第百十一話 七彩に舞う【後】(イラストあり)
下界──央原へ。
紅白の蓮池を見下ろす高殿をおとずれた早梅が告げる言葉を、金王母はじっと聞き届け、やがてうなずいた。
それから三日。出立の日をむかえる。
「さびしくなるわねぇ」
「私もです、燕おばあさま」
金玲山の麓、瓏池のそば近くには、静燕をはじめとした面々が、早梅たちを見送るために足を運んでいた。
「蓮虎ちゃんは」
「連れていきます」
これから行く先には、波乱が待ち受けている。
乳飲み子を道づれにすべきではないのでは、と悩みもしたが、そんな夜のことだった。
添い寝する早梅の指を、蓮虎がきゅっと握ったのだ。ちいさな手で、離すまいとするように。
理由など、それだけで充分だった。
「母親まで、この子をひとりにするわけにはいきませんから」
なにがあったとしても、じぶんたち親子は離ればなれにはならない。
(この子は、私がぜったいに守る)
わが子をかきいだく早梅の双眸には、揺るぎない決意がやどっている。
「梅雪ちゃんが決めたことなら、それが一番だと思うわ」
静燕はほほ笑むと、となりでうずうずと落ち着きのない黒慧を見やった。
「梅雪さま、これを受け取ってください!」
「おっと。これは……」
黒慧に突然差し出されたのは、早梅の手のひらにおさまる大きさの鏡だった。
満月のように丸く、裏面には五色の宝玉の欠片が散りばめられている。
「瓏池でひろいあつめた宝玉を、僕の陽功で溶かしてつくった鏡です」
「黒慧の手作りなの? 素敵なもんだねぇ」
「はい、宝玉の霊力、それから僕の力と想いをこめているので、離れていても、梅雪さまをお守りします。邪悪なものは近づけませんし、もし嫌いなやつがいたら、この鏡をかざしてください。燃やしますので!」
「ははっ、それはたのもしいなぁ」
「僕は金玲山を離れられませんが……いつでも空から見守っております」
「ありがとう、小慧。お嬢さまも、おぼっちゃまも、私がお守りするよ」
「皇兄上がおっしゃるなら、心配ないです!」
この三日間、黒慧は時間がゆるす限り、早梅や黒皇たちのそばにいた。楽しい想い出をたくさん作ったのだ。
さびしさよりも、愛しさが勝っている。そんな清々しい表情をしている。
「小梅」
「王母さま……この二年、たいへんお世話になりました。ゆく宛のない私をあたたかくむかえてくださり、いただいたご恩には、感謝してもしきれません」
「すべては、そなたの人徳が呼び寄せた縁。細かいことはよいのです。そなたも妾のかわいい子。いつでも帰っていらっしゃい」
「もちろんです」
深々と下げた頭を、金王母にやさしくなでられる。
早梅よりも幼い見目をした金王母だが、そのぬくもりは、まさに母から与えられたものだった。
「そうですわ、餞別がまだでしたわね。小燕」
「はい、王母さま」
金王母の言葉を受け、静燕が歩み寄る。
静燕が胸にかかえた包みをほどくと、透きとおるように薄い絹の織り物が早梅の目に入った。
「すごい、きれい……」
「妾と小燕からの贈り物です。七色の糸を紡いで織った羽衣ですわ。妾の陰功を込めています」
「星の力に反応するようになっているの。亥の刻〔午後十時〕から丑の刻〔午前二時〕まで、陰の気がもっとも強まる夜の刻にこれをまとえば、自由に空を飛ぶことができるわ。『七彩雲海』だって抜けられちゃうわよ」
「金王母さま、玄鳥元君、私はお嬢さまとおぼっちゃまを空に落としたりしませんが」
「ふふっ、わかってるわ。だけど、こうでもしておかないと後で困ると思ってねぇ」
「おうおうおう! 俺のことほっぽって和気あいあいとしてんじゃねーか、みなさん方よぉ!」
決して忘れていたわけではない。すがたが見えないなぁ、忙しいのかなぁ、と思っていただけで。
そんな晴風が、満を持して颯爽と登場する。
「支度してたら遅くなっちまった。お・ま・た・せ!」
まぁ、そうだろう。子孫と小子孫を溺愛している風おじいさまが、見送りに来ないわけがないよねぇと、このときの早梅は楽観的に考えていた。
「行っちまうんだろう、梅梅?」
「はい」
「俺が泣いて引きとめると思ったろう。だがな、そりゃあ大間違いだぜ」
「はい……?」
「なぜなら! 俺も行くからだ!」
「え?」
「俺も! 行くのさ! ばあちゃんには許可もらってるぜぇ!」
「えぇえええ……!?」
「初耳なんですが、青風真君」
「いま言ったかんな!」
「観光ではないんですよ」
「るせー、そんなことわかっとるわ! 俺だってなぁ、かわいい梅梅を泣かせた屑野郎に一発くれてやりてぇんだよ! あと隠居に飽きた!」
「本音がもれてます。青風真君は、そんなに喧嘩にお強くはないでしょう」
「おうよ! 剣とかはサッパリだが、悪霊退散と泣き虫坊主の世話はできるよ! だから頼れる晴風さんにまかせて、若ぇもんが大暴れすりゃいいのさ!」
突然やってきて、嵐のような主張である。
「そういうことでしたか……玄鳥元君」
「そういうことよ、黒皇」
「たしかに、お嬢さまとおぼっちゃまは落としませんが、青風真君なら落とす自信があります」
「おいそこ失礼だなぁ!」
めまぐるしくくり広げられる論争に、しばし疑問符を浮かべていた早梅は、受け取った羽衣が二組あることにようやく気づいた。
この羽衣を織るのは、そうたやすいことではなかったろう。
ずっと前から早梅のことを考えて、先を見据えてくれていたのだ。金王母も、静燕も、晴風も。
「下界はちょうど、亥の刻をまわったころです。美しい星夜ですわ」
歩み出した金王母が、断崖絶壁の手前で立ち止まる。目下には、ゆるく流れる七色の雲海がひろがっている。
「小鳥に続いて、『七彩雲海』を抜けなさい。羽衣に身をまかせていれば、星のまたたきが、そなたたちをもっとも必要とするひとびとのもとへと導いてくれます」
黒皇を見上げれば、うなずき返される。差し出された手を取り、早梅はどこまでも続く雲海を見下ろした。
背中に吹きつける風が、早梅の後を押すようだった。
「梅雪さま、皇兄上……お元気で」
「小慧も」
「梅雪ちゃんたちをお願いね、兄さん」
「俺にまかせとけ」
言葉を交わしあったなら、もう道は定まった。
「そなたの意思は天の意思。そなたの剣は天の剣。さぁ、おゆきなさい。悪を断ち切り、荒れ果てた大地に、幸福の花を咲かせるのです、瑞花元君」
「おおせのままに──金瓏聖母」
行く先がたとえ修羅の道であろうとも、おそれはない。
「ゆきましょう、央原へ」
風が吹きすさび、羽衣がひるがえる。
かくて瑞花は乱れ舞う。
悪を断つ、大志をいだいて。
【第二章 瑞花繚乱編 完】




