、窓の外を見ていた。
その言葉が本当なら、私に見向きもしないこの30人とそんな私に救いの手すら差し伸べなかったあんたと、夫を失くして酒に溺れる母が私のすべてじゃないか。
そんなもの誰が愛せるんだよ。これが私に必要なものなのかよ。
こんなちっぽけで惨めな世界が。
父親を失って、豊かさもなくなった私の世界に向かって、あんたは毒を吐いたんだよ、担任。
高校の3年間、授業以外は寝ているか、寝たフリをして誰とも喋らずに過ごしていた。授業中もだるくて寝ていたっけ。よく覚えていない。
入学当初と毎年のクラス替えの時に、うざったい好奇心で話しかけてくるクラスメイトを全員無視していると、次第に誰も私に興味を抱かなくなった。
人間不信で塞ぎ込んでしまった理由は今思うと幼く恥ずかしい、中学時代の失恋で、この人と一生生きていけると思い込んでいた恋人との別れだった。
ただ私を捨てて私の友人と付き合ったそのくだらない男に、私の幼い精神はぐちゃぐちゃにされて、そのせいで人の笑顔も優しさもすべて嘘で偽善にしか思えなくて、不信感とうざったらしさしか、私には与えなかった。
あんなに毎日、楽しそうに私と笑っていたのに。
2年の時、まったく喋らない私に嫌気がさしていたのか、クラスの女子が話しかけてきた。名前は知らない。
「外宮さんって、なんでそんなにいつもやる気ないの?」
私は何も言葉を返さず、黙ってコンビニで買ったクリームパンを食べていた。
「いっつもだらだら寝てるの見てると、ムカついてくるんだけど、なんでそんななの?」
私は黙ったまま、噛んでいたクリームパンを飲み込んだ。
何かを変えたかったわけでもない。ただ、ほんの少し理解してもらいたい気持ちもあったかもしれない。いや、絶望の人間不信の世界から、一歩でも抜け出したかったのだと思う。
私はぼそりと、塞ぎ込んでいる理由をそのクラスメイトに話した。
「中学の時の彼氏がさ、私の友達と付き合って、それから人間不信で、人と話せない」
端的に話すと、クラスメイトは同情か優しさを見せてくれると期待した私を裏切り、苛立った口調で私を怒鳴った。
「くっだらない、そんなの。私はさ、恋人交通事故で失くしたけど、あんたみたいに毎日塞ぎ込んだり、悲しんで可哀想な自分になったり絶対しない。そんなの絶対彼氏は望まないし、そんな自分になりたくないし。彼氏に裏切られた程度でさ、私より絶望感出して生きてるあんた見てるとすっごいムカつくの。死んでくれない?マジで!」
クラスメイトは怒鳴って踵を返して自分の席に戻り、苛立ちを隠さず、ガタンと音をたてて椅子に座った。
私は不意をつかれて泣き出しそうになるのをこらえながら、コーヒー牛乳を口に運んだ。
知るかよ、そんなこと。私は私の悲しみでいっぱいなんだよ。お前の悲しみと私の絶望のどっちが辛いかなんかわかんないだろ!
心で怒鳴って。言葉にはできなかった。
クラスの空気がその女を味方しているように感じたから。
高3もその女は私と同じクラスで、新しく私を知ったクラスメイトに私のトラウマを恨んでいるかのような口調で話して、私が絶望に沈んでいるのをさも、くだらないと言った感じでいいふらし、クラスメイトが私に近づかないように、裏で手をまわしていた。
そんなに1人がいいなら、1人にしてやるよ。という風に。
日直も、みんなは2人組なのに。私だけいつも1人だった。担任まで、その女は取り込んでいた。
外宮さんと日直したい人、このクラスにはいません。
私は担任すら無視していたから、担任も匙を投げて、彼女の言う通りにした。
全部私が悪いんだけれど、大人なら、担任なら、どこまでも生徒には平等であれよクソが。と心で悪態を吐くだけで、私は何も言わなかった。
絶望は高3の時にはとうに過ぎて、無気力しか残っていなかった。
私の高校生活はそうして、友達0でほぼ無言のまま終わった。
目の前の人達や環境やらが、私を豊かにしたか?
最後に担任に言ってやりたかったが、教室を出る時に睨むだけにしておいた。
睨まれた担任は気まずそうに視線を外して、私を陥れたクラスの女と楽しげに話しはじめたので、私は無言のまま教室を去った。
高校卒業後は製本会社に就職したけど、単調作業が退屈なのと相変わらず人を無視し続けるので人間関係をこじらせて、3ヶ月ですぐにやめた。
母親は相変わらず酒に溺れていて、父親の生命保険をすり減らして生活していた。
家は毎日暗く冷たかったが、私は父親がいないことには安堵していた。
高校時代、体つきの変わった私に偶然か意図的かわからない絶妙さで触れてきて、そしらぬ顔をして、私をイラつかせていたから、いなくなってせいせいしている。
母親が友人と旅行に行った夜に、階段の前で私の腕を掴んできた時はマジでゾッとした。
「触んなよ!」
嫌悪と怒りを込めて怒鳴って、手を振り払うと、父親は悲しげな目を浮かべていた。
父親の死後、そのことを母親に話すと、母親はそんなことあるわけないと、私の被害妄想だと言って私を精神科に連れて行こうとしたが、私は拒んで、結局行かず。
そして母親は最近になって、父親がやはり私に色目を使っていたことには気づいていたと私に打ち明けた。
知ってて私と2人っきりにしたのかよ!と怒鳴りたかったが、私は言葉を殺した。
夫の尊厳を守りたかったのと、私をこれ以上追い詰めて自殺でもされたらと思うと、嘘をつくしかなかったと、泣いて謝られたので、私は納得は出来なかったけれど、その場は母親を許した。
父親への嫌悪は今も消えてはいない。
ただ、父親の悲しさげなあの目は、私に拒まれたことではなく、私を心底心配していた目であると何となくわかってはいる。
男の性欲と、娘を想う優しさの狭間で、父親なり苦しんでいたのだろう。クズでクソで死に値するゴミ野郎であることには変わりはないけれど。
無気力のまま、何もせずに生きて、ふらふらと街を出歩いては、特に何もなく過ごしていた。
それでも、何かしなければという焦燥感はあって、youtubuで見た路上でカラオケを歌うパフォーマーに触発されて、自分もやってみることにした。
歌うのは好きで、小さい頃から母親にもよく褒められていたので、少し自信はあった。
けれど、いざやってみると、無慈悲なほど人は立ち止まらない。
当たり前の話で、素人女がしかもカラオケを歌っている姿を見て、誰が聞こうと思うか。
2.3度やって、もうやめようかと思った時だった。
歌い終わって俯いていると、コツコツとヒールの音がして、目の前で止まった。
顔を上げると、ピンク色の髪を肩まで伸ばした20代半ばの女性が私を見ていた。
「あんた、歌手目指してんの?」
関西弁のイントネーションで、女性は言った。
「いえ別に、そんな気は」
面倒そうだったので、適当に答えて片付けをしようとした。
「えー、しょうもな。そんなんでなんで人前で歌うの?歌手目指しーよ」
「歌手とか別に。私はただ、歌いたいだけだから」
「へー。ほんでなんでカラオケなん?ギターとか弾かれへんの?」
「youtubuで同じことしてるパフォーマー見て真似しただけで、音楽やってたわけじゃないから」
「そうなん。まぁ行動力はあるんやな」
女性はそう言うと、何かを考え込むように、腕を組んで黙った。
私は片付けを続けて、スピーカーをキャリーカートに乗せた。
「なぁ、あんたこれから暇?」
女性に聞かれて、私は特に何も考えずに、
「まぁ暇ですけど」
と答えた。この瞬間に運命はあらぬ方向にいってしまった。
「ほんならついといで。歌うたえる場所、連れてったるわ」
女性はそう言い、コツコツとヒールを鳴らして歩きはじめた。
私は断りきれぬまま、どうにでもなれと、女性の後をついて歩いた。
路地を入った古いビルの突き当たりの部屋に、女性は私を連れて行った。
ドアにはプレートがあり、カラオケBAR Amiと記されていた。
「ほら、入っといで」
ドアを開けて女性に手招きされたので、私はキャリーを引いて入った。その瞬間だった。
「ほら、歌上手いわかいねーちゃん、連れてきたったでぇー!!」
女性が突然、大声で陽気に声をあげた。
私がビクリとしながら、店内に入ると、数人の男女が女性と私を見た。
「ほんまかぁー?愛海さん前もそう言うて、しょーもない男連れてきたやろ、ニートの」
「あれはええねん、もうほっといて。今度の子はホンマもんやから」
女性は言うと、軽い足取りで、カウンターに行き、カラオケのリモコンを手に取ると、私の方を向いた。
「な!何歌う?さっき歌ってた、マリーゴールド?」
「ええ?」
私が戸惑っているのも気にせず、愛海と呼ばれているその女性は、リモコンを操作して、マリーゴールドを選曲した。
「いきなりですか?」
私が言うと、愛海さんは眉を寄せた。
「人生にいきなりなんて言葉はないねん。チャンスは掴める時にしかけぇへんのよ!」
これはチャンスなの??私が戸惑ったままでいるとスピーカーからイントロが流れ出した。
「ほな聴いたってー!あ、名前なんやったっけ?」
「外宮澪です、、、」
「はーい、じゃあ澪ちゃんでマリーゴールド!めっちゃうまいからなー!」
恥ずかしくて消えそうになりながら、私は歌い始めた。
店内が静まり返る。
地獄だった。