第百四十二話 野良の本懐【後】
「僕にかまっていたせいで、旭月を怒らせてしまった」
──あぁもう、うるさいっ!
──あいつのところに行けばいいだろ、ばかっ!
梅雪がじぶんではない猫を可愛がっていたところを目撃した紫月が、癇癪を起こして飛び出した。
「落ち込む君をはげまそうと、使用人が厨係の目を盗んで、とびきり美味しいお茶を淹れようとした」
あぁそうだ、それで。
「……そのせいで、君は猛毒に倒れたんです」
茶葉に毒が入っていることを、明林は知らなかったから。
「混乱する早家を、目の当たりにしました。愛しい君が生死の境をさまよっているのに、僕はなにもしてあげられなかった……」
そうだ……思い出した。
あのとき偶然邸宅の庭で見つけて可愛がっていたのは、栗色に白と黒の毛がまじった野良猫だった。
三毛なのに雄なのがめずらしいって、やかましくさわいでいたじゃないか。
「君を救ったのは旭月。僕は最後まで、なにもできなかった。そもそも僕がいなければ、君が死にかけることもなかった。僕は……どう足掻いても疫病神なんだ。だってそうでしょ? 僕が愛そうとするほど、君が傷つくだけなんだから」
それが、一心のいう罪。
決してゆるされぬ大罪なのか。
「だから僕は、君のもとを離れることにしました。死ぬまで、この想いをかかえていようと」
愛を知った一心は、一族へ戻り、やがて長となった。
早家を追われた紫月を、むかえ入れてくれた。
「君とは、二度と会うつもりはなかったんです。でも二年前、百杜の地で不穏な動きをしているやからがいるときいて、気づいたら飛び出していました」
百杜が焼け野原になった二年前。
一心がさがしていたのは、紫月だけではなかった。
「それでも、遅かった……また君を助けられなかった。いくらじぶんを責めても、僕は無力だった……そうやって、失意のどん底に突き落とされた僕の前に、ひょっこり君があらわれたんです。もう意味がわからないですよね」
一心はわらう。ぎこちないけれど、彼の本心からの笑みだった。
「君のえがおを見た瞬間、抱きしめたくてたまらなかった。僕を呼ぶその唇を、唇でふさぎたくてたまらなかった。君のそばにいる未来を、思い描くようになってしまったんです」
あぁ……とため息をもらした一心は、早梅へ鼻先をふれあわせる。
「君を僕のものにしたい。愛し愛されたい……そればっかりで、頭がいっぱいになります。ははっ……重いですよね」
「重いかもしれませんが、簡単に押しつぶされるほど、私は弱くはないですよ、一心さま」
「っ……」
身を引こうとした一心のほほを、早梅は手のひらでつつみ込む。
とたん、一心の笑みが、くしゃりとゆがんだ。
「……もう、離れたくない」
「はい」
「すき……好きです、梅雪さん。愛しています」
「……はい」
「あぁもう、何度言っても足りない……っ」
好き、大好き、愛してる。
一心はうわ言のようにこぼしながら、濡れたほほを早梅へすり寄せる。
腕いっぱいに抱きすくめ、密着したからだは、熱いくらいだ。
「君がだれを愛していてもいい。ただ、僕が君を愛していることを知っていて。君を、愛させて」
そういって泣き笑う一心の表情は、見惚れるほどにきれいだった。
雨上がりの空に、虹が架かったように。
「梅雪さん、君は僕のすべて。このいのちは、もう君のものだよ」
甘い声をひびかせた唇が、そっとほほにふれ、ぺろりと舐められる感触。
早梅がくすぐったさに身をよじれば、追い討ちをかけるようにぺろり、ぺろりと。
「逃げないで。もうすこしだけ、このままでいさせて?」
早梅へほほをすり寄せる一心の頭には、ひょこひょこと動くふわふわの耳があった。
背後には、ゆらゆらと揺れるしっぽがあった。
「ねぇ……僕を見て?」
ダメ押しのごとくささやかれたら、もう。
「困った猫ちゃんだなぁ……」
苦笑いで敗北宣言をして、あとは甘えたがりな猫の気のすむまま、されるがまま。




