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第六十四話 おひさまとえがお【前】

 (あか)(あお)()。三色の葉の並ぶ枝が、かりかりと軟土(やわつち)を引っかいている。


「『陰陽和合(おんみょうわごう)』ってのがある」


 枝を片手に腰をかがめた晴風(チンフォン)が、後退しながら、しかし淀みない足どりで、地面に紋様を描く。

 ちいさな民家一軒なら余裕で囲えてしまう正円が、均一な太さで刻まれた。


(いん)は女、(よう)は男を指す。つまりは、男女がまぐわうってことだ」


 晴風は続けて正円に十文字を描き、北にあたる方角へ『(ズー)』と記す。

 そこから時計回りに、『(チョウ)』『(イン)』『(マオ)』『(チェン)』『(スー)』『(ウー)』『(ウェイ)』『(シェン)』『(ヨウ)』『(シュ)』『(ハイ)』の文字を書きつらねてゆく。


「けどなぁ、仙道(せんどう)でいう『陰陽和合』は『気交法(きこうほう)』とも呼ばれて、気の交換によって男女がたがいを補い、内功(ないこう)を高めるもんだ」


 正円の内側へさらに細かな文字を刻みながら、晴風は説く。


 男不寛衣(男は衣をゆるめず)

 女不解帯(女は帯をとかず)

 敬如神明(神明のごとく敬い)

 愛如父母(父母のごとく愛せ)


淫念(いんねん)をもたず、厳粛実直に相手と向かい合わねばならない。それに、真っ向から逆らってくるなんてな。とても正気の沙汰とは思えねぇ」


黒皇ヘイファン」と、晴風は瑠璃の瞳で目配せをする。

 ひとつうなずいた黒皇は、胸に抱いた早梅(はやめ)を、北と南をむすぶ子午線上へ静かに寝かせた。


「これは交換じゃねぇ。搾取だ。お嬢ちゃんは一方的に気を奪いとられ、その代わりに精を注がれた。ったく……じかに肌を合わさなくたって、無理やり女の子を孕ませるなんざ、鬼畜の所業だぜ」


 吐き捨てるように言い放った晴風は、黒皇が円の外へ出たのを見届けると、両手を打ち鳴らし、足もとの陣を引っぱたく。


急急如律令きゅうきゅうにょりつりょう──おととい来やがれ、(クズ)野郎」


 霊力をおびた晴風の言の葉が、ひびきわたる。


 閃光が走り、風が巻き起こって、地面の文字がからみ合いながら宙へ浮かび上がった。

 それは光の虎となり、勇猛な咆哮を上げて、天から駆け下りる。

 虎はするどい牙と爪で、早梅のからだを雁字搦(がんじがら)めにしていた黒い鎖を食いちぎり、引き裂く。


 柔肌には傷ひとつつけないまま、虎は瘴気(しょうき)のみを蹴散らしたのち、まばゆい粒子となって、早梅の胸へ溶け消えた。


「これでよしっと。瘴気滅却の陣法(じんぽう)だ。悪い虫も迂闊(うかつ)にゃあ近づけなくなんだろ」

「ありがとうございます、青風真君(せいふうしんくん)。なんとお礼を申し上げればよいか……」

「細けぇことはいいんだよ。俺は、平和をこよなく愛してるだけだかんな」


 手のひらから土を払い落とした晴風は、にっと白い歯をのぞかせて立ち上がる。

 それから黒皇が抱き起こした早梅のもとへやってくると、ひざを曲げて目じりを下げた。


梅雪(メイシェ)ちゃんっていったな。まだ若いのに、不憫になぁ……」


 家族や、想い人。

 面妖(めんよう)な呪術によって、かけがえのない人たちを手にかけた男に、無垢な肢体を犯されたのだという。


 もとより多弁ではない黒皇は、やはり多くを語らなかった。

 だが、それだけでも晴風が察して余りある過酷な運命を、こんなに細い少女が背負っている。


 先ほど口にしたように相手の男は屑だと思うし、私欲のために純粋な乙女心を平気で踏みにじる心情を晴風は理解できない。したいとも思わない。


(つっても、俺は厄介払いをしただけで、肝心なことは解決してねぇからなぁ)


 晴風はあごに手を添え、しばし思案する。

 晴風にできることも、ほぼ決まっていたのだが。


「ちょっと『ばあちゃん』に話をつけてくる」


 そのときはじめて、黒皇の黄金の隻眼(せきがん)が見ひらかれる。

 晴風がなにを考えているのか、黒皇は悟ったようだった。


「青風真君、ですが……」

「乗りかかった船だ。勝手に乗り込んだのは俺だけどな」


 ちいさなからだ全体を使って辞儀をする律儀な烏は、上背のある人の姿になっても、腰を直角に折ろうとするだろう。

 晴風は先手を打って、ああだこうだは聞かないことにした。


「おまえは梅雪ちゃんのお世話でもしてろ。食いもんが必要なら、俺の果樹園から好きなだけもってけ。とにかくその()を独りにするなよ、いいな? はいっ、解散!」


「さっさと行った行った」と追い払う手つきにしては、その表情も声音も、やさしすぎる。

 晴風は、まさに晴れた日の風のごとく(さや)かな人物だ。幾度となく感じたことが、黒皇の脳裏によみがえる。


 軽快に駆けてゆく晴風の後ろ姿が見えなくなっても、早梅を抱いた黒皇は深々と頭を垂れたまま、しばらくの時をたたずんでいた。

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