9. 野分あと
その夜、千寿丸は両親と一緒に夕餉を食べていた。
弟と妹は食事を既に済ませ、もう乳母が寝かしつけている。
千寿丸は未だに普段通りに話す切っ掛けがつかめず、ただ黙々と飯を口に運んだ。
気まずい雰囲気に耐えかねてか、いつもはあまり宮中の出来事を話さない父が唐突に口を開いた。
「今日、宮中でおかしなことが起きたのだ」
父はその『おかしなこと』を母に詳しく語った。千寿丸は危うく吹き出すところであった。
特に烏帽子を落とした大の男どもが走り回った話になると、母は顔を袖で隠して「まあ、まあ」と何度も繰り返した。
「斯様に、主上の御前でとんでもない騒ぎが起こったことなど、聞いたことがない」
「まあ、本当に、一体どうしてそんなことが」
「誰が一体なんのためにやったのか。それが分からぬから、困っているのだ」
「まあ」
「まったく、大変な失態だ。左大臣殿は悲殿院での手当てを充実させるように指示された。流行り病が落ち着いたとはいえ、まだまだ助けを求めている民は多いからな。それに加えて、民の暮らしに大きな問題がないか、徒に価格が上がっているものがないかどうかの調査も行われることになった」
どうやら朝廷は困窮した下々が何をするかわからぬことが恐ろしくなったらしい。
父は考え深そうに頭を左右に振った。
「あの騒ぎを起こした者はよほどの知恵者よ。まるで旋風のように騒ぎを起こし、誰も捕まり罰せられることなく、見事に民に目を向けさせたのだから」
「誰がやったのかは分からないのですか」
「検非違使が必死に行方を探しているのだが、あれほどの人数がいたにも関わらず、ようとして手がかりがつかめないらしい」
「まあ」
「大きな声ではいえないが、一体どのような者がことを起こしたのか、知りたいものだ」
千寿丸は表情が分からないように椀の中の飯をかきこんでいたが、父が真面目な面持ちで言うのを聞いてついに堪え切れなくなり、飯を吹き出した。
「まあ、まあ、千寿丸、お行儀の悪い」
むせ込んだ千寿丸に母は眉をひそめ、父は怪訝な顔をした。
「どうかしたか、千寿丸」
「い、いえ」
しかしなおも二人の視線は自分に注がれている。
そこで千寿丸は口を拭い、飯が置かれた懸盤を脇に追いやり、居住まいを正すと頭を深く下げた。
「父上。元服のこと、宜しくお願い致します」
そして顔を上げ、二人の顔を見た。
「父上と母上の子として、恥じぬよう、生きて参りたいと思っております」
そうはっきりと宣言すると、父は嬉しそうに「そうか」とだけ言い、母はそっと目がしらを抑えた。
胸の奥にずっとつかえていたものを、漸く取り払えたような心地がした。
千寿丸は善日寺のお堂で小百合、あかね、安平と並んで座っていた。
安平の優勝を報告し、無事な帰郷を願うためだった。
昨日の夕方に集まるはずが、激しい野分のために今朝になったのだった。
目の前の地蔵菩薩にじっと見つめられている気がして、自然と背筋が伸びる。
お堂の中に入るのはこれが初めてだった。なぜか中に入るのを避けていたことに気づく。自分の心に曇りがある時は、向き合うのが怖かったのかもしれない。
安平が改まった様子で頭を下げた。
「皆、ありがとう」
「安平さん、お礼を言うのはこっちの方です。あなたのお力に本当に助けられました」
千寿丸が言い、小百合とあかねが同時に頷くと、安平は照れたように笑った。
「おいら、その言葉を忘れないよ」
あかねがしんみりとした声で言った。
「もう行っちゃうのね」
「あかね、市で土産を一緒に見てくれてありがとう。やっぱり女子のものは女子に見てもらうに限るな。おいら一人では、きっと一生かけても決まらなかったと思う。いいものを探してくれて、みんなが大喜びするよ」
「あたしも安平さんの家族に会ったことないけど、なんだか昔から知っているような気持がして、楽しかった。安平さん、ずっと元気でいてね。またいつか会えるといいのだけれど」
「あかね、やっぱり、おいらと一緒に近江にいかないか。おいらの家族も、きっとお前を家族の一員として迎えてくれるから」
あかねは首を振った。
「ううん、あたしは都に残る。だって、ここがあたしの故郷だもの。お父ちゃんとの思い出も全部、ここにあるから・・・あたし、どこにも行けないわ」
すると今度は小百合があかねに言った。
「ねえ、あかね。お前が都に残りたいのであれば、私の女童になる気はないかしら」
あかねは驚いた表情で小百合を見上げた。
「あたしでいいんですか。でも、あたしは・・・」
小百合はあかねの手をそっと取った。
「いいのよ。側にいてほしいのだから」
そしていたずらっぽく笑った。
「でも習うことはたくさんあるわよ。覚悟してね」
その表情は、幼い頃から千寿丸の知っている小百合の顔だ。
あかねは目を輝かせ、元気よく頷いた。
「はい!」
千寿丸と安平は心から安堵してその様子を見た。
千寿丸は三人が先に立ちあがり、外へ出るのを待ちながら、改めて地蔵菩薩を見た。
無表情の地蔵菩薩。見る者の心をそのまま映す。
じっくりとお顔を見上げたその時、はたと、木彫りの地蔵菩薩の左頬が黒ずんでおり、染みのように見えることに気がついた。
――― もしかして
いや、そんなことがあるはずがない。考えるだけ馬鹿馬鹿しい。
頭に浮かんだ考えを振り払うようにして、千寿丸は勢いよく立ちあがった。
数週間前と、何も変わっていない。
自分が捨子であったかどうかはわからないし、朝廷も何事もなかったように動いているし、季節だって暑いままだ。それでも、ひとつだけ確かに変わったものがある。
あんなにすべてが終わりのように思えた毎日が、今は大切に思える。
楽しそうに話しながら階を下りていく小百合とあかね、そして安平の大きな後ろ姿を見た。
何かがひとつ違えば、出会えなかったはずの友。自分の心だけは自分が変えられると教えてくれた。
しかしこの出会いだけではないのだろう。数多の偶然が折り重なり、立ち止まる日々があったとしても、きっと誰かの導きや支えを受けながら生きていける。
お堂の扉のところで立ち止まり、境内を見渡した。昨夜の野分のために、庭は折れた木の枝や萎れた草花でたいそう荒れ果てて見える。
すべてを消し去ってしまうのではないかと思うほどの雨風が、ひと晩中荒れ狂ったのだ。
しかしそれでも今朝、眩しいほどに空は澄んで高く、気持ちの良い穏やかな風が吹いている。そして門の横の大樹はしっとりと濡れた枝を大きく風に揺らし、燦々と降り注ぐ日の光に輝いていた。
「朝を迎えることは、こんなに尊いことなんだ」
確かめるように呟いた。忘れていたことのようでもあるし、初めて知ったことのようでもある。
ふと名を呼ばれたような気がして、振り返った。
お地蔵様が確かに微笑んでいた。




