第四十四話 紫紅繚乱【前】
胸がゴロゴロする、と紫月が感じたときには、咽頭からせり上がった鮮紅色の液体を地面にまき散らしていた。
(……肺まで、やられたか……)
折れた肋骨が突き刺さったのだ。
紫月の腹部の臓物はひしゃげ、体内の血液供給もままならない。
吐血と喀血をくり返す紫月のからだは、もう限界に達していた。
鮮やかな紅と、変色した紫の血だまりのなか、紫月はか細い呼吸を続ける。
常人であれば、二本足で立つことすら叶わないだろう。
まぁ常人でなくとも、この出血量ならば、どのみち助からないが。
「くくっ……ふはっ」
「こいつ……」
突如わらい始める紫月。幾度となく斬り結んだ黒装束の男は、その異様な光景に薄ら寒さをおぼえる。
「死に際にイカれやがったか」
がしかし、残る四人の仲間のひとりが、苛立ちをあらわに大股で踏み出すではないか。
「おい、やめろ!」
男の制止の甲斐もなく、どん、と蹴り飛ばされた紫月の華奢な体躯が、後方へかしぐ。
はだけた紫月の藤色の襦裙から、ひらりとなにかがこぼれ出た。
折りたたんでだいじに胸もとへしまわれていた料紙の束。琵琶の譜面だ。
結ばれていた朱の刺繍糸が切れ、ひらり、はらりと、譜面が夜風に舞い上げられる。
顔に飛んできたそれを鬱陶しげに払った男は、ふと違和感をおぼえ、右手を見た。
するとなぜだろう、指と関節が、ずれていた。
「はっ……?」
男の錯覚などではなかった。手指が関節ごとに細断されていたのだ。
それからピ……と赤い線が入り、男の手首、ひじ、肩、足首、ひざ、腿がこま切れになる。
「ひッ! ぎゃあああッ!!」
全身から噴き上がる鮮血に、絶叫する男。
紫月の繊細な両手の指には、重厚な鋼の爪がはめられている。
紫月の左右の細腕が地面に振り下ろされ、叩きつけられた鋼弦が鞭のごとくしなる。
血まみれの男の胴、そして首が、刹那に消し飛んだ。
「そら、ふれれば切れるぞ、ぐちゃぐちゃに死にさらせ! ほらほらほらッ!!」
「みな退けっ! 下がるんだ!」
いまさら気づいたとて、遅い。
「一緒に地獄へ堕ちようじゃないか! ハハッ、アハハハハッ!」
ひとり、またひとりと、黒装束の男たちが極彩色の鋼弦に切り刻まれる。
「まさに修羅のごとき、か。化け物め。埒が明かんな」
人がばらばらに刻まれゆく惨状を目の当たりしながら、緋眼の男は命からがら退避した黒装束の男を見やった。
「なにをしている」
「し、しかし、師弟たちが、また……!」
「くだらん。役目を果たせ」
役立たずは不要。言外の意図を察した男に、選択肢などなかった。
「御意……っ!」
張り巡らされる鋼弦から逃れるように、男は身をひるがえして闇へ飛び込む。
これで残るは、緋眼の男のみ。
最大の敵と対峙しながら、なおも紫月はわらっていた。
「追わないのか」
「あんな鼠が一匹消えたところで、なにが変わるって?」
これは虚勢ではない。確信だ。
あの子たちが、あんな下衆に負けるはずがないと。
だから紫月は、背を向けることをしない。
希望をうしなわない藍玉の双眸で、緋眼へ食らいつくのだ。
(……裏切られたと、思い込んでいた)
だが真実は違った。兄は妹を愛し、妹も兄を愛するがゆえに、うそをついた。
──あの曲には、続きがあるんです。
──あまりの難度に演奏できる弾き手がおらず、いつしか忘れ去られてしまったようですが。
(いいや、恋文の内容を忘れるやつなんていない。そうだろ? 梅雪)
なにものよりも代えがたい兄妹の絆を描いたこの曲は、自分たちそのものだ。
(忘れない。忘れさせない)
一目見た譜面は、なにひとつ違わずおぼえている。
このこころに、焼きついている。
(これで、最後だ)
紫月の足もとから舞い上がった紫と紅の血が、絡まり合い、左の義甲からぴんと伸びた鋼弦をまたたく間に極彩色へ染め上げた。
「冥土の土産に、一曲贈りましょう」
三日月を描いた真っ赤な唇で、紫月はわらう。
「──『千紫万紅・白雪小哥妹』」




