第七十話 春を知る燕【前】
「梅雪ちゃんに、お礼を言わなくちゃいけないわ。ありがとう」
瓏池のほとりにて。
早梅が座るとなりに腰をおろし、たおやかな老婦人は開口一番にほほ笑んだ。
「私に? なぜでしょうか?」
「素敵な琵琶を聴かせてもらいましたから。黒皇は毎日そばで聴いていたのね、嫉妬しちゃう」
「ほめ言葉としてお受けいたします」
「んま! 言うようになったじゃない」
突然向けられた矛先に、黒皇はいつものごとく、淡々と返答する。おそらく言葉どおりの意味で、含みはないだろう。
静燕もまた、鉄壁の真顔を受け、くすくすと笑みをもらした。
この八咫烏は、胸に抱いた少女へ向き直るたび、春の陽だまりのような微笑を浮かべている自覚がないのだろうと。
(これは、なんの罰だろうか……)
黒皇に抱きしめられるならば大歓迎の早梅ではあったが、このときばかりは羞恥に身を縮める。
静燕を前にしてなお、黒皇はひざに乗せた早梅を後ろから抱擁し、離そうとしないのだ。
早梅の腹のあたりで巻きついた腕の力は苦しくはなく、かといって簡単にほどけるものでもない。
黒皇はこのところ、「おからだを冷やしてはいけません」と、鸚鵡のごとくくり返す。
そういうことではないのだが、静燕のほほ笑ましげな瑠璃のまなざしに気づき、早梅はかぁっとからだの芯から火照る。
ある意味、黒皇の思惑どおりだ。
(青風真君もそうだ、なぜ彼らは、私によくしてくれるのだろうか?)
黒皇が連れてきたから?
それだけの理由で、人の子でしかない早梅に、仙人のなかでも高い地位を築く晴風と静燕がこうも歩み寄ってくれるものとは、どうも思えない。
「あなたの琵琶を聴いていたら、なんだか、むかしを思い出しちゃって」
ふいの静寂。墜ちることのない陽光に水面が煌めき、からころと、宝玉のこすれ合う音がひびく。
遠い彼方へ想いをはせる静燕の横顔を、早梅はそっと見やる。
「『白雪小哥妹』……雪山に住むちいさな兄妹が成長し、すれ違いながらも、真実の愛を見つける物語を描いた曲です」
「その兄妹の名前は、『晴風』と『静燕』というのかしら?」
「……はい」
いつの間にか、静燕の瑠璃のまなざしは、早梅へ向けられている。
「梅雪ちゃん、あなたが考えていることは正しいわ。私と風はね、実の兄妹よ」
静燕はすべてを見透かしていた。その上で、決定的な言葉をつむぐのだ。
「それは真実の愛の物語。そしておとぎ話などではなく、本当の物語でもあるわ」




