第二十三話 月夜に咲く梅花【後】
「こ、のォ……小娘ェッ!!」
咆哮を上げる男。すぐさま小刀をかまえ直すハヤメだったが。
「梅姐姐に、さわるなぁっ!」
憂炎が叫びを上げた直後、こまかな血しぶきが散った。
毛の逆立った月白の耳と尾。
柘榴色の瞳はギラギラと輝き、鋭利な爪が男の胸を引き裂く。
「憂炎!」
半獣の姿をした憂炎が、割り込んできたのだ。
「こんなところに狼族だと!? くそっ!」
傷自体は皮一枚を裂いた軽傷だったろうが、憂炎の参戦は男をあきらかに怯ませた。
それもそのはず。一度でも噛まれたら終わり。それが狼族なのだから。
男は右腕をおさえ、きびすを返す。
「あーらお兄さん、まだお楽しみの途中なのに、どこへ行くの?」
そこで、どこからともなく、猫なで声がひびいた。
反射的に頭上をあおぎ、ハヤメは苦笑した。
月明かりを背に、笠をまぶかにかぶった人影がある。顔を覆う白い妙の布を夜風に遊ばせていたその人物が、絹の沓で屋根瓦を蹴り、男の行く手を阻むように、危うげなく降り立った。
と同時に笠が宙を舞い、藤色の袖と錫色の長髪がたなびいた。
「俺の妹は高いぞ。命で払ってもらおうか」
細長く瞳孔の突き抜けた藍玉の双眸が、月光を反射する。
「早梅雪の兄……!」
何事かを言い募ろうとした男だが、突如硬直する。
「だれがしゃべっていいと言った?」
その喉笛に、白銀の刃が食らいついていたためだ。
「──地獄の果てに去ね」
氷よりも冷たく吐き捨てた紫月が、男の喉笛に当てた刃を、躊躇なくすべらせる。
ふき上がる鮮血。崩れ落ちた男は、おのれの血の海に沈んだ。
「……紫月兄さま」
虚空を一閃し、血糊を払った紫月は、白銀の双手剣を鞘におさめ、すっと細めた藍玉のまなざしをハヤメへ寄越す。
「傷が回復すれば、また追ってきただろうよ。おのれを脅かす者に、情けをかけるな」
「……おっしゃるとおりでございます」
そうしなければ、いまごろ地に伏していたのはハヤメだったかもしれない。
命と命の奪い合いなのだ。
紫月に意見できるほど、ハヤメは経験があるわけでもない。
水を打ったような静寂に、ひとつ、紫月の嘆息がこぼれた。
「悪い、遅くなった」
やわらいだ声音の意味することを理解しないうちに、藤色の袖にからだを包み込まれる。
ハヤメは、紫月に抱きしめられていた。
「からだは? 寒くないか」
「平気、です」
「そうか」
初対面であれだけ皮肉を言い合ったのに、いざ再会すると、ハヤメはどうしていいのかわからなくなった。
紫月のあからさまにやさしくなった声だとか。
くすぐるようにほほへふれてくる唇だとか。
愛しいと言わんばかりに、あまく閉じ込めてくる腕だとか。
ぜんぶぜんぶ、そのせいだと思う。
「っ……ごまかさないでください、紫月兄さま!」
たまらず紫月の胸を押し返した時点で、敗北宣言もおなじだったろう。
その証拠に、やたら艶のある紫月の唇が、三日月を描いている。
「妹が反抗期だ。兄さんはかなしいよ」
「もう……!」
「ふくれるな。可愛いやつめ」
末期だな、とハヤメは頭をかかえる。
いくら早家が医学の心得がある一族だといっても、紫月の深刻な病状を治す薬は作れないだろう。
「梅姐姐がいやがってるだろ! はなしてよ!」
「はん、勝手に言ってろ、小僧」
そしてやはりというか、憂炎にこの言いざま。
その辺の美女より美女な顔立ちをしておいて、なんともお口の悪い暴君お兄さまである。
(たしか梅雪のみっつ年上だったはず……とすると、十八か、十九)
おとなげない……ハヤメはさらに頭をかかえた。
「おまえのために奔走したんだ。口づけのひとつやふたつご褒美があってもいいところだが。まぁそれは、あとのお楽しみだな」
口づけすることは決定事項なんだろうか。
ジト目を寄越した妹に、しかし兄は動じない。
「追っ手がせまっている」
にわかに、紫月を取り巻く空気が引きしまる。
「一族を襲った者と、同一犯ですか?」
「おそらくな。この男もその一味だろう」
「明林は……」
「百杜からどこへ行くにも、深谷の街は必ず通る。脅されていたのさ。おまえを見つけて、足止めをするように」
──明林は、御尊父ならびに御母堂をはじめとした早家のみなさま方を手にかけた者どもに、与しております。
黒皇に知らされた事実と、相違はない。
「この街一番の料理屋は、まずいお茶を出すって言ったわよね、梅梅?」
「……紫月兄さまは、はやくから明林に目をつけていたんですね」
ハヤメはちらりと、事切れた男を見やる。
思い出されるのは、先ほどまでの会話だ。
「この男……言葉に訛りがありませんでした」
「へぇ?」
片眉を上げる紫月。
ハヤメの言わんとすることを、理解したのだろう。
武功の門派は数あれど、その多くは険しい山岳地帯など、修行に適した地方に存在する。名のある門派ともなれば、なおさら。
ゆえにのちの皇子は、修行のために都を出るのだ。
それはつまり、言葉に訛りのない武功の使い手は「都出身だ」と、みずから宣伝し歩いているようなもの。
「……皇室の関係者でしょうか」
「さぁな。ま、黒い斑のまじった灰色ってところか。俺たちは、ともすれば国ひとつ吹き飛ばす火薬を隠し持っているようなものだ。目障りに思われていても、なんら不思議じゃない」
そうだ、種を根絶させる勢いで狼族を迫害する民衆を看過しているのも、『灼毒』という爆薬を持っているから。
それに準ずる『氷毒』も、皇室にとって目障りなもの。
つまり宣戦布告をしたわけでもないのに、ハヤメたちは、反乱予備軍として排除対象となってしまった。
そう仮定すれば、すべてのつじつまがあうのだ。
「真実の追及は後回しだ。行くぞ。いまはおまえが最優先だ、梅雪」
すると、華奢な腕からは想像もつかない力で、膝裏から紫月に抱き上げられる。
「黒皇!」
「はい、紫月さま」
紫月が声を張り上げて間もないうちに、建物の影から颯爽と黒皇が姿を現す。
明林と格闘していたが、怪我はないようだ。
「先に行け。なにかあれば知らせろ」
「かしこまりまして」
言葉少なに答えた漆黒の烏が、風を巻き起こして夜闇の彼方へ消える。
この間も依然として、ハヤメは紫月に抱かれたままだ。
「紫月兄さま、私、歩けますが」
「いい子にしていろ。舌を噛むぞ」
なんだろうかそれは。
いまから『なに』をするつもりなんだろうか。
「俺たち猫族による『獬幇』支部へ向かう。おい犬っころ、必死こいてついてこいよ。へばったら置いていくからな」
なにおう! と憂炎が反論するより早く。
ハヤメの視界に映る景色が、残像となった。




