第九十話 沈黙のそよ風【前】
時は流れ、二本足で歩くのもおぼつかなかった霍十兄弟の末弟も、元気に駆け回るようになった。
「あにうえ! 皇あにうえ! おひるです!」
一直線にこちらへ向かう足音をふり返れば、ぽふり、と幼子が黒皇に抱きついてきた。
人の子でいえば、まだ五歳ほどだ。
黒皇はすらりとした長身をかがめるように、片ひざをつき、おのれの腰ほどの背丈しかない弟と目線を合わせる。
「そうだね。金王母さまに昼餉をお持ちする時間だ」
「いきましょう、いきましょう! 慧はちゃんと、おてつだいできます!」
「じゃあ、いっしょに行こうか」
「あー! 皇兄上がまた小慧を甘やかしてるー!」
これみよがしに張り上げられた声の主は、残る八人のうち、だれなのか。
黒皇にとって、弟の声を聞き分けることなど、造作もないことだった。
「いいところに来たね。ちょうど黒嵐にもお願いしようと思っていたよ」
「まーた上手いこと言うんだから。はいはい、そう言うと思ってご用意しときましたよ、お食事!」
「さすが私の弟だ」
七番目の弟、黒嵐。黒慧がうまれるまでは片割れの黒雲ともども末っ子として可愛がられていた。
そのため黒慧にかまいすぎると、拗ねてしまう。黒皇が『ごめんね』の意味を込めて名前を呼べば、黒嵐も一変して、後ろ手に提げていた手籠を笑顔でかかげてみせた。
なかには、みずみずしい果物が詰まっている。
「嵐あにうえ、慧がもちます!」
「ばか言うなちび! 重いんだぞこれ!」
「もてますぅ~!」
「あーわかったわかった! それじゃ半分こな。ほら、果物籠さんとおててつなぎな?」
「はいっ!」
黄金の瞳を潤ませる黒慧に、黒嵐も根負けして、ふたつある持ち手の片方を明けわたす。
結局のところ、黒嵐も弟に弱いのだ。
籠を落として果物をぶちまけてしまうより、黒慧が転んで膝小僧を擦りむいたときのほうが、発狂するような子だから。
「んぅ……」
そうこうしていると、なぜか首をかしげている黒慧が、黒皇の目に入る。黒慧はちいさな左の手のひらを、にぎったりひらいたりしている。
「こっちの手があまってしまったね。私とつなごうか」
「ほんとうですか!」
右手で果物籠、左手で黒皇と『おててをつないだ』黒慧は、ご機嫌だった。
「あーにーうーえー?」
「あとで、黒嵐もつないであげるよ」
「いや、べつにいいですし! おれもそこまでこどもじゃないですしっ!」
「さっさと行きましょう!」と顔をそむけた黒嵐には悪いが、黒皇は思わず笑みがもれてしまう。
(忘れずに、頭をなでてあげないと)
素直でない弟になんと言われようと、それだけは胸に誓った黒皇だった。




